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過去の日記一覧


この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。
■ フランス生活カテゴリー

カテゴリ「フランス生活」に投稿されたすべてのエントリのアーカイブのページが、新しい順番に並んでいます。
一つ前のカテゴリーは、「ネットワーク」です。 次のカテゴリーは、「フランス語」です。

1999年09月22日

 CDG から高速でパリに入るルートは Paris-Nord または Paris-Est から入るアプローチの二通りがあるんですが、右岸はもちろん Paris-Nord の方が早いのだけど、左岸は Paris-Est からの方が早いんですよ。地図で見ると、Paris-Nord からの方が早そうに見える場所も多いんだけど。

 モンパルナスに向かうときだと、Paris-Est の分岐に入り、Bagnolet で periに合流し、Porte de Bercy または Porte d'Italie で降りることになるんだけど、AFのリムジンだとだいたい Porte d'Italie で降りているんじゃないですかね。まあ、Avenue d'Italie が歩道の拡張の結果、道が狭くなり、でかい車だとつっかえつっかえになってしまうんで、以前に比べて多少時間がかかるようになったかもしれませんが。


 地元住民(もちろん地元=パリだけど(笑))が好んで行く服の店ったら、やっぱ Place d'Italie とかモンパルナスざんしょう(バイアスかかっているのは認める(笑))。Les Halles やポンピドーあたりもなくはないけれど、個人的には、シャツはもっぱらオペラの Cafe Cotton(京子食品のすぐ近く)だったほかは、ほとんど Place d'Italie の CELIO でしたねえ。靴は Andre ね(笑)。そういや、先日、久々にオードリ・ヘプバーンの映画『シャレード』を見たのだけど、市場時代の Les Halles が映っておった。

 たしかに高いものしか売ってない地区は少ないっす。シャンゼリゼだって安い店はあるし、MacMahon あたりなら、高級品でも日本よりかはかなりお買い得価格ですね。まあ、モンテーニュ、ルーズベルト、アルマあたりは、たしかに高いものしかないけどね。左岸だと Cherche-Midi もそれに近いかな。まあ、左岸の Cherche-Midi ったら、東京でいえば、かつての代官山みたいなところだから、そりゃ当然かも。
 価格だけでいえば TATI だろうけど、あそこの色彩感覚はちょっとパス(^_^;;)。


1999年08月23日

 7月末に帰国した際、少なからぬ人から「8月末に帰ってくるのだと思った」と言われてしまいました。じつはおれ、フランスで皆既日食が見られるってことを、ぜーんぜん知らなかった。いやね、6月ごろから、なにやら日蝕の写真やらポスターがあちらこちらに貼られているのは気づいていたのだけど、てっきり天文台かなにかの記念イベントだと思っていたんす。知っていたら帰国の時期を一ヶ月遅らせていたかもしれない。日本で皆既日食が見られるのって、たしか2010年だったと思うから。
 
 部分日食なら何度か見たことがあるのだけど、印象深いのは1986年ですねえ。この年はじつは天文現象が目白押しで、部分日食だけでなく、水星の太陽面通過だの火星大接近だのがあった。2010年は皆既日食だけでなく金星の太陽面通過もあったんじゃないかな。
 
 皆既日食では、コロナとダイヤモンド・リングを一度でいいから見てみたいんですよねえ。彗星もそうなんだけど、ああいう天体って、写真と肉眼とでは見え方がぜんぜん違う。写真だとディテールが潰れちゃうから、コロナみたいな繊細なオブジェクトだと、肉眼で見た方が絶対に美しいと思う。
 太陽は肉眼光度がマイナス27等級で、満月がマイナス12等級だから、その差がじつに15等級もある。5等級差で明るさが百倍違うわけだから、15等級差だったら100万倍違うわけだ。太陽がほんのちょっと姿を見せただけで、満月よりも明るいってことですね。


1999年08月12日

 フランスで携帯電話を使う人は、ほんとうにこの2年で激増しましたね。pari-roller でも、人混みではぐれたグループのなかには、携帯電話とトランシーバーがわりに使って再合流する人たちがいました。普及率は4月の時点で18パーセントを越えたのだっけかな。それでも日本の普及率の半分なんだから、日本が異常ってことだよな。


1999年07月02日

 7月9日から一週間は、とりあえずPlace d'Italie近くの短期貸しアパートで過ごすのだけど、さすがに9日は荷出しの当日、pari-roller への参加は無理だろうな(笑)……となると、本日の balade がラストランってことになりそう。16日は昼から旅行に出ちゃうし、そのあとは涙の帰国。2日の走行はパリ滞在7年の最後を飾るイベントとなりそうです。



