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過去の日記一覧


この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。
■ 旅行(フランス)カテゴリー

カテゴリ「旅行(フランス)」に投稿されたすべてのエントリのアーカイブのページが、新しい順番に並んでいます。
一つ前のカテゴリーは、「旅行(スイス)」です。 次のカテゴリーは、「旅行(日本)」です。

1995年04月10日

 SNCFはなかなか払い戻しをしたがらない。去年の5月に Beaune を旅行したとき、さいしょは Dijon から TVG に乗り換えて巴里に戻るチケットを自動窓口で買いました。ところが接続を調べてみると、Beaune から Dijon まで乗る予定の特急が Paris-Gare de Lyon 行きだったんです。しかも、Dijon での乗り換えには連絡時間が1時間あって、結局この特急に乗りっぱなしでも、巴里到着は5分違うだけでした。
 で、窓口で即座に TGV のキャンセルを申し入れたんです。そしたら、
「TGV のほうが速くて快適じゃない」
「いったいどういう理由でキャンセルするのっ?」
 といった調子で、とにかく「このまま TGV にすればっ!」という攻勢でした。
 こういうときは論理的に経済性を訴えるに限る。敵も納得してくれて、めでたく払い戻しが認められました。ただし、その場で rembourser してくれたわけじゃないです。身分証明書を提示したうえで、こちらの連絡先を申告する。で、向こうがコンピュータをたたいて、必要事項を入力する。それから払い戻しの証明書とあたらしいチケットをくれました。
 二週間後、払い戻し額相当分は、小切手で郵送されてきましたです。だから、旅行者の場合だとその換金手数料、しかもフランから円への換算もあるから、3000円ぐらいの差はないのと同じでしょう。


1994年10月15日

 ニースで車に乗る直前、犬のう○ちをふんずけたのは、M田さんであります。そのあと、しばらくの間、車のには芳香が漂ったのでした。ニースのあと、グラースで臭い消しをしてくればよかったかも。
 グラースといえば、香水の販売コーナーで、とあるマダムがとれてきた犬が異常に興奮していました。まあ、犬にあの香水の集積は相当応えたのでせうね。


1994年05月15日

「小杉さん、ちょっと停まってもらえますか」
「うん?
 いいよ。ちょっとまって……はい」
 石畳の一方通行の小径を徐行していたので、小杉さんはすぐに車を左側に寄せて停めてくれた。
 車が停まったのは、《Hotel des Remparts》という飾り文字のついた建物の前だった。

 **

 リヨンを出発するまえ、町村さんの自宅で、ボーヌのホテルのパンフレットを見せてもらった。以前、Bourgogne さんが薦めてくれたホテルのものだった。
「十室しかありませんね」
 町田さんがパンフレットを見ながらつぶやいた。
 ——十室だけ?
 こりゃだめだ。
「電話で予約したほうがいいでしょうかねえ?」
 いくらなんでも、もう満室でしょう、と、ぼくはこたえた。
 町村さんのアパルトマンを去るとき、ホテルの名前はメモしていかなかった。

 レンタカー屋のガレージから、小杉さんが車を発進させる。ルノー・クリオのせまい後部座席から、ぼくはぼんやりと外を眺めていた。ボーヌの街の外周道路から、町田さんがまえに指さした標識のところを左折した。舗装道路から、古い石畳の道に入る。
 パリ市内のまあたらしい[・・・・・・]石畳と違い、ボーヌの古い道は、かなりでこぼことした感触だった。足のふかふかした昔のアメ車だったら、すぐに気分が悪くなりそうだ。
 左折してすぐ左側は、ちょうど城の一角のような建物だった。その隣は、前庭が広く、赤や黄色など、原色の装飾がこまかく配された邸だった。車があまりスピードを出せない路面だったので、ボーヌの古い街並みをじっくり眺めることができた。
「そこ、左折ですね」
 助手席から町田さんが言った。《Information》 の標識が左折方向に向かっていた。小杉さんが、一方通行の道に車をあやつる。
 とにかくインフォメーションまで行けば、ホテルはなんとかなるだろう。
 ふっと、左の建物を眺めると、フランスではおなじみのホテルの標識が目に入った。
 ——なかなかしゃれた建物だな。
 と、思った。
 ——名前はなんだろう?

《Hotel des Remparts》

「!」
 急に思い出すものがあった。
「だめモトで部屋を聞いてみましょうか?」
 誰にも異存はなかった。
 町田さんとふたりで、部屋の交渉に行った。
 入り口はいかめしい門なんかではなく、ごく普通の、ガラス窓のドアだった。長いノブを下にひねり、内側にドアをあける。
 入り口のすぐ左には、古めかしく、つやの渋い大きなデスクが置いてあった。そこがフロントなのだろう。
 デスクには、ラテン風の美人がいた。立ち上がって、われわれふたりに微笑みかける。
 だめモトでも、来ただけの価値はあったような気がした。
「四人なんですけど、二部屋ありますか?」
「ええ、一晩ですか?」
 彼女の愛想のよい笑顔が心地よかった。
「そうです、一晩だけです」
 実にあっけなかった。いくらオフとはいえ、これほどしゃれたホテルなら、十室くらい、もううまっていると思った。しかし、彼女のくちぶりからすると、予約客はまだいないような感じだった。
「お部屋をご覧になりますか?」
「あ、お願いします」
 ちょっと待って、と町田さんにひとこと。車で待つ小杉さんとみどりに、空室があることを告げた。
「部屋がよさそうだったら、予約しちゃいますね」
「ここのホテルなら文句ないよ」
 小杉さんはすでに満足げだった。みどりにも異存なし。
 ふたたびホテルのロビーに戻る。
 町田さんと二人で、ラテン美女のあとに続いた。
 ロビーは二十帖ほどで、質素な応接せっとがデスクの向かいにあった。その隣は、朝食をとるための小スペースになっていた。
 彼女は食堂スペースのわきを抜け、そのまま中庭に向かった。わき沿いには、三色旗、星条旗、EC旗にまじって、日の丸の小旗が立っていた。その前には、観光コースのパンフレットがならぶ。
 ちいさな中庭の先に、丸い、塔のような一角がある。細かな石の敷き詰められた中庭を、彼女はその塔に向かって進んだ。
「なんだか、随分と渋い建物ですね」
 塔を見ただけで、なんだか嬉しい気持ちになってきた。町田さんも同意見だった。
「とても古い建物ですね」
 螺旋階段を先行して登る彼女に尋ねた。
「十七世紀に建ったんですよ」
「へえ、十七世紀ねえ!」
「内装は何度もかえていますけど」
「十七世紀じゃあ、まだ生まれてなかったなあ……」
「あはは……」
 われわれが案内された部屋は、フランス式の三階だった。この建物の最上階だ。
 階段をのぼりきって、右側の部屋に案内される。
 きれいなカバーのかかったベッドがならぶ。天井の斜めの角度が半分残る。部屋の右のほうから、そとの明るい光線が入っていた。
 十分なスペースが快適そうだった。空気はここちよく乾燥し、すっきりとした黒い柱が、ほこりひとつないことを証明していた。
 うん、異議なし。
 続いて向かいの部屋に向かう。
 ドアを空ける。
 急に広々とした空間が広がった。建物の中心線にあたるのだろう。逆V字型の天井が、わきの方ではかなり低くなっていた。小さな机が、片側を天井に接するかたちで置かれていた。
 たっぷり十帖はありそうな部屋だった。奥の方に、うすピンク色のカバーのかかったベッドが、前の部屋よりもだいぶ迫った位置におかれていた。
 ——小杉さんと、町田さんは、向こうの部屋のほうがいいんじゃないかな……

