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過去の日記一覧


この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。
■ 旅行(日本)カテゴリー

カテゴリ「旅行(日本)」に投稿されたすべてのエントリのアーカイブのページが、新しい順番に並んでいます。
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1995年12月25日

 カミさんと京都に泊まりがけで旅行に行ったはいいものの、突然大雪に見舞われて高速道路が通行止めになってしまい、予定の日に帰れなくなってしまった。車を置いて新幹線で帰る方法もあったが、どうやら雪は一日だけのようだったので、一泊余分に滞在することにした。そうと決まったら、さっそく在京都の知人に連絡を取る。彼は雪道対策バッチリの車を持っていたので、夜の貴船神社に案内してもらった。京都もここまで奥に入ると、さすがに積雪量も半端じゃない。

1995年11月14日

 友人に誘われて尻焼温泉に行く。これまでベスト温泉は北海道知床のカムイワッカの滝だと思っていたが、尻焼はそれ以上かもしれない。眺望はカムイワッカのほうがいいが、温泉としての楽しさは尻焼のほうが上だ。河原を掘れば湯がわく温泉はいくらでもあるけれども、川全体が温泉になっているのはここぐらいのもの。しかも幅が10メートル以上もあるのだから。  夜の宴会では、酔っぱらっいたちにロン毛をおもちゃにされ、聖徳太子風に結われてしまった。

1993年10月29日

 DEA プログラムが始まって2週間経った。結局12月までは週3コマのみである。去年とは比較にならない拘束の少なさだ。それなりに自分でやらなければいけないことも多いのだが、時間はかなり自由に使える。
 実はまだ最終登録を行っていない。当然、授業料も払っていない。意図的にモグリをやっているのではない。2度も登録に行ったのだ。しかし、猛烈な人混みに、ついつい尻込みしてしまった。
 第1大学の登録事務所はトルビアックにある。中華街の一角で、ウチからは83番のバスで10分ほどの所である。ビルの11階に受付事務所があるのだが、そこに至るエレベータにすらまだ辿りつけない。入場制限をしているのだ。1e CYCLE入学者が手続きに殺到し、エレベータのまわりに巨大な列を作っていた。恐らく2時間は待たねばならないだろう。なまじ家から近い場所にあることが、列に並ぶ気を萎えさせている。いつでも来れるからいいか。ついついそう思ってしまうのだ。結局、今日に至るまで最終手続きを行っていない。
 期限が気になったので、クラスの者に尋ねてみた。ベネズエラ人ルイスもやはり行列にびびったそうだ。他に何人かに尋ねたが、皆まだらしい。でもやはり何となく気になる。多分、今日もう一度トライするだろう。
 いつの間にか歳を一つ重ねてしまった。パリに住み始めて二度目の誕生日である。たまたま古いログを整理していたら、去年の誕生日頃のメッセージが出てきた。「このくらいの歳になると、あまりおめでたくないでしょう?」という某パ*リロ氏の書き込みを発見した。真実である。よっぽど意識しないと、誕生日すら知らないうちに過ぎている。十一年ぶりに、一の位の数字が十の位の数字を追い越した。
 昨日の夕暮れがことのほか奇麗だった。学校の場所もいい。講義が終わってバス停に向かうころ、ちょうどたそがれ時だった。
 第1大学の通称はパンテオン・ソルボンヌ大学である。名前の通り、メインの校舎はパンテオンの向かって手前、斜め左にある。入り口は堂々とした構えで、「Universite de Paris Faculte de Droit」と記されている。向かいの建物はパリ5区の役所だ。
 パンテオン校舎を出て、広場を横切ってリュクサンブール公園のバス停に向かった。広場から公園越しにエッフェル塔の頭が見える。ライトアップされた姿がたそがれの空に似合う。パンテオンの上には満月が現われていた。夕方のラッシュアワーだったので、公園前のロータリーはごった返していた。バスが来るまで15分待った。本数の多い27番のバスにしては珍しい。これだけ待っていたため、乗客が多かった。それほど混んでいなかったバスも、あっと言う間に満員だ。真っ先にのったので、進行方向向かって左側のスペースに追いやられた。
 リュクサンブールからゴブランまでは、ほんの10分ほどである。丘を登りきってから右に流れながら下る。下り切る手前付近で、ムフタール市場の端を垣間見ることが出来る。夕方の賑わう時間だった。店には人集りがしていた。