 今日は左岸をほぼ一周する感じのコースでした。Periと平行する外周の道路が最初のメイン・コースだったのだけど、Porte d'Italieから先の上りがちょいとしんどかった。
 ところが上る寸前の下りで、後ろから暴走してきたdebutantにしがみつかれ、なんか妙に恐縮してあやまっているからなんなのかと思ったら、おれがしていた肘あてをそやつがむしり取り、下に落ちてしまったらしい。かといって、すでにハイペースで進む隊列の中、探しに戻るのは不可能。あっさりと諦めました。

 その後は先週ほどきついポイントはなかったですね。Porte de Versaillesは5月8日のParis-Versaillesのときにも通過した。
 今日のメインコースは、エッフェル塔の横です。Hotel Nikko正面の橋を渡って左岸に戻り、Quai de GrenelleQuai Branlyを進んだんですが、ライトアップされたエッフェル塔を正面に見て、ゆるい上り坂をぐんぐん進むのは気持ちよかった。途中から路面状態が相当良くなったので、けっこうスピードも出せましたね。観光客がカメラでぱちぱちと写真を撮っているんで、目立ちたがりの多い(おれもだけど(笑))pari-roller参加者たちはさかんに手をふってました。





 休憩場所はInvalidesで、着いたのが12時ちょい過ぎかな。この場所もすっかりとおなじみのコースになった。今日が最後なので、この日は近くにいた連中やスタッフと一緒の写真を何枚か撮りました。
 休憩後はInvalidesからMontparnasse、そしてrue de RennesBd St.Germainと進むんだけど、ここも路面状態がいいんで、すんげえ爽快。今日は右足もスケートにうまくのっかれたので、気分よく加速できました(笑)。

 Jussieuでの小休止では、CRSのブレード隊の警官の音頭でウェーブを5回ほど。信号の土台に上って波の状況を見たけど、推定二千人参加とあって、けっこう大きなうなりになってましたねえ。
 その先は、BastillesBd BoudonBd de l'Hopitalという、これまた定番コースを走り、1時ジャストごろにPlace d'Italieの13区区役所前に到着。最後の上りでは息があがってしまったけど、なんとか無事完走し、こうしてラスト・レポートをアップできました。
 今日はえらく蒸し暑かったので、喉が乾きまくった。事前に凍らせておいた the du peche を持っていったのが正解。溶ける途中、水を冷やしてくれた(笑)。

 結局、roller & coquillages に2回、Paris-Versailles に1回、“La Friday Night Fever”に6回(うち1回は途中リタイヤ)、合計9回の balade 参加か。成果は、ダイエット5キロに成功(笑)。
 いやしかし、まさかパリでローラーをやるなんて、夢にも思っていませんでしたね。30年前には近所の道路でサンダル式のローラーに明け暮れ、20年前には代々木公園で空き缶を並べて滑っていたとはいえ、30過ぎてからはねえ。
 出不精ゆえ、パリの街をほとんど知らないでしょとカミさんからさんざん言われていたけれど、これでおれの方が絶対に詳しくなったに違いない。まあ、「あの通りには横断歩道の脇に溝があってね」なんて自慢したってしょうがないけど(笑)。

 ……ということで、中年オヤヂのローラーブレード奮闘記はこれにて完結。長い間ご愛読ありがとうございました。

※ 地図は http://www.pari-roller.com/ に滑走前日掲載されたもの。

1999年06月25日

 随分と参加しているようでも、pari-roller は通算で5回目。せいぜいあと2回かな。でも7月9日は引越があるんで、もしかしたら次回がラストになるかも。無念。

 今日のコースはきつかった。しょっぱなは地元av des Gobelinsからbd Port Royalを通ってモンパルナス経由でInvalides、そこからSt.German通りを通り、bd St.Michelbd Sebastopoleなど、おなじみのコースを滑り、Gare de l'Estの脇を通過してPorte de Pantinへ。ここで pause だったのだけど、時間がまだ早かったので、てっきり整列休止だと思い、立ったままでいたのがちょい失敗。いつもは一度靴を脱ぎ、少し足を開放して疲労回復をはかっていたのだけど、それができなかった。



 いやー、Porte de PantinからPorte des Lilasまでの急坂がしんどいこと。ありゃ自転車でも一気には登れない。途中で立ち眩みがしたくらい。あの坂で脱落した人も多いんじゃないかな。なにせ今日はピーカンだったので、推定3000人ぐらいはいましたからねえ。

 果てしない急坂が終わってからは、長い下りが待っている。ホイールを何度も横にしてブレーキングしてたら、途中でなんか焦げるような臭いがしてきた。今日は靴の方もけっこう痛んだような気がする。
 Place d'Italieに戻ったのが12時半ごろ。出発が10時15分ぐらいだったので、実際の走行時間は2時間半もないっすね。例によって出発前後に体重を量ったら、やっぱ2キロ減ってました。