 どちらの部屋も文句のない雰囲気だった。
「ひとつだけ、問題があるのよ」
 ラテン美女が、妙に強調するかたちで「une chose」と言った。
 バス・ルームのドアをあけ、彼女が申し訳なさそうに言った。
 なんだ、トイレが使えないのか?
「ここ、シャワーが使えないの。バス・タブにはつかれるけど」
 ほっとひといき。
「Pas Probleme!」
 肝心な問題はほかにあった。
 ここは、三ツ星のホテルなのだ。
 パリではいまだかつて、二ツ星より上のホテルには泊まったことがない。つい前日泊まったリヨンのホテルは三ツ星だったが、週末割引で格安だった。
 観光地で三ツ星ホテルにとまるのは、だから、スリリングな経験だった。
「料金はいくらですか?」
「それぞれ380フランです」
 え?
 パリの二ツ星と同じ?
 躊躇することはなにもなくなった。
 町田さんと目頭でうなずきあう。
「じゃ、一晩お願いしますね」

われわれ二人は、ラテン美女のあとに続いてフロントにもどった。
 さあ、あとは黄金の丘めぐりだ!


1994年05月13日

「いい上昇気流だなあ」
 谷底から吹き上げる風に、わかいた細かいすなつぶが舞い上がった。つち埃というよりも、石灰の粉というようなかんじのすなつぶだった。
「小杉さん、こんな崖のうえも、飛んだことあるんですか?」
 オーバーハングさえしている絶壁の底を、平然と見据える『おいちゃん』に尋ねた。
「こういう風が、ハング・グライダーには一番だよ……」
「でも、飛び降りるような気分でしょう?」
「まあね。そりゃ、慣れてない初心者がやったら、あぶないさ」
 出張先からの直行だったので、このときのおいちゃんは、相変わらずYシャツに紺のスーツ、黒の革靴という姿だった。崖のうえからハング・グライダーで舞い上がる《おいちゃん》の姿は、ビジネスマンの格好からは想像できなかった。
 あらためて、谷底をのぞきこむ。
 ハング・グライダーとは、一生、縁がなさそうだ……。

 リヨンからボーヌまで、電車で約一時間四十分の行程だった。普通電車の二等車両でも、ちゃんと三人座席がふたつ組みになったコンパートメントがある。
 始発駅の Lyon Perracheから乗ったわれわれは、禁煙車両のコンパートメントをひとつ確保した。確保するとはいっても、オフシーズンなので、乗客はそれほど多くなかった。発車十分前でも、まだ空のコンパートメントが多いくらいだった。
 ぼくひとりが進行方向の反対向きの席に座る。
 眠い。
「座席を手前に引けば、リクライニングできますよ」
 町田さんは真ん中の座席の手前でかがみ、腰掛けの下の部分を両手で引いた。ぎぎっときしむ音を立てながら、座席が十五センチほど手前に移動した。背もたれの部分は、移動した距離だけ角度をゆるめた。
 窓際の席に座った小杉さんは、すでにうつらうつらしていた。
 前日、レンヌで山村さんご夫妻と夕食をともにしたそうだ。ワインを二本あけて、まだ酔いが残っているらしい。たしかに、この日、リヨンのしゃれたカフェでとった Bavette d'Aloyau の煮込みを、小杉さんは半分以上残していた。
 目が覚めたら、小杉さんも疲れがとれて、空腹を覚えるに違いない。そのときになったら、Bavette がとてもとてもおいしかったことを、思い出させてあげよう。
 町田さんもどうやら眠る体制にはいったようだ。ぼくの正面では、みどりが
「地球の歩き方」を眺めている。
 だれも足をのっけないことを確認してから、座席を仕切る肘掛けを持ち上げた。
 靴を脱いで、座席の上に足をなげだす。入り口の厚めのカーテンが、ちょうど手頃なクッションのかわりだ。
「そんな格好をしていたら、町田さんが足を乗せられないじゃない」
 さっそくみどりがご注進してきた。
「あ、町田さん、気にしないでのっけて下さいね。はじっこに寄りますから」
 眠る体制にはいっていた町田さんが、はなしかけられて目をあける。
「いや、この姿勢で大丈夫だから」
 みどりが苦笑していた。
 とりあえず、クレームがなければやってしまえ——フランス式交渉術であった。
 出発二十分後くらいに検札があったほかは、ほとんど眠ったままだった。
 ボーヌに到着したのは午後四時頃。日本の国内旅行なら、宿を探して、ひと風呂浴びて、あとは夕食をのんびりと待つ——そんな時間だろう。
 五月のフランス、日没はすでに九時すぎだ。四時というのは、日本でいえば、まだ一時か二時くらいの感覚だ。
 リヨンでは朝がた少しだけ残っていた雲は、もう、どこを見ても破片すら見えない。気温は二十五度を越えていた。パリを出るときにはいていたコーデュロイのズボンが、鞄のなかの邪魔者になっていた。
 ボーヌの小さな駅舎を出てから、小杉さんがなにやら探していた。
「せっかくだから、レンタカーを借りない?」
 賛成。
 でも、駅前でさえこんな閑散とした街に、都合よくレンタカー屋があるのかな?
「いいですね。でも、エイビスかハーツじゃないと、ちょっと不安でしょう?」
「まあ、そりゃ、大きいところの方が、保険とかはしっかりしているからね」
 と、小杉さんとはなしているとき、ハーツの看板が目に入った。
「よかった。簡単に見つか……」
 事務所は引っ越したあとだった。
「とりあえず、街のインフォメーションに向かいましょか?」
 町田さんが、道路の先の標識を指さした。《Village Centrale》《information》
 街中に入れば、レンタカー屋もあるかもしれない。
「あ、バジェットがあるよ!」
 街の外周道路の信号を待っていたとき、小杉さんが左の方を指さした。さきに《information》に行った方が……と言う前に、小杉さんはバジェットの方に向かっていた。
 小杉さんが営業所のドアを空け、「Hello!」とひとこと。
「でもここ、あすの日曜はあいてませんね」
 町田さんがドアに書いてあった営業時間を指さした。なかに入りかけた小杉さんが、え、ほんと、というような表情を浮かべた。
「ま、とりあえず聞いてみましょう」
 提案した手前、ぼくも小杉さんと小さな営業所のなかに入った。
 小柄なマダムは細かな質問にも丁寧にこたえてくれた。
 小杉さんはもう借りるつもりでいた。われわれも、せっかくブルゴーニュまで来たのだから、「黄金の丘」を散策してみたいと思った。
 外はまっさおな空、時間はまだ午後四時、ひとっぱしりすれば、十分に遠足できる時間だ。お天道さまは、まだ南の空。西の丘の端までは、十分すぎる隙間が残っていた。
 一日借りたいのだけど、と言うと、彼女はあっさりと構わないと答えた。
「でも、日曜は休みじゃないんですか?」
「店の前に乗り捨てておいて。ロックをしておいてくれればいいわ」
「鍵はどうするんですか?」
「ドアの横に、郵便受けがあるでしょう?
 その中に放り込んでおいて」
 一同、思わず郵便受けのほうを見てしまった。
「で、あとは……?」
「……あとはって、それでおしまいよ」
 なるほど。
 パリだとこうはいかないが、ボーヌだとこれで十分なのだろう。
「なんだか、途中まで降りてみたくなるなあ」
 町田さんは、すでに崖の少しさき、岩のでっぱったところに進んでいた。
「うーん、見ている方が怖い」
 小杉さんが呟いた。ハング・グライダーなしだと、小杉さんだって崖は怖いのだ。
 町田さんが乗っている岩は、深さ百メートルはありそうな絶壁のうえに、オーバーハングした出っ張りだった。横からみると、もう一段、下までさがれるようになっている。
「でも、登れる保証がないしなあ……」
 アドベンチャーを中止した町田さんが戻ってきた。
「よくあそこまで進めましたね」
 車の近くから眺めていたみどりが、町田さんにたずねた。
「ぼくら、仕事でこういう崖をおりなきゃいけないこと、ありますからね」
 確かに、崖で遭難事故などおこったら、誰かが救助に行かなければならない。消防局に勤務していれば、その誰かになる可能性も高いだろう。
「降りるのはともかく、登るのがたいへんですね。ここだって、降りるだけなら……」
 ぼくなら降りるのもパスしたい。
「さて、そろそろ行こうか」
 小杉さんの呼びかけに応え、われわれはバジェットで借りた、ルノー・クリオの小さなボディにおさまった。