1993年10月23日

 日曜に帰国というのは時差ボケ解消には良くない。別段会社に行くわけではないが、やはり週末を自堕落に過ごしたほうが、結果的に復帰は早いように思われる。実を言うと、まだ朝の変な時間に目が覚めたり、夜中むやみに腹が減る。瞬時に順応できた20代がなつかしい。
 パリに戻った翌日は、教授のところに登録用紙と時間割りを貰いに行った。朝の10時から10時半の間に来るよう言われたので、10時ちょうどに赴いた。教授のコレット・ローラン女史が現われたのは、ジャスト10時半であった。
 家に戻ってから次の日の口頭試問の用意を始めた。最近はOHP を作らなくても、プレゼン・ソフトが利用できるので助かる。フランスの大学でも、最近はパソコンを使った発表が増えている。
 ある程度目処が立った頃、M出さんから電話があった。リヨン駅に到着した由。資料作成の山が過ぎたところで良かった。でないと、徹夜に付き合わせてしまったかもしれなかった。師匠とは山荘オフから僅か2週間後の再会である。夕食をウチで取ったが、スーパーへの買い物を付き合わせてしまった。耳掻きが売っていなかったことは、既に報告した通りである。夕食の間、M出さんから文字通り世界各地の話を聞いた。人の行っていない国にばかり訪れているのだから凄い。北朝鮮やモンゴルに行ったことはあっても、フランスは初めてなのだそうだ。
 口頭試問の当日、当然のような時差ボケで6時半には完全に目が醒めてしまった。尤も、試問は午後だったので、十分資料を読み返す時間が取れた。しかし、結果は惨憺たるもの。とにかく口が動かない、舌が回らない、咽が震えないの三重苦であった。4ヶ月のブランクは大きい。
 水曜からは、早速授業が始まった。この日は前半がパンテオンの校舎、後半がソルボンヌの校舎である。どちらもウチから近い。何しろバスで3停留所目である。教室まで正味15分ほど。これほど短い通学時間は、小学生の時でさえ経験したことがない。
 バス停から校舎までの間、有名な高等師範学校の前を通った。パリ第1大学のパンテオン校舎は、パンテオンを正面にして左手前にある。向かいには数学者ガロアやエルミートで有名なリセ、ルイ・ル・グランがある。入り口も博物館を思わせる荘重さであったが、教室は案外とボロかった。それよりもフロア一杯に充満した煙草の煙がたまらない。
 パンテオンでの授業はパリ第9大学(DAUPHINE)との共同である。そんなわけで、授業を受けに来た生徒の数は30人以上であった。この時は師匠であるローラン女史の授業であったが、実は彼女はESSEC の非常勤も努めており、この日の内容は既に今年の2月聴講したものと同じであった。
 ソルボンヌの教室はパンテオン校舎から3分ほど。机は奇麗だったものの、椅子が格子状だったので尻が痛くなった。2時間授業で助かった。講師はブルターニュ系のような名前。中々愛嬌のある女性であるが、常時せわしなく歩き回る癖があるようだ。立ち止ると声が出てこなくなるのだろうか。
 級友とはこの日が初対面である。顔合わせの会合は日本滞在中に行われてしまった。真っ先に親しげな視線を投じて来たのは、例によってスペイン系の学生であった(江下の顔だちはスペイン系、アラブ系に近いらしく、どこでも最初に親しくなるのはスペイン、アラブ系の学生である)。彼はルイスと言って、2ヶ月前にベネズエラから着いたばかりだそうだ。
 木曜の授業はソルボンヌ校舎。それも午後1時半から僅か2時間。大学の授業は本当に楽だ。ESSEC の3分の1しか拘束されない。この日の講師はフランソワーズという、フランス人らしい顔だちの女性であった。ひょっとすると、このDEA コースはオトコの講師がいないのだろうか? 非常に心地良いテンポで話してくれるので、至極聞き取り易い。ただ、OHP を使うのが嫌いだそうで、速写砲のように書く黒板の文字を解読しなければならない。
 金曜は授業なし。本当に気楽なものだ。昨年の今頃は、一番忙しい日だと朝9時から夜8時まで授業という日もあった。それは極端にしても、一日ほぼ3〜7時間は拘束されていた。尤も、Grande Ecoleの中でもESSEC は特に授業時間が長いと言われているから、大学がとりたてて暇というのでもないだろう。
 今晩はイギリスから出張でやって来るK杉さんと食事。T岡ちゃんも誘おうと思い会社に電話したが、彼はミュンヘン出張。残念。