※ 地図は http://www.pari-roller.com/ に滑走前日掲載されたもの。

1999年06月24日

 ブラスリーの典型的な食事メニューがサラダなんだけど、これはけっこうイケますよ。昼でも夜でも、小腹がすいた程度なら、迷わずブラスリーに入り、salade composee を頼むのが無難な選択ってことが多いです。たいてい5種類以上あって、料金は 40 Frs前後です。

 フランスは牛肉はまずいと思うけど、野菜はけっこううまい方じゃないのかな。トマトやほうれん草なんて、フランスで食べ慣れてしまうと、日本のはまずくてしょうがないですよ。クレッソンやエンダイブも日本は少ないし。まあ、日本ではかわりに旨い白菜や大根が食えるからいいんだけど(笑)。

 行くつけてない土地の一人旅でレストランに入るのは、気分的にけっこう面倒なものがあるんで、ついファーストフードやセルフサービスの店を利用しがちですが、フランスなら圧倒的にブラスリーがオススメですね。カフェよりも食事メニューが豊富だし、一人で入る客も多いですから。次に行くときはブラスリーのサラダを試してみてください。


1999年06月22日

 OVNIに載っていたバカンス期間中の短期貸しアパートの問い合わせメールに返事が来た。こちらの希望する期間、いまのところ空いているとのこと。場所がとにかく近いので、よほど部屋が狭くないかぎりは借りたいと思っている。いよいよ帰国もカウントダウンだ。


1999年06月19日

 最初はパリ市当局もよく認めるなぁ、と思ったのですが、roller の balade って、届け出の上では manifestation みたいですね。Officiel とかミニテルで見ると、manif sportive なんて出てますから。日本でも「これはデモです」と主張すれば実現できますかねえ(笑)。


1999年06月18日

 夏至前の最後の balade っす。久々にまる一日天気が良かった。集合時間の10時になって、やっとこさ日が暮れました。でもまだ外で新聞を読めるぐらいの明るさは残っていた。



 スタートは午後10時15分ごろ。今日はセーヌ川を中央に、ほぼ楕円のコース設定でしたね。右岸の方では、RepubliqueからGare du Nordあたりまで行きました。休憩エリアはVendomeのロータリー。で、けっこう広いエリアをスケーターで独占した状態だったんで、若い連中はぜんぜん休憩しようとしねえ(笑)。中央のモニュメントの周囲をにわかリンクにして、えらい勢いでグルグルと周回し始めた。いやはや、元気のいいことで。

 おもしろいことに、一方向だけに周回するんじゃなくて、途中でいきなり方向転換するんすね。そんなことを何度も何度も繰り返してました。最初の一、二回ぐらいは正面衝突も多かったけど、途中からちゃんと息があうようになるんだから(笑)。

 今日のスプリント・コースはRue de Rennesでした。気分良く隊列の先の方で滑っていたら、後ろからえらい勢いで暴走してきたやつにはじかれ、なるべく安全な形で転倒しました。連鎖転倒が後ろで一人。でもあのスピードで怪我をせずにすんだんだから、リカバリーはかなりうまくいった方だと思うぞ(自己弁護)。暴走してきたあんちゃんは、先の方で待っていて、こっちが復帰したら謝ってました。

 大集団の balade でなにが怖いって、まだキャリアがそれほどないのに体力は有り余っているワカモノの暴走ほど怖いもんはない。交差点とかスタート直後の渋滞では、平気で後ろからぶつかってストップしようとする。3度ぐらい怒鳴りそうになったぞ。
 今回は出発前後に体重をはかっておいたんだけど、25キロを滑ったあとって、体重が2キロも減るんですねえ。水は1リットルぐらい飲んでるんだから、かなりの量の汗が出るってことだな。

※ 地図は http://www.pari-roller.com/ に滑走前日掲載されたもの。

1999年06月12日

 pari-roller も roller & coquillages の方も、圧倒的にインライン(一列のやつ)のローラーブレードが優勢です。もちろん、何で参加しても構わないし、4輪の人もけっこういますよ。スケボーの参加者もいるし(笑)。

 ただ、リンクならぬ車道ですので、凹凸がかなりあるんですよね。アスファルト舗装はほんの一部で、パリですからロータリーは石畳です。こうなると、ホイールが大きいほど滑りやすいんです。この点、四輪よりもインラインの方が圧倒的に楽。とくに上り坂の疲労度がまったく違います。
 ぼくがいま使っているのは、ホイール径が78ミリもあるんですよね。4輪のやつより完全にふた周りでかい。凹凸のある道での滑走は本当に楽ちんです。