1994年05月12日

 菜の花畑が広がっていた。
 どこまでも、どこまでも、黄色い花畑が広がっていた。
 小さな菜の花畑が、寄せ集まっているのではなかった。
 広角レンズをつけたカメラを、おもいきりローアングルにして、小さな畑を誇張したのでもなかった。
 ひとつ、ひとつの区画が、見渡すかぎり、かなたまでつながっていた。
 電車のなかから、もたれ気味の胃をさすりながら、外をぼんやりと眺めていた。
 前の日とうってかわって、ときおり雨のぱらつく天気だった。
 かなたの地平線と、かなたの雲の境界があいまいだった。あいまいな境界あたりまで、菜の花畑がのびていた。きのうの午後は、真っ青な空と、菜の花畑の黄色、そして、まだ若い緑のぶどう畑が、くっきりとした線を浮かびあがらせていた気がした。

 ブルゴーニュの丘をながめたとき、山並みのみえないことが、印象的だった。
 地図をみるまでもなく、それはあたりまえのことだった。狭い日本と違って、ここは大陸のはしくれ[・・・・]、ゆるやかな丘を背中にすれば、目の前は地平線が広がるだけだ。ブルゴーニュの丘はゆるやかで、とがった山並みなど、見えるはずがなかった。
 ブルゴーニュといっても、ワインのなだらかな瓶を思いえがくだけだった。
 その土地について、あれこれ想像したことはなかった。
 ワインの里といえば、どうしても北海道の池田や余市、山梨県の勝沼あたりを連想してしまう。どの街も、畑が地平線まで伸びていることはなかった。かならず山並みが見えた。天気がよければ、ぶどう畑に残雪の残った山脈は、じゅうぶん絵になる景色だった。
 ブルゴーニュでついつい山並みを探したのは、勝沼などと比べたからではなかった。
 菜の花畑に出会うと、遠くの残雪の山を探すクセがあるだけのことだった。信州の野沢、とくに北竜湖あたりは、そんな絵になる風景をたのしませてくれたものだった。

 胃がおもい。電車のゆれが気になる。朝、無理矢理流し込んだコーヒーが、どうやら失敗だったようだ。
 もらった胃薬の包みをやぶいた。前の日にボーヌの街で買ったヴォルビックの栓を開く。腹に力が入らなかったので、ついつい電車の揺れにゆすられてしまう。胃薬の顆粒が少しこぼれ、袖口に水玉のような粉のあとがついた。
 薬を舌の上にのせ、ミネラル・ウォーターで一気に流し込む。舌先にすこし苦さが残った。その苦さを確認しただけで、なんとなく、胃が軽くなったような気がした。同行者に気づかれないよう、一度、軽いげっぷをした。
 旅行の帰りに胃がおもい——だけど、おもさを感じるたびに、むしろ楽しい気分さえあった。
 胃がおもいのも当然だった。パリに住んでから粗食が身についていたにもかかわらず、前日に夕食では、アントレからバター・ソースたっぷりのエスカルゴを味わったのだ。メインのボリュームが、それに劣るはずがない。チーズとケーキという二重のデザートも、胃には申し訳ないと少しは思いながら、うきうきと味わってしまった。
 子牛のメダイヨンにかかったソースは、前菜のバター・ソースにからまれた舌の上でも、はっきりと自己主張をしていた。
 正直言って、フランス料理のこってりしたソースは好きなほうではない。もちろん、うまいと思うけれど、おろし醤油やわさび醤油で食いたいと思うことのほうが多い。
 でも、このときは最後まで、醤油や大根おろしを恋しくなることがなかった。
 柔らかな肉をたっぷり味わったあとは、パンでソースを味あわせてもらった。十分後、給仕はほとんどぴかぴかになった皿を、ぼくの目の前から下げていった。