1993年10月15日

 11日は奈良に向かう予定だったが、さすがに深夜出発する元気はなかった。しかし、12日は昼に枚方で友人と会う約束があったので、翌火曜は朝9時にカミさんの実家を出発した。
 枚方には予定通り12時に到着した。友人とは13年ぶりの再会であった。
 5時頃友人宅を辞して京都に向かった。6時15分頃五条通りを過ぎ、目的地の三条に近づいた。
 京都は道が分かりやすくて助かる。この日も頭の中で「丸竹夷におしおいけ、姉さん六角たこ錦、し綾仏高まつまん五条」を再現し、あと何筋で右折するかを確かめた。「経団連ビルを右折して....」などと考えるより、百倍も風情がある。この点、東京は無粋だと思った。
 京阪三条を横に眺め、駐車場を捜索した。ほどなく河原町沿いに市営駐車場を発見した。すでに膀胱が破裂しかけていたので、料金を確かめずに駐車した。入り口に公衆トイレを発見していたので、何のためらいもなかった。
 オフ待ち合わせ場所の京阪三条改札口には、約7分前に到着した。M田さんとT辺の姿を確認。ほどなくS保さん、F野さん、S田さんも到着。5分前に全員勢揃い。Mさん、Nさんの欠席をT辺と二人で大いに悲しんだ。
 ビアホール移動の途中、突然フランス語の会話が耳に入った。さすがは国際都市京都である。外国人観光客の数が凄い。M田さんは途中、フランス人観光客に道を尋ねられたそうだ。尋ねた相手がフランス語で応じたとあって、聞いた方がたまげたそうだ。
 ホールの近くにあった国際電話の使える公衆電話から、フランスに電話を入れた。大学の初会合が13日にあり、その確認をしようと思った。一応、一昨日ファクシミリを入れ、昨日もレポンダーにメッセージを残したが、直接説明しないと安心できない。案内状によると、この会合出席が大学のコース登録の条件だという。パリに帰って入学許可が取り消されていたらどうしよう。
 電話はつながったものの、すぐ保留にされた。誰かと打ち合わせなのだろう。空しく度数だけが10単位ずつ減っていった。一度切ってかけ直したが、状況は同じだった。2月にもらったテレホンカードが一枚消えた。
 この日のオフ参加者は全員が通信のエキスパート。ついつい通信ネタに熱中してしまった。また、オフでなければ聞くことのできないS保さんの蘊蓄ジョークが、着席早々披露された。T岡ちゃんが、ひょっとしたらS保さんの教え子なっていたかもしれなかったことをお伝えした。
 10時40分、2次会の喫茶店もお開き。駐車場の前で解散。滋賀で泊るT辺を乗せ、M田さんに通りまで誘導してもらいながら出発。京阪五条でM田さんともお別れ。パリでの再会を約す。来年の帰国では是非とも伏見寺田屋に泊ってみたい。
 11時半頃、名神高速栗東インター到着。T辺と東京での再会を約して分かれる。この日は多賀サービスエリアにあるレストインに泊ることにした。部屋が満室でも最悪テントとシュラフは持参してある。
 12時半頃、多賀サービスエリア到着。高速道路のレストインは初めて使うが、ビジネスホテルと大差ない設備で格安の料金。これは絶対にオトクだと思った。
 それにしても山荘オフ以来移動が続いている。走行距離600キロごとに給油しているが、既に3度給油して今のトリップメータは300キロ超。ここ2週間で2100キロ移動したことになる。これは13年前に北海道を走りまくった時以来の記録である。
 明日は横浜までさらに400キロ走行せねばならない。
 13日夜、ようやく教授と連絡が取れた。欠席を懸命に佗びたら笑い飛ばされた。入学許可をキャンセルされなくて良かった。


1993年10月14日

 カミさんの実家に篭り、学校に提出するmemoire を書いた。書式はパリの拙宅に滞在するJ君に電話し、ファックスで送ってもらった。
 提出締め切りは10月8日。郵送ではもはや間に合わない。前日学長に電話し、ファックスでの受理を認めて貰った。「おいおい、そんな大量ファックスで破産しないか?」と笑い飛ばされた。
 フランス時間の8日5時頃、ファックスモデムで送信を始めたが、全く通じなかった。念のため電話で状況を確かめたが、呼び出し音だけで機械につながらない。どうやら紙ぎれか紙詰まりを起こしているようだった。1時間後、2時間後とトライしたが状況は同じ。この日の送信は断念した。
 次は月曜朝いちを狙うしかない。2日余裕ができたので内容の追加を始めた。この時点で総量22頁。35頁は突破したい。
 日本時間日曜深夜。取敢ず書けるだけかいた。合計36頁。今度はファックスが通じた。土曜の当直が紙を補給したのだろう。それにしてもファックスモデムは便利だ。送信終了が午前5時。さすがに疲れた。
 翌日、昼に起床。M田さんにファイルを送らねばならない。手元にプリンタがないので、M田さんに出力と郵送をお願いした。ところが肝心のファイル転送がうまくいかない。2ブロック送信したところでハングアップしてしまう。
 圧縮をやりなおしたり、ComNiftyを解凍仕直したり、違うAPからアクセスしたり手を尽くしたが、全て空振り。万策尽きてM田さんに電話した。事情を説明したら、町田さんからish での送信を進められた。
 ish でバイナリーメールをテキスト形式に化けさせて送信を始めたが、途中ノイズが混入して不成功。仕方ないのでタイムパスを使うことにした。
 GO TYMPAS で名古屋APを調べアクセス。ところが変換後のテキストは 300行を越えていた。くそ、ファイルを分割せにゃあかんか!と思ったが、ものはためしで元のバイナリーファイルを送信してみた。今度はあっさりと送信できた。どうやら送信を拒んでいたのは回線ノイズのようだった。
 電話でM田さんに送信成功を連絡、1時間後アクセスしたら出力完了のメールが届いていた。もはや京都に足を向けて寝られない。