 ローラーブレードの方は、オモチャ屋で売っているようなのなら 500 Frs ぐらいかな。子ども用なら 300 Frsぐらいだったと思う。ホイール径78ミリとなると、さすがに専門店(Nomades とか)でないとありません。値段も 1200 Frs以上します。
 で、インラインでも靴に着脱できるタイプがあるんですよ。Nomades でレンタルしているのは、そういうタイプじゃないのかな。まあ、パリ市内なら、テラスもあるんで、スケートをはいたままでも問題ないんじゃないですかね。それかスタンドでサンドウィッチでも買って、公園で食べちゃうとか。
 あと、baladeに参加するなら、プロテクタは必需品です。手・肘・膝、子どもだったら casquette もやってた方がいいです。

 パリ市内でローラー小僧たちが多い場所は、Palais Royalの小さな広場(St.HonoreとRivoliに挟まれたところ)とトロカデロの王宮のところですね。土曜や日曜なんかだと、カップルや学生らしきグループが、パリ市内の広い歩道の道をすいすい滑ってますよ。
 ローラーだったら、やっぱ「ザナドゥ」だよなあ(笑)。


1999年06月11日

 ……ということで、さきほど戻ってきました。もう完全にペースもわかった。楽々完走っす……って、途中、Boulevard de MontparnassからSt.Jacqueに曲がるところを、面倒だからそのままPort Royalに向かって帰っちゃったんですけどね。



 今日は観光コースです(笑)。Place d'Italieを出て、Boulevard de l'Hopitalからアラブ世界センターの前まで行き(ここはもう完全なレギュラー・コース)、橋を渡ってバスティーユを目指し、手前を左折してHotel de Villeの脇を通り、前回と似たようなコース取りでBoulevard de Sebastepoleを進み、左折してSt.Denis門の前を通り(要するに、娼婦街のブロックを囲むように進んだ)、Printemps前で若干休止。ウェイブを6回ぐらいやったかな。

 この時の時間が午後11時で、薄明のなか、金星がきれいに見えました。日没が遅いとこんな時間まで「宵の明星」が見えるんですねえ。で、一瞬流れ星が見えたと思ったんだけど、それがどう考えても雲の下。おかしいなー、と思ったら、宵っ張りの鳩だった。あのあたりの鳩は鳥目じゃねーのか(笑)。
 Printempsからオスマンのロータリーを通過し(日本大使館の近く)、いよいよ凱旋門が見えるところまで来た。じつはそのあたり、うちの大家が住んでいる(笑)。シャンゼリゼを前にして、交通整理のためにしばしストップ。フランス人でも凱旋門やシャンゼリゼって、やっぱ特別な場所なんですかね。なんかもう、みんな興奮状態だった。近所の人はびっくりして目を覚ましたんじゃないかな(笑)。

 Webでルートを見たとき、ひょっとしたらエトワールのロータリーを滑れるのかと思ったのだけど、残念ながら外周の細い道でした。で、いよいよシャンゼリゼ。誰か「お〜、シャンゼリゼ」と歌っておった(笑)。
 しかしこの道、ずーっと石畳だったのね。これはちょっとまいった。下りの石畳って、めいっぱい滑りづらいですから。振動でガタガタきて、途中、靴からホイールが取れた子もいました。

 なんとかルーズベルトまで下り、そこからMontaigne通りを抜け、橋の手前で小休止。ライトアップされたエッフェル塔がなかなか。テレビの取材クルーもいました。もしかしたらちょっとは映ったかもしれない(笑)。
 橋を渡ってからはInvalideに出て、そこで10分間の休憩タイムです。
 再出発したのが12時20分。このときは、隊列のほぼ先頭に出ました。おかげで進行の様子がやっとわかった。先頭には当然先導の白バイがいて、その後ろにはCRSのローラブレード・チームの一人が滑り、その後ろをスタッフ数人が手をつないでバリケード状態で滑っていたんですねえ。で、ある程度進んでからは手を離し、ちょっとペースアップしてました。

 さすがに初心者はダメというだけあって、ペースアップ後はかなり速い。たぶん、大人が全速力で走っても追いつけないぐらいは十分に出ているから、時速にして35キロ以上は楽々いってるんじゃないかな。
 その先はMontparnasseに出て、Tour Montparnasse前で隊列整列のために小休止。で、あとは本来のコースではSt.Jacque通りからDenfert Rochereauに出て、Banqui通りから終点のPlace d'Italieに戻ります。まあ、このあたりはすでに何度も滑っちゃったのでパス。

 よーやっとローラーブレードが足になじんできた。四輪とはフィーリングが違っていたんで、数回滑ってやっとギャップがなくなってきた感じです。ホイールが一列だから、バランスを崩したとき、つい両足で踏ん張っちゃいそうなんだけど、じつはこれがいちばん危険なんだよね。なるべく片足でいたほうが、かえってリカバリーがしやすい。両足で長時間滑るのなら、小さくスラロームしたほうが安定しますね。