1994年05月09日

 ええ、リヨン、ボーヌより復帰しました。
 胃が痛い。わはは、これは贅沢な胃痛なのぢゃ。
 Hotel des Rempartsは最高ですね。


1993年08月31日

 場所:パリの南西約60KM
 交通:パリ Montparnasse/1 よりSNCF で50分。往復で一人126Frs。
 電車は Grande ligne より1時間2本ほど発車。
「i」:街に数箇0所あり。駅にあり。ただし、全て日曜休み。
 シャルトルまでの間に、ベルサイユ、ランブイエなど、城で有名な街を通過する。景色は相変らず「富良野」であるが、途中にあった花畑が美しかった。11世紀頃の造りと思われる古い教会も車窓を過ぎて行った。
 シャルトルの見所はステンドグラスで有名なノートルダム寺院である。ガイドブックの写真よりも数倍の迫力がある。一瞬、京都の三十三間堂を思わせる石像の回廊が、寺院の中央を巡っている。ちょっと見ただけでも何か秩序を持った造りがある。解説を見たら、キリストの生涯を表したものだという。最後の方はキリストの処刑から復活に至るところを表現していた。不謹慎と言われるかもしれないが、僅かに足を出しただけのキリスト処刑の場面におかしさを感じた。復活の場面では、キリスト像のない十字架がかかっていた。
 夏には毎日曜パイプオルガンのコンサートが開かれる。
 シャルトルの街は小さく、3時間で主な見所は散策できてしまう。12世紀頃に立てられた家屋を中心とした町並みは、随所でタイムスリップした気分を味あわせてくれる。特に寺院の中庭を降りたところにあるお掘り、何箇所かにかかる石造りの橋が閑々とした時間の流れを偲ばせる。堀の水は以外と透き通り、水草の中を小さな魚があるいわ漂い、あるいわさっと逃げて行く。すみでじっとしていた鴨がするすると泳ぎだし、時折上体を水に突っ込んでは魚をついばんでいる。こんな風景を眺めている背景には、900 年前に建てられ、今では使われていない教会が残る。花壇だけは丹念に整えられている。
 主な見所は、「circuit touristique」「monument historique」などの表示を辿れば洩らさず見ることができる。ただ、冬の重苦しい空の下では、この街はあまりにもノスタルジックかもしれない。夏の明るい空の下でこそ、気分転換のタイムスリップを味わえるのだと思う。


1993年07月05日

 ジャパン・レイルパスは日本人だと使えないのだそうです。無論、パス自体は日本国外であれば誰でも買えるのですが、これを実際に利用する際、JRの窓口で本物のパスに交換しなければいけないとか。実は策夏の一時帰国の際にこのパスを使おうと思って旅行業者に聞いてみたのです。そしたら、JR窓口で海外にかなりの長期間居住していることの証明を求められることがあり、ちゃんと示せないと交付してもらいねいとか。証明と言っても、国際結婚しているとか、帰化しているとかでないと証明にならないそうなのです。だから、実質的に使えないのだとか。
 これって、一番短いパスだと東京大阪を新幹線で1往復するだけでモトが取れるのですよね。
 まあ、我等にはユーレイルパスやDBパスがあると思って諦めるしかない?


1993年04月11日

 レンヌを出たのは夜11時に近い時間だった。日中こそ雨が降ったり止んだりであったが、夜になったら雲一つ見えなくなった。フランスに住み始めて初めて見る澄み切った星空である。
 稚内でも感じた事だが、緯度が45度以上になると北極星が空高く輝いているという感を受ける。ましてや稚内より遥か北に位置するレンヌともなると、北極星を「見上げる」という感覚だ。空低くにカシオペア座の姿も認められたが、この緯度になると1年中地上に姿を見せている。カシオペアがこの位置なら、北斗七星は天頂付近であろう。木星の圧倒的な輝きも見えた。
 ずっと運転しっぱなしのパトリシアには申し分けなかったが、後部座席で体を大きくのけぞれせ、リアウィンドゥからしばし星空をながめた。窓越しでもかなりの星の数が見えた。アブデルに「星を見るのが好きか?」と尋ねたら、即座に「オレは詩人じゃないから寝るほうが好きだ」という応えが帰ってきた。
 この日泊めてもらうことになっているパトリシアの両親宅に着いたのは、夜12時頃であった。家の途中にライトアップされた古城の姿があった。運転疲れにもかかわらず、パトリシアはその周りを1周してくれた。封建時代のものとしては一番古い城だということだ。明日帰る前にゆっくり見物しようということになった。

 旅行に出ると、初日こそ寝つきが悪いものの、第2日目からはどんな場所でも寝られるのが特技であった。しかし、ブルターニュ3泊目のこの日はなぜか寝つきが悪かった。頭を洗っていないからだろうか?
 朝9時頃アブデルが起こしにきた。寝ついたのが2時過ぎと思われるので、カナッペのベッドから出ても足元がフラついた。下に降りるとパトリシアの両親は勿論、アブデル達も朝食を終えた後だった。
 アブデル達は近くに住むパトリシアの祖母に挨拶してくると言って出かけていった。残った我々2人はまだぼっとする気分のままで、パンとコーヒー、チーズだけの朝食を取った。パンを簡単に浸すことができるよう、小さなボールでコーヒーを飲んだ。パトリシアのお母さんは我々の昼の弁当として、サンドウィッチを作ってくれているところだった。
 アブデル達が帰ってきた。みやげに鳥や魚の形をした中空のチョコレートを買って来てくれた。イースターの週間だということだ。子供達はこのチョコレートを庭に隠すという習慣もあるそうだ。鳥の形をしたチョコレートには、ひよこや卵の形をしたチョコレートが入っていた。魚の中は魚であった。
 パトリシアの両親の見送りを後にして、我々は帰路に向かった。途中、昨夜レイトアップされた姿だけをぐるりと巡った古城に足を止めた。城そのものは戦災のために外壁と見張り台が残るのみであるが、堀や町並みはまだ昔の面影を留めているようだ。
 駐車場に戻ってさあ城を1周しようという頃、突然パトリシアの両親がやって来た。何事かと思ったら、昨日我々が買ってきた牡蛎を冷蔵庫に忘れて行ってしまったのだった。城に寄ってから帰るということを知っていたので、わざわざ車で追いかけて、届けに来てくれたのだった。
 城の裏側に回ると、旧市街とでも言うべき古い町並みが残っていた。城自体が11世紀のものなので、この町並みが成立したのも900年前ということになろう。源氏物語の時代と大差ないのだから驚きである。一番古そうな建物は半ば倒れかけていたが、衛星通信のパラボラがちゃんと立っているところが「現役」であることを示していた。ちょっと古い建物には壁に聖マリアのミニチュアがはめ込んであった。雰囲気としてはドイツの町に近い。
 城を後にして、我々は4日前に来た道を逆に辿った。フジェールを出るころ曇りだった天気も途中から晴れてきた。ル・マンを過ぎ、再び北海道のような風景を何となく眺めていた。渋滞に出くわすころには、モンパルナスタワーの姿が見えてきた。

 パリに住み初めて10ヶ月経ちました。この時期をフランスで迎えるのは3度目の経験なのですが、パリ及びパリ近郊以外の土地を訪れるのは初めての経験でした。果たしていつまでフランスに滞在できるかは分からない(実際、10月で帰国という可能性もあります)のですが、これを機会にまたどこか訪ねてみたいものだと思っています。
 因みに、昨年9月より流通が始まった20フラン硬貨の裏は、今回訪れたモン・サンミッシェルがデザインされています。