1993年10月07日

 昨夜、ちょっと用があって学長に電話した。フランス語を喋るのはほぼ20日ぶりだった。一応話すことのシミュレーションはしておいたのだが、いざ本番となるとボロの出っぱなしだった。学長からは2度「Massa, Je ne comprend pas votre question. 」と言われてしまった。
 これはまずい。19日にはmemoire のsoutenanceがある。30分の発表と45分の質疑応答をこなせるかどうかが心配になった。尤も、肝心のmemoire がまだできていない。
 しかしうれしい知らせもあった。パリの留守宅に滞在中のJ君に送って貰った forme de memoire によると、頁数指定がなくなっていた。昨年度版には70頁ダブルスペースとあって、これがプレッシャーになっていた。いくら速筆と言っても丸4日はかかる。指定がなくなればこちらのものだ。50頁を目標にしよう。しかし、プリンタをどうしよう。京都のM田さんの所まで行くしかないだろうか。
 日本滞在もあと10日となった。フランスに帰りたくなった、と言えばいかにも気障なセリフに聞こえるだろう。しかし、これは単に自分の生活臭のある所に戻りたいという、素朴な欲求なのだ。横浜の実家には自分の部屋がない。一人で住むようになってから、親たちが家を越してしまった。そのせいだけでもないのだろうが、日本に帰ると懐かしさよりも所在なげな気分に陥ることが多い。
 山荘オフの後は移動の連続だった。日曜は渋滞を避けるため、夜遅く横浜に戻った。不景気なので人手がまばらだと思ったのに、中央道は混雑していたようだ。混むわけないよ、と言って見送ったK下くん達には悪いことをしたと反省した。夜、Pさんから電話が入った。雨からは逃げられなかったそうだ。T辺は間違いなく濡れナベになったのだろう。
 月曜は夕方再び原村へと戻った。翌火曜は、朝早く諏訪インターを目指した。家とは反対方向である。松本インターからR158に出て安房峠に向かった。上高地の入り口釜トンネルから峠への急坂の途中、紅葉の始まったV字谷が美しかった。山並の間には前穂高の急峻な峰も窺えた。
 安房峠には正午半頃に到着した。さらに高山を目指す。高山から荘川村、白鳥町と国道を辿る予定だったのが、途中で間違えて白川町に行ってしまった。「鳥」が「川」にバケてしまった。しかし、そこには合掌部落という保存地区がある。9月にS田さんと供にパリにいらしたKさんが喜びそうな一角であった。時間がなかったので、ほとんど素通りした。
 最終目的地の勝山に着いたのは4時半だった。取材を申し込んでいた人に、町中の適当な場所から電話した。偶然のことながら、電話をかけた場所はその方のお宅からわずか50m のところだった。食事を御馳走になってから、予約をしてもらったホテルに戻った。広くて奇麗な設備に驚くほど安い宿泊料。オフシーズンとあって、貸し切り状態だった。大浴場にのんびりとつかることが出来た。風呂から出た後は memoireを2頁書いた。APを調べ忘れたので、ニフティにはアクセスしなかった。
 翌朝、近くの史跡を案内してもらった。昼、蕎麦屋で福井式の蕎麦を御馳走になった。やや太めの手打ち麺が小さめの器に入ってきた。中にはやや粗目のきざみネギだけである。それとは別につゆの入ったどんぶりが出てきた。つゆには大根おろしが混ざっており、これをおたまで器にぶっかけて食う。面白い食べ方だったが旨かった。20代前半であったら、8皿は食えただろう。また食ってみたい。
 1時頃福井北インターから北陸自動車道に乗った。途中、上下線でねずみ捕りをやっていた。燃費運転に徹していたので、何なくクリアした。暫くパッシングライトを出しまくった。擦れ違いざまのトラック何台かが手を上げて応えた。いいことをしたという充実感にしばし浸った。
 夕方、カミさんの実家に着いた。夜になって何度目かのアクセスをした。突然sendでメッセージが来た。UST2でIDを調べたら、Mちゃんだった。2度ほど短いメッセージの応酬後、長いメッセージを送ろうとしたら、するりと逃げられてしまった。
 そして今日になった。memoire は今日が勝負である。ああ眠い。



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