※ 地図は http://www.pari-roller.com/ に滑走前日掲載されたもの。

1999年06月10日

 Roller & Coquillages というのは、association の名前です。Pari-roller も同様で、活動の詳細は次のページに出ています。

http://perso.wanadoo.fr/rollers.coquillages/
http://www.pari-roller.com/

 どちらが主宰する balade も、協会に加入していなくても無料で参加できますが、加入しているとスポーツ保険に入れるのと、あれだけのイベントを支えるスタッフに敬意を表する意味で、一応、加入しました。年会費は両協会セットで 250 Frs ぐらいだっけかな。

 機会があったらぜひ Roller & Coquillages に参加してみてください。完走はしなくても、雰囲気を味わうだけでも楽しいと思います。大人なら集合場所の Nomades で靴を借りられます。
 路面状態のいい道で思いきりダッシュするときは、ついついオリビア・ニュートン=ジョンの「ザナドゥ」を口笛で吹いてしまう。スローテンポのときはもちろん「マジック」(笑)。あの映画では、ジーン・ケリーのスケートさばきが見事でしたねえ。70歳になっても、あれぐらいの身のこなしができたらいいんですが(笑)。

 パリが観光客オンリーの状態になるのは、8月上旬ぐらいじゃないですかね。あとは多少は閑散とするものの、それなりに店も開いていますよ。8月15日はゴースト・タウン状態に近いですけど(笑)。なんかこのあたり、日本のお盆と同時期なんでおもしろいですねえ。


1999年06月09日

 円対欧州通貨の相場って、だいたい6年周期で上下してるみたいですね。92年8月の悪夢のような円安のときは、100 JPY = 3.85 Frs なんていう両替所がけっこうあったけれど、94年の冬なんかは、こんどは 100 JPY = 5.85 Frs とかですもん。先日、オペラの近くの両替所をちらりと見たら、いまは 100 JPY = 5.23 Frs になっていた。くそー、また為替差損だ(;_;)。

 来年あたりは 100 JPY = 5.5 Frs ぐらいまで行くんじゃないっすかね。euroで換算すると、1 euro = 120 JPY か。これだとドル相場は 1 US$ = 118 JPY ぐらいだから、もっと円の方が強くなっているかもしれないな。しかし、1 US$ = 105 JPY で 1 euro = 1.02 US$ とかになったりすると、1 Fr = 16.3 JPY という猛烈な円高になっちゃうんですよね。


 4歳・5歳ぐらいの子どもでも、休日には公園なんかでよく滑ってますね。
 baladeの方でも、さすがに pari-rollerは無理だけど(それでも小学生高学年ぐらいの子どもは何人か参加してます)、roller & coquillages なら、5歳ぐらいの子どもが滑っていることもあります。もちろん親が同伴で、おとーちゃんが綱で引っ張っているっていう親子もいますが(笑)。
 先週は pari-roller と roller & coquillagesの連チャンに挑戦するつもりだったけど、金曜は雨、日曜の randonnee は他のイベントのために順延になったらしい。


 95年11月のストは、ジュペ政権の福祉予算カットやら公務員削減への抗議だったんじゃなかったっけ。ジュペ政権もマッチョだったけど国民もマッチョだったねえ(笑)。


1999年06月08日

 パリでも全体が paralyse っていうのは、かなり珍しいですよ。今回みたいなケースは、95年11月以来じゃないっすかね。そのときぼくは運良く日本に戻っていたのだけど。
 たしかフランスでは全面ストは違法で、RATPにしてもSNCFにしても、ストを行うときは、かならず特定区間を特定時間内にやる、というシステム(?)だったと思います。だからストが多いわりに、わりとみんな、さっさと動いている路線に移動しちゃうんですね。そういうストの情報は、切符を通すところにあるディスプレイに詳しく掲示されています。
 パリ市内は東京に比べて狭いので、メトロ10駅分ぐらいの距離なら、さっさと歩いてしまった方が手っ取り早いかもしれない。今なら気候もいいですから、この時期、もし観光でパリに滞在していたら、ずっとカフェで本でも読んでいるか、せこせこと歩きまわっているかのどちらかだと思います。
 あと、自分が物書きとして食っていくようになってからは、なにかトラブルやハプニングがあると、腹が立つよりも「これで原稿ネタが一本できた」と思うことの方が多いですね。


 ヨーロッパの出張では、「土日はパリで」というのが鉄則ですねえ。ヘタにドイツの地方都市に居ようものなら、土曜の午後から月曜の朝まで、本当にゴースト・タウン状態を経験しなきゃならなくなる。その点、パリだけは、最近は日曜でも開いている店がけっこうありますから。