1993年04月10日

 レンヌには8時過ぎに到着した。途中でレンヌ大学の学生寮に住むサレと別れた。学生寮とは言っても高島平の団地のような大規模な建物群である。パトリシアも学生時代はそこで過ごしたそうだ。
 レンヌに着いてから、どこで食事をするかであちこちをフラつくことになった。こういう時は観光客の方がスパっと決めてしまうのだろう。なまじ地元の人間だと、かえって持ち駒が多いだけにあそこがいいここがいいと迷う羽目になる。結局、アブデルが一度だけ入ったことのある「馴染みの(このあたりのレトリックは彼もアラブ人である側面をよく示している)」ドイツ料理屋に入ることとなった。
 パリにしても地方にしても、大衆的なレストランは本当にサービスが気持ちよい。フランスにハイテクとサービスは存在しないとは、口の悪い日本人の口癖であるが、レストランのサービスは文句なくフランスの方が良いように思われる。特に大衆的な所の親しみやすさは格別だ。打算的な意味ではなく、やはりチップが収入源であることの影響だろうか。少なくとも、職業意識に大きな違いを持たせるように思われる。日本のタクシーのサービスが悪くなったのは、チップの習慣を廃したためだというタクシー運転手のコメントを思いだした。
 カミさんは念願かなってシュークリュートを食した。これにはジュネーブで苦い思い出があったので、私は肉の煮込みを頼んだ。向かに座ったロランスも同様であった。他の面面も皆シュークリュートであった。
 2時間ほどを食事に費やした後、レンヌに住むサイッド、ロランスを別れることとなった。道のド真ん中で別れの儀式である。ちゅっちゅっ。アブデルとサイッドも男同士のアンブラセである。


 ディナンでしばしタイムスリップを味わったあと、我々はサン・マロに向かった。古い町並みで有名な港町で、イギリスとの定期航路があるため、イギリス人観光客が特に多い町でもある。
 日曜で天気もまあまあとあって、町の中は人込みでごった返していた。駐車場も当然満配で、我々は城壁の門からはかなり離れた埠頭の部分に路上駐車した。車のすぐ横には小型のフェリーが停泊していた。
 城壁の外側からの眺めは、まるで絵に書いたような古い町の造りである。見晴らしの塔にはフランス国旗の他に、ブルターニュ地方の旗、サン・マロの旗などが翻っていた。ディナンもそうだが、何となくドイツの町並みに雰囲気が似ている。建物の木組み、屋根の形なども、ドイツの中くらいの町にありそうな雰囲気である。ただ、不思議なようだがドイツよりも質素な色彩である。
 城門の中は人、人、人である。恐らく住民よりも多くの観光客で賑わっていたことであろう。耳に入ってくる言葉はフランス語よりは、むしろ英語やドイツ語の方が多かったように思われる。東洋人の姿は殆ど認められなかった。
 建物の造りや城壁の雰囲気は確かにヨーロッパの古い町の魅力に満ちていた。ただ、ゆっくり町の顔を眺められる点で、ディナンの方が印象的であった。町そのものは確かに一見の価値はあるが、ここではタイム・スリップを味わうには至らない。
 町を一度突っ切って、海沿いの門から一度波止場に出た。ここを城壁沿いに回り込むと、砂浜が広がる一角に出た。城壁がそのまま防波堤のような形になっていて、途中一箇所梯がかかっていた。ここから浜に降りることができる。城壁沿いに進める道は途中で途切れており、その先には海の中の根に建てられた小さな見張り台のような建物が見えた。
 ここを一度引き返し、途中にあった小さな船着場の先端まで行ってみた。この時は干潮だったらしく、船着場の左右は所どころ水たまりの残る干潟が広がっていた。その干潟の上を丸々と肥ったカモメが歩き回り盛んに足跡を残していた。サン・マロ近辺は牡蛎等がふんだんに採れるので、恐らくカモメもえらく栄養が良いのであろう。
 船着場の先端でほんの一時海を眺めた後、再びサン・マロの町に戻った。午後も暫く経った後なので、皆空腹であった。そしてサン・マロで食事をするとなれば、自動的にガレット+クレープである。
 最初にくぐった門の近くに手軽なクレープ屋があるとパトリシアが言うので、皆一目散にそこを目指した。途中古い教会があり、数分だけ中を覗いた。教会の造り自体はパリ市内にある教会と大差ないのだが、ステンドグラスの色合いがモスグレーや煤けた黄色を中心にしており、パリのカトリック系教会より地味な印象を抱かせた。
 教会沿いに巡る道は人通りも少なく、古い倉庫風の建物などもあって一瞬ディナンと同じような感覚を抱かせた。尤もこの気分を瞬く間にぶちこわしたのが、教会沿いの一角から放たれたPispisの刺激臭である。

 3時頃の遅い昼食をサン・マロのクレープで取った。ブルターニュ標準プロトコルに従い、まずはシードルで乾杯、そしてガレットを一皿である。残念ながら、シードルを飲む器はグラスであった。パトリシアが「ちぇっ!」と舌打ちしていた。
 モン・サンミッシェルで私は「oeuf, jambon et fromage」を頼んだが、今回はフルトッピング、つまり「galette complete」を頼んだ。値段は20F、味はこちらの方が良かった。他もだいたいcompleteを頼んでいた。アブデルはバターを「大盛り」で頼んでいた。
 一皿でもかなりボリュームがあったため、追加のクレープには至らなかった。デザート代わりのコーヒーを一杯飲んだ後、サン・マロを後にすることになった。何やらガレットを食べに来たようなものであった。
 サン・マロの次に向かったのは、カンカール(Cancale)の港である。何でもここでは海産物を直売しているそうで、牡蛎の買い出しに行こうということになった。サン・マロの東約20kmほどの所である。私は横浜の雑踏育ちなので、港のあるところはやはり楽しい。今では横浜の海に砂浜はなくなってしまったが、私が小学生の頃は屏風浦(京浜急行で上大岡の1駅先)は潮干狩の名所だったし、京浜富岡は海水浴で賑わっていた。磯子や本牧にはよくアイナメ釣りに行ったものであった...。
 既に6時近くだったため、牡蛎の直売をする店もそろそろ帰り支度を始めていた。干潮の海には牡蛎の養殖を行っているらしき囲いがむき出しになっていた。堤防の下では牡蛎の殻から身の残りをつっついたいたカモメの姿が見られた。栄養が良いせいか、このカモメどもも恐ろしく肥っていた。
 アブデルとパトリシアが牡蛎を買い出している間、残る者達はかすかに虹の残る海を眺めていた。ブルターニュ地方はどこかで必ず雨が降っているのであろう、虹の姿が全く珍しくなくなった。ロレンスが何か急に呼びかけた。海の向こうに浮かぶヨットの横に、モン・サンミッシェルが見えると言うのだ。目の悪い私であるが、確かに海の彼方にキス・チョコのような姿をおぼろげに認めることが出来た。
 アブデル達が戻ってきた。全然値切れなかったと不満気であったが、袋に一杯の牡蛎を持ってきた。「牡蛎のツラ」を拝むためには、あの堅い殻を自分達でこじ開けねばならない。
 買い出しが終わった後、レンヌに戻ることにした。駐車場までに戻る間、古い小さな大砲が無造作に置いてあった。下の話が好きな私はここぞとばかり大砲にまたがり、「Voila, mon canon!」と騒いだ。この種のジョークが好きなのは世界の男共通?アラブ人特有?それとも我々固有?なのか、サレとサイッドが写真を撮るからそのままでいろと叫んだのであった。


 最初に到着したところはレンヌとサン・マロの間にあるディナン(Dinan)という古い街であった。ここは「地球の歩き方」には載っていないものの、フランスではかなり有名な観光地だとのことである。中世の町並みがそのまま残っており、歩いているとタイムスリップしたような錯覚に陥る。街にはかなり高い橋を渡って入るのだが、中心街から石畳を下りながら12世紀の建物と身近に接することが出きる。馬籠や妻籠の規模を大きくしたような感じのところである。
 古い建物は喫茶店、レストラン、あるいは陶器の工房になっていた。坂を下る途中時折振り返ると、写真好きなら殆ど進むことが出来なくなるような「絵になる風景」が延々と続くのであった。レンタカーでブルターニュの旅を計画されている人には、絶対にお勧めできる場所である。
 坂を下り切ったところ、そこは川沿いの道である。仰ぎ見る橋は遥かかなたにあるという感じだった。駐車場まで戻るためにはそこまで登らなければならない。そう思うとますます遠くに見える気がした。
 坂の途中から見下ろす川沿いの倉庫群も見逃せない光景である。街道の商人の街として、歴史の教科書に出てきそうな景色である。坂を登り切って道を渡ると城壁にさしかかるが、ここにはライトアップの設備があった。
 しばしタイムスリップの散策をした後、俄雨が降ってきた。空の半分は青空だし、太陽もまだ姿を見せている。私が空を指して「Mariage du renard」(「狐の嫁入り」のつもり)と言うと、サイッドやアブデル達が驚いたような顔をしていた。理由を聞いたら今度は私が驚いた。モロッコではこういう天気雨を、「Mariage du loup」(「狼の嫁入り」)と言うのだそうだ。狐も狼も種類から言えばイトコのようなもの、表現の不思議な符合に全員で大笑いした。そういえば、アラビア語で「toi」は「アンタ」(女性形は「アンティ」)と言うことは以前教えてもらった。ここぞとばかりサイッドの肩を叩いて「あんた!」と言うと、再び笑が盛り上がった。


 さすがにパーティ疲れのため、皆起きてきたのは11時頃で、それからパンとコーヒーだけのブランチを済ませた。ヨーロッパの人はしばしばパンをコーヒーに浸して食べる。実は私のオヤジもかような癖があったので、私にもそういう習慣があった。ここでも皆ちゃぷちゃぷとコーヒーにパンを浸して食っていたわけであるが、面白いことに、パンを簡単に浸せるよう、コーヒーはカップではなく小さなボールについである。
 出発前、ティエリーからポルトガルを旅行したときのアルバムを見せて貰った。ポルトガルの女性が荷物を運ぶ際、インド人のように頭に乗せる光景が珍しかったと言っていた。我々はヨーロッパというと一つのイメージで捉えがちであるが、実際ポルトガルの寒村の風景はむしろインドや東南アジアに似ていた。すくなくともフランスとは全く異なる。
 アルバムを見せて貰った後、ティエリーが車庫を見に来いという。私はてっきり中古のスポーツ・カーでもあるのかと思ったが、車庫の中にはモーターボートが入っていた。ティエリーの趣味は釣りなのだそうだが、ここまでやるとはさすがである。「残念ながら海の上では写真が撮れない」というので、私はすかさず愛用のニコン・ピカイチカリブを見せた。これは距離計タイプの小型カメラながら、水深5mまでOKという全天候型のスグレものである。あまりに価格を安くしすぎたので、ニコンがあっさりと製造中止にしてしまったそうだ。2,000Fで買ったと言うとティエリーの目が輝いた。今は全く入手不能だと言うと、本当に残念そうであった。
 パリでの再会を約してティエリー&ベロニック宅を後にした。この日はまずはレンヌの待ちを見物しようということになった。
 レンヌの中心街の駐車場に車を止めると、アブデルが何やらとある喫茶店に向かった。彼は1年だけレンヌに住んでいたそうでる。レンヌ大学にはモロッコ人学生が多く、彼の友人の多くがまだレンヌに住んでいるそうだ。煙草の煙が濃厚に漂う喫茶店の一角に、アブデルを始めとするアラブ人のグループがいた。彼の見込み通り、友人立ちがたむろしていたのだ。我々もその輪に加わった。20分ほど雑談した後、その中の一人が「オレが案内してやる」と言って、我々を街見物に連れて行ってくれた。

 ブルターニュはフランスの中で一人当たりのアルコール消費量が最も多い地域だそうだ。アブデルの言によれば、「レンヌには飲み屋しかない」そうである。これはさすがにオーバーだとしても、最初に我々が通過した通りは確かに左右どこを見てもバーかブラッスリーであった。繁華街の飲み屋密度、住民の気位、街の古さ等を考えると、日本で言えば金沢に相当するようなところだと思った。
 さすがにレンヌ在住者の案内とあって、観光ガイド頼みとは趣の異なる案内をしてもらった。突然普通の建物に入ったかと思うと、「ここの階段は造りが古いから面白いだろ?」とか、古い城壁の一角に入って、「あの中華料理店の地下はディスコになっているんだよ」といった調子である。途中雨に降られたが、1時間ほどかけて主な見所を案内してくれた。
 と、ここまで書いていて自分の記憶違いに気づいてしまった。以上の出来事は9日(土)のことで、モン・サンミッシェルからベロニック宅に向かう途中の事であった。
 4月10日はアブデルの幼なじみの住むアパルトマンに向かうところから始まったのでありました。
 で、レンヌのアパートでアブデルの幼なじみサイッド、そのルームメイトのロランス、サイッドの友人でレンヌ大学生サレの3人と合流した。我々4人と併せて合計7人でドライブである。