1999年06月05日

 先週の金曜に Pari-Roller で13区役所の前にたどりついたら、なにやらポスターが並んでいるんで、何か選挙でもやっているのかと思ったら、欧州議会選挙だったのね……という程度の感覚でした。
 あれってバラデュールやトゥーボンも候補者になってましたっけ?
 どうも欧州議会というと、蟻発言のクレッソンが汚職しまくったところ、という印象しかないんですよねえ。


1999年05月30日

 当の本人も、二度目の挑戦で完走できるとは思わなかった(笑)。やっぱローラーブレードを買ったのが大きいと思います。これ、スピードの出方が違う。上りの疲労感がまったく違うんですよね。やっぱマテリエルの進歩はすごいもんです。
 いやしかし、パリを観光する日本人は何十万人といても、ローラースケートで車道を走り回った経験のある人はそんなにはいないと思うと、なんとなく気分がいい(笑)。最近、パリはローラースケートのメッカと化しつつあるようで、参加者の中には、イギリスやドイツから来ている人もかなりいるようです。もちろん、このためだけにやって来たわけじゃないんだろうけど、旅行の目的の一つにはなっているんじゃないですかね。
 我々の年代だと、ローラースケートのメッカといえば、言うまでもなくアメリカの西海岸でしたけどね。日本では代々木公園と神戸の須磨浦が人気スポットで、ぼくは一度、須磨までわざわざ滑りに行ったことがありました。


1999年05月28日

 ついに完走(笑)!
 コースが久々に左岸中心だったので、これなら途中でリタイヤできると思い、参加してみました。まだ薄明の残る午後10時、Place d'Italieに集合、10時20分ごろに出発し、無事、0時50分ごろに13区の区役所前まで戻ってこれました。いやー、疲れた。

 今日のコースは、先日の Roller & Coquillages とダブっているところが多かったです。アップダウンとか石畳の場所がだいたいわかっていたので、その分、心の準備がしやすかったのも大きい。とくに坂はピークがどのあたりにあるかを知っているかどうかで、疲労感がかなり違いますからね。

 Place d'Italieを出てからは、Bd BlanquiDanfert Rochereauに向かいました。ここは日曜と逆方向なので、最初に下り、ライオンのロータリーの手前が登りです。で、St.Jacque通りを北上し、Port Royal駅近辺でBd Port RoyalBd St.Marcelと進む。もろにうちの前を通るコースなんですねえ。そしてAusterlitz駅前からセーヌ沿いに西に進むコースも、日曜に走ったところと同じです。例によってアラブ世界センター、St.Michel広場、アレクサンドル3世橋の前を通り、因縁の地(笑) Invalideに出ます。思えばこのPari-Rollerに初挑戦し、疲労でリタイヤしたのがInvalide。それが3月だっけか。あのときはウィンドブレーカーを着ても寒かったのが、いまはみんなTシャツです。

 InvalideからMontparnassに出て、Bd MontparnassRER Port Royal駅前に進み、そこからBd St.Michelを北上し、Pont St.Michelを渡ってすぐに右に向かい、Notre-Dame広場に着いたのが11時45分ごろ。ここで pause となりました。たまたま広場でなんかのTV中継をやってたんで、スケーターの何人かがインタビューに引っぱり出されてました。

 Notre-Dame広場を出たのが12時ジャスト。Pont au Changeを渡ってすぐに右折、パリ市役所の右手をぐるりとまわる感じでrue de Rivoliに出て、Chateletのところで右折、こんどはBd de Sebastopolを進みました。7年前、パリに来て最初に住んだのがポンピドーセンターの近くだったので、この通りはけっこうなつかしい。
 途中、右折してBd Beaumarchaisに抜け、そこからPlace de la Bastille に。ここなんかは、日曜のゴールだった通りです。で、Bastilleのロータリーを4分の1周し、Nomades のあるBd de Bourdonに出る。ここから先もすでにおなじみのコースで、橋を渡ってBd de l'Hopitalに抜け、そのまま上り坂をPlace d'Italieまで目指す……といった感じです。
 さすがにペースが速い。途中、けっこうスピードを出したところもあるんだけど、結局隊列の3分の1ぐらいのポジションでした。今日の参加者は二千人ぐらいはいたんじゃないかな。夜もいいけど、やっぱ日中の方が爽快感がありますねえ。それと、ペースが速いので、スピード制御のおぼつかない初心者がどんどんぶつかってくる。足をひっかけられたことも、一度や二度ではないっす。やっぱ日曜の方で先頭近辺を滑っていた方が楽だ(笑)。
 しかし、これでとりあえずの目標が達成できた。もう思い残すことは、あまりないかもしれない(笑)。

 スケートから帰ってから、わずか40分後に書いたレポートでした(笑)。


1999年05月23日

 もはや定着パターンと化しつつある日曜午後の roller balade、先週は仕事の追い込みがあったので1回パスしたけど、今回はちゃんと行ってきましたとも。Versaillesまで完走できたんだから、もう楽勝。でも2回こけたけど(笑)。
 Bastilleを出発したのが予定通り午後2時半。隊列の先頭の方にいたんだけど、この日も好天だったので、参加者は遥か彼方まで続いてました。少なくとも3000人はいたんじゃないかな。

 Nomades前を出てからは橋を渡り、それからセーヌ沿いに西に向かい、アラブ世界センターや Tour d'ArgentSt.Michel広場、Orsay美術館などの前を過ぎ、Assemblee NationaleのところからSt.Germain通りへ。この通り、例によって滑りやすくてすんげえ爽快。
 それから6区を縦断するようにして、Raspail通りからDenfert Rochereau に抜け、針路を東に転じてPlace d'Italieに出て、そのまま東に進んでBercyの新官庁街に進み、SNCFの大きなガードをくぐり、Place de la Picpusの近くにあった公園で休憩となりました。ここに着いたのが午後4時半ぐらいだっけかな。
 5時5分前に再度出発し、Nationalの横を通過してからAvenue de Republiqueに。この通りが今日のハイライトでしたねえ。広いし路面状態がいいし、おまけに隊列の先頭方面はペースが速い。1キロ弱の距離だったと思うけど、傾斜もフラットだったので思いきりスピードを出せた(快感)。
 Bastilleに戻ったのは5時45分頃でした。

 今日気づいたこと。そこそこ脚力があって、そこそこ経験があれば、絶対に隊列の先頭近くにいたほうが滑りやすい。なにせ人数が人数なんで、先頭と末尾とではペースがまったく違うんですね。で、後ろにいくほどペースが遅く、しかも人口密度が高い。スピードの制御がけっこうタイヘンなんです。
 その点、前の方にいれば、間隔がけっこう開いているんで、わりと自分のペースとコース取りで滑れてしまう。スピードの出しすぎにだけ気をつければいい。大きなロータリーでは隊列を縮めるためにストップするんだけど、前にいればそのときに小休止できる。後ろにいると、だらだらと滑り続ける感じなんですよね。

 いやしかし、こういうことをできるチャンスもあと数回かと思うと、それがいちばん哀しい。夏至のころには Pari-Roller にも再挑戦すっかな。


1999年05月19日

 日本からFedEXでゲラが届く。刊行予定はかなり先になったということで、相当直しを入れてもいいとのこと。なーんて言われると、あちこち書き直してしまうかもしれない。


1999年05月18日

 フランスへの送金は国際郵便為替(International Money Order)による送金が最も安全で経済的ですよ。取扱は中央局クラスの郵便局だけですが、まず取扱窓口に行き、「フランス・フラン建ての国際郵便為替を送りたい」と告げてください。申込用紙を渡されたら必要事項を記入し、送金額相当の日本円(レートはその日の午前十時の東京外為市場だったと思います)プラス郵送料を支払います。記入すべき事項は、フランの送金額と送金先の宛先および住所です。
 為替の方はその場で作成され、書留扱いの航空便で郵送されます。郵送料とあわせた手数料は 500円ぐらいだったんじゃないのかな。外国送金ではこれが最も安い方法ですね。書留扱いですので、送った・送らないのトラブルも回避できるはず。
 電信為替の方は、郵便/銀行間の送金はできませんので、先方の郵便貯金口座がないと使えません。もしその口座が分かっていれば、電信為替でも安い手数料で送金できます。不明な点があれば、東京国際郵便局に問い合わせれば、いろいろと親切に教えてもらえますよ。
 以前、原稿料を日本からの国際郵便為替で受け取ったことがあるのだけど、少額だったせいか、郵便局員が直接現金に換金して持ってきてくれました。まあ、フランスの郵便局は親切は親切なんだけど。


1999年05月15日

 なくてびっくり、後で納得したのが保温機能付の魔法瓶ですね。かわりに使うのが電気の湯沸かし器(bouilleurだっけか?)だけど、230ボルトだと沸くのがとにかく早い。コーヒー二杯分ぐらいだったら、ほんとうにカップを用意している間に沸いちゃう(ちとオーバーか(笑))。これなら保温機能付き魔法瓶なんか必要ないっすね。飲みたいときに沸かせばいいんだから。


1999年05月14日

 シャルトルは厳しい。フォンテーヌブローかバルビゾンまでなら、まだなんとか行けるかもしれないけど。
 学生時代、よく滑りに行った後楽園スケートリンクには、山本さんという名物スタッフがいたのだけど、この人、ローラースケートでアメリカ大陸横断をしたこともあるんですよね。当時ぼくは、せいぜい北海道の積丹半島で15キロほど滑ったことがあるだけだったけど(笑)。


1999年05月09日

 今回はいつもの randonnee がなく、代わりに1eres Roll'heures Paris-Versaillesというイベントがありました。ええ、もちろん参加しましたとも(笑)。
 この日、ベルサイユでは、Versailles Trianon Lions Club主催で Roller excursion が開かれ(なんかのチャリティーだったらしい)、それにあわせ、Pari-Roller と Roller & Coquillages が、パリからベルサイユまでの randonnee を開催したわけです。

 集合は11時半にモンパルナス・タワー。そこまではバスまで行こうと思ったのだけど、タッチの差で乗りそびれ、仕方ないので家の前からモンパルナスまで滑走するハメに。せっかく体力を温存しようと思ったのに。
 11時40分ごろにモンパルナス・タワー到着。出発は12時なんで、それまで足を休ませました。12時ちょい過ぎたところで先頭が動き出し、それにつれて移動。広場の横で今回の記念Tシャツを売っていたので、足を止め、40 Frsで1枚買いました。

 モンパルナスから先は、rue de Sevrerue de Lecourbeと、先週滑ったコースを進み、Boulevard Victorに出てセーヌを渡り、Avenue de Versaillesに向かいました。で、この二つの大通りが立体交差になっていて、隊列は側道に出て左折せんとあかん。ここでアクシデントに巻き込まれた。

 BD Victorがゆるい下りになり、しかも狭い側道に入るので、スピードをぐっと落とさないといけない。こちらはなんとか減速し、あとは側道を抜けて左折するだけ、というときに、暴走した女の子に背中を押され、しかもその直後、Tシャツにしがみつかれてしまった。もう完全にバランスが狂い、側道側に転ぶか立体交差の下側に向けて急ターンを切るかしかなかったんだけど、さすがに大量の連鎖転倒の恐れがあるので、側道側には転べない。仕方なく左に思いきりターンしたけど、勢いがついたので転倒。このとき右の肘をすり切ってしまい、血がぽたぽたとしたたり落ちた。

 こういう怪我は、たいしたことがないわりに見かけがハデです。まあ、ほっといてもいいかと思ったけど、道路での怪我なんで膿むのが怖い。で、営業中の epicerie に入って Evian を買い(今日は水をぜんぶポカリスウェットにしてた)、その先の休止で傷口だけは洗っておきました。
 まあ、アクシデントはそれだけだったので助かった(^_^;)。


 Porte de St.Cloudを越えてからは、一路ベルサイユへ……といいたいところだけど、じつはこの先、延々と上り坂だったんですね。しかも途中、かなり急なところが三ヶ所あった。自転車でも一気に登るのはつらいぐらいの斜度があったと思う。
 ここで無理するとひっくり返ってしまうので、息が切れたら日陰で小休止&給水を5度繰り返し、なんとか大休止の森まで到着したのが午後2時でした。スタッフの話では、この「心臓破りの丘」は延々6キロあったらしい。休憩中、スポンサーの Champion提供の水やジュース、オレンジなどが配られました。

 午後3時15分に再スタートとなりました。しばらく緩い上りが続いたあと、今度は一転して下りの大通りとなった。足が疲労しているときは、下りの方がきついんですよね。スピード制御に筋力を使うし、マメに制御しないと大転倒して怪我をする。いやはや、この下りは本当にきつかった。

 午後4時ちょうどぐらいに、ベルサイユ宮殿前の通りに出ました。ここでは当日のイベントにあわせ、露店やら楽隊が出ていた。柵を抜けて出ようとしたら、スタッフが参加者全員に記念メダルを配っていました。
 この日はSNCFも協賛団体に入っていたらしく、参加者はパリまでのチケットを10 Frsで購入できました。家に戻ったのが午後5時半でした。


1999年05月06日

 起伏豊かなパリ市内でも、モンマルトルの丘を除けば、エトワール広場、パンテオン、そしてイタリー広場が「頂」なんですよねえ。その一つがスタート&ゴール地点なんで、Pari Roller ではイヤでも一度は心臓破りの登り状態になるわけです。
 でも、モナコよりはずぅーっと楽だと思う。今年もモナコGPの季節が近づいてきたけれど、名物の上り坂 Monte de beau rivage など、テレビで見るより遥かに急ですからね。これまた名物コーナーの Mirabeau から Rose、Poitierにかけての下りも、急坂といってもいいくらいだし。


1999年05月04日

 Rue de Vaugirard の間違い。その他では、Boulevard de St.Marche じゃなくて St.Marcel ね。
 いやしかし、Boulevard de St.Germain の滑走は、本当に気分が良かったです。教会近辺は路面がアスファルト舗装で、まるでリンクを滑っているような感じでした。この通りは車線数の多い一方通行路なので、広い道幅をめいっぱい使える。屋外ローラーのための道みたいなもんです