1993年04月09日

 窓からこぼれる光はグレーがかっていた。どうやらこの日は雨男アブデルの勝利を予感させた。
 徹夜明けの疲れが手伝って、起きた時には既に12時をまわっていた。パトリシアの両親は既に出かけていた。昨日聞いた話しでは、シャトー巡りの25kmハイキングに行っているはずだ。我々はアブデル夫妻とパリにいる時と代わらぬ遅い朝食を取った。当然、パンとコーヒーだけのコンチネンタルである。
 この日は海上の寺院として有名なモン・サン・ミッシェルに向かった。フジェールから約50km、途中の景色は相変らず富良野・美瑛である。途中から雨が降り始め、雨男アブデル曰く「これがブルターニュの週末さ」。
 私は横浜育ちゆえ、海と言えば丘の向こうに見えるものという感覚が強い。湘南海岸でさえ、鎌倉の山を越えた向こうに広がる。だから、ブルターニュのようになだらかな丘陵の果てに海があるという光景には違和感を覚えた。潮が引いていたこともあって、海というより干潟の中という雰囲気であった。
 小雨が時折パラ着く中、突然モン・サン・ミッシェルが浮かびあるようにして視界に飛び込んできた。近づくにつれて絵や写真でおなじみのキスチョコ型輪郭がはっきりしてきた。島に至る道の両側が駐車場になっているのだが、路上の駐車スペースは既に満配で、結局先端部にある有料駐車場に止めることとなった。風がかなり冷たかった。
 島の門をくぐると案内板が立っていた。満潮の時間も記されていた。そして、案内板にはフランス語、英語等に交じって、日本語の説明も書かれていた。フランス駐在の日本人は必ず訪れる場所というから、かなりの数に上るのであろう。尤も、オペラ座界隈とは比較にならない。
 島に入ってしばし狭い坂を上る。両側は古い石造りの建物を利用したみやげ屋でいっぱいである。ちょうど京都の二年坂、參年坂辺りに渋谷のスペイン坂風猥雑さを加えたような雰囲気である。場所が場所だけあって、英語をしばしば耳にした。ここではイギリス人がおのぼりさんである。

 まるで江ノ島のようなモン・サン・ミッシェルのロケーション、ぐるりと一周した後は教会に上ろうとした。生憎とその時は昼休みだったので、30分ほどカフェで時間を潰すことになった。
 午後の見学開始時間は1時45分からである。2分前に入り口に着いたのだが、まさに門前に列をなす状態であった。結局開門からチケットを買うのに30分以上かかってしまったが、タイミングの悪いもので、この頃から雨足が強くなってきた。
 中にあった日本語の解説版(!)に、教会とブルターニュ地方の簡単な説明が載っていた。建設は11世紀のことで、英仏100年戦争の折は要塞となっていた由である。パリ市内にある教会より質素な作りで、ステンドグラスもかなり控えめな色遣いだった。天井も板張りである。
 上部の中庭とそれを囲む回廊は一見の価値がある。礼拝堂からその回廊に出たときは、外の光と中庭の緑がとても眩しく、繊細な造りの小さな柱の並ぶ光景に一瞬声が漏れてしまった。回廊自体は一周数十m程度のものであるが、半周した辺りから教会の塔を覗き込むことができ、また振り返れば断崖絶壁から眺めるような海の光景が広がる。
 教会内部は見学用の順路が設定されており、1時間もあれば丹念に見てまわることができる。最後の6番のところで人垣ができていた。格子戸が閉まって中に入れないようになっていたのだ。ところが、戸の下の方で日本語で何やら呟いているフランス人女性が、必死に鍵を明けようとしていた。しばし他のやじ馬たちと眺めていると、どうやらフランス人ガイドと一緒に旅行していた日本人家族がいて、子供が戸の鍵を締めてしまったらしかった。ヤジ馬たちはてっきりここを通過しないと帰れない思っていたので、心配気に事の次第を眺めていた。最後は結局かのガイドが「右側から降りられますよ」と一言、それから行列はしずしずと降りていった。
 教会を一通り見た後は、風も出てきたし昼も食べていなかったので、モン・サン・ミッシェルを後にすることになった。ここはライトアップされるので、黄昏時や月夜の晩などはさぞ美しかろうと思われる。次に訪れるときは是非とも満月の夜に訪れて、ムーンライト・セレナーデなどを口笛で奏でたいものだ。人さえいなければさぞロマンチック、と言いたいところだが、人気がなかったらさぞ不気味であろう。こういう所は観光化されてちょうど良いと思った。
 ブルターニュの食べ物と言えばやはりクレープであろう。私もかつて横浜元町のブール・ミッシュにしばしば通ったくらいなので、ブルターニュ旅行の楽しみの一つがクレープであった。
 ところで、パリでもちょっとしたCreperieなら「Crepe」と「Galette」をはっきり区別している。辞書によればガレットは「そば粉を使ったクレープ」とある。実際、クレープとでは使っている小麦が違うので、腰の強さや色が当然異なる。もう一つ、両者の「具」がはっきりと区別されている。
 ガレットの具はチーズ、卵(サニーサイドアップ)、玉葱、トマトなどである。トッピングは自分で選べるが、全て少しずつセットされたものもあり、メニューの中に「Galette complete」と書いてある。値段は20F前後。
 クレープの方は砂糖を中心にショコラやマロンのクレーム、バナナ、アイス等で、パリのクレープスタンドとだいたい同じである。さすがに全て込みというものはない。値段はやはり20F前後。
 ブルターニュ出身のパトリシアによれば、まずシードルで乾杯、そしてガレットを1皿か2皿食べ、それからクレープを1皿、最後にカフェというのが正当プロトコルなのだそうだ。そして、シードルにはグラスではなく茶碗に似た焼き物の器を使うのが正調だという。この辺りはお好み焼き屋でまずお好み焼きを1、2枚、それから焼きそばを食う、お好み焼きを食べるのには箸ではなくヘラを使うのが正調、などと言うのと同じ類であろう。東京だとお好み焼きの前にもんじゃというオプイCS(N)>Vョンもある。
 因みに正調クレープ屋はパリ市内だとモンパルナスに集中しているので、パリで食してみたい方はそこでおためしあれ。モンパルナス通りの途中、メトロ4番Vavinとメトロx番Monparnasse bienvenuの間あたりを、タワーに向かって左側に伸びる小道にクレープ屋が集中している。

 島へのアプローチの途中にあったクレープ屋で遅い昼食を取った。雨の中を歩き回ったので、体中びしょびしょである。と、この種の展開には極めてありがちのことであるが、ガレットを食し終わるころには雨がすっかりと上がり、空の向こうには晴れ間さえ窺うことができた。
 この日はパトリシアのお姉さんベロニックの家に泊めて貰うことになっていた。場所はレンヌの郊外である。1ヶ月前に引っ越したばかりだそうだ。ベロニックには一度パリのパトリシア宅で会ったことがある。彼女の家に向かう途中太陽が顔を見せ、平坦な土地に半円状の壮大な虹が架かった。
 ベロニック宅には6時頃到着した。彼女の旦那さんはティエリーといって、レンヌに工場を置くキャノンに勤務している。だからといって、特に日本語が得意だとか日本贔屓というわけではないから、それだけキャノンが多国籍企業として認知されている証拠なのであろう。ファックスとレーザープリンタの営業管理を行っているとのことだった。
 この日は土曜ということもあってパーティが行われる由で、彼女達はつまみ作りなどに励んでいた。この日のメインはアブデルの作るモロッコ風クスクスである。彼の家には良く招かれ、クスクスも2度馳走になったことがあるが、これは本当に絶品である。他の料理の腕も中々なもので、彼のおかげで私は未だにパリのうまいアラブ料理屋というものを知らずにいる。
 我々2人もぼんやりしては所在無気なので、料理の準備を手伝うことにした。野菜の切り出しを頼まれたのだが、フランスではこういう時にまな板を使わずに、ボールの上で削るようにして切る。横ではパトリシアがいかにも手慣れた手つきで切っているのだが、さすがにカミさんも私もすぐには要領がつかめなかった。結局アブデルが羊の肉をさばくのに使っていた俎板をかり、それで何とか用を足した。
 パーティに集まった人数は我々を含めて13人、ベロニックが高校の先生なので、皆学校に勤めている人達ばかりである。フランスではパーティの際に花かショコラを持参するもの、とものの本には書いてあるが、この時何かを持参したのは一人だけであったから、「招かれたら手ぶら」というパターンが増えているのであろう。パリでも概ねそうである。
 これだけの人数が集っても、左右2回ずつのちゅは厳守される。無論、アラブ人はアブデルだけなので、男同士は握手である。ちゅの間に自分のPrenomを名乗り、「Ca va?」や「Enchantee」で間をつなぐ。
 フランスで生活を始めて既に10ヶ月経ったとはいえ、さすがに1ダースもの会話には耳がついて行かない。ここは手近な会話に参加する傍ら、他の流れを観察することにした。見ていて何となく分かったことは、「声の大きいものが会話を制する」という極めて単純な法則である。会話は話題が完結することなく、話の途中から次から次へとポンポン飛んで行く。これはサッカーを思い浮かべれば分かり易いであろう。一人でドリブルしたり、相手にパスしたり、あるいはインターセプトしたり、それでいてシュート/ゴールまでには必ずしも到達しないのだ。流れが変わるのも始終である。
 パーティのホストであるティエリーはシャンパンを用意したり、暖炉でソーセージをやいたりと、実にこまめに動き回っていた。ベロニックもつまみを運んだり、飲み物を用意したりで、この辺り、2人とも黒子に徹していた。
 パーティの始まりは8時頃、12時頃から徐々に御開になった。席を立っても例の儀式とその間の立ち話のため、さあ帰ろうから実際にドアを出るまでに30分はかかっていた。最後のグループが帰った時には、既に2時を回っていた。


1993年04月08日

 来週はイースター休暇で学校が休みなので、かねてよりモロッコ人同級生に誘われていたブルターニュに旅行してきた。彼の奥さんがブルターニュ出身で、2ヶ月に1回の割合で帰省するとのこと、前回も誘われたのだが日本に帰る用があったので「次の機会に」となったわけである。
 メンバーは友人アブデル、その奥さんパトリシア、そしてカミさんと私の4人である。電車で行くより車の方が安くて便利だということで、レンタカーを借りることになった。残念ながら私はまだ法定翻訳もフランス国際免許も申請していないので、運転は専らパトリシアの役目となった。
 行きはパトリシアの友人も一人同行した。やはりブルターニュ出身で今はパリに住む女性である。前に一度面識があるのだが、これが中々の美女。こういう美女と対面の度にほっぺにちゅっちゅできるのだから、やはりフランスはいい国である。
 イースター休暇前の金曜とあって、パリ脱出には2時間かかった。オートルートはまるで土曜の中央高速のような渋滞である。電光番にはBouchon 10kmとあった。ただ、私は前日ほぼ徹夜に近い状態だったので、渋滞表示を見て間もなく記憶が途絶えてしまった。気がついた時には既に渋滞は終わっていた。
 パリの外側は一瞬にして田園風景が広がる。これはパリ・セルジー間でも同じことなのだが、本当に一面なだらかな土地が広がる。北海道の風景がヨーロッパ的だと言うが、本当にその通りであることを痛感した。特にブルターニュあたりの風景は富良野や美瑛の景色そのままである。丘陵の起伏、畑や牧草地の組み合わせ、木の配置、これらはまるっきり2年前にドライブした美瑛そのままであった。
 オートルートの途中、24時間レースで有名なル・マンを通過した。私はF1が好きなのだが、カミさんはどちらかというとプロトタイプを好む。これまでもル・マンは結構見ていたし、今年はナマで見たいと叫んでいる。私はあの三葉虫に似た車がのんびりとピットインしている光景に我慢が出来ないので、今のところ完全拒否の構えである。見るならやはりF1のベルギーGPに限ると信じている(さすがに今の財政ではモナコGPとは言えない)。
 途中、一度だけサービスエリアに寄った。給油及びPisPisである。皆そろそろたまっていたとあって、私の横に座っていたブルターニュ美女がふざけて「Maman! PisPis!」と叫んだ。
 給油後の支払の際、パトリシアがカードをなくしたと言った。レンタカーを借りる際には確かにあったのだから、レンタカー屋に忘れたかもしれないとのこと。店に早速電話したところやはり忘れていた由、スタート早々からトラブル発生であった。
 ドライブ・インの雰囲気などは、どこの国も似たようなものだと思った。トイレの数は日本より少ないものの、フランスの方が清潔なように思われた。ただ、男用・女用の区別が結構紛らわしく、女用の方はすぐにわかる「絵模様」だったのだが、男用の方は一瞬「妊婦」に見えた。それに私が入ろうとしたときにオバさんが入ろうとしたので、私は結構うろたえてしまった。5歩さがって人の流れを眺めていると、立て続けにオッさんが2人「妊婦」マークに入って行くので私も即フォローした。中にオバさんが残っていたものの、入った右側に見慣れた男用のトイレを発見した。
 パトリシアの両親が住むフジェール(Fougere)には8時頃着いた。8時と言ってもまだ日没の約45分前である。ここで同乗美女とお分れである。到着の5分後に彼女の姉が迎えに来た。
 パトリシアの両親宅には9時頃に到着した。実はこの時フジェールがどこにあるのかわからなかったのだが、今日(4/12)地図で確かめたらレンヌの北約50kmのところであった。人口2万人の小さな町だが、ド真ん中に封建時代に建てられたものとしては一番古い城がある。
 パトリシアの両親宅はフランスの地方や郊外で良く見かける「2軒屋」であった。中央がガレージになって、ガレージの境界がそのまま隣との境界になる。1階は全てリビングで中央に暖炉があり、いかにもヨーロッパの家という感じであった。彼女の両親は夕食を用意して待っていてくれた。この日はここに泊めてもらった。
 ブルターニュ地方とあってメニューは魚料理である。前菜ではボイルした海老をたらふく食い、本菜ではホワイトソースのたっぷりかかった白身魚、そしてデザートは地チーズにグラース・オ・ショコラである。アルコールの飲めない私は彼女の父親が作ったオレンジ酒をほんの一口(これは口当たりがえらく良かったため、私には最も危険なものであった)だけ味わい、あとはVolvicであった。それにしても旨かった(料理も酒もチーズも)。(*^_^*)
 12時頃まで雑談の後、ベッドに入った。我が友アブデルの言によれば「俺は雨男だからね」。カミさん曰く「私は晴れ女よ」。この日はパリを出発する時こそ雨が降っていたものの、ル・マンあたりから晴れ間が広がった。取敢ずこの時点ではカミさんが1ポイント獲得したのであるが、肝心なのは次の日以降。そう簡単に毎日天気が良いはずないと思うのであった。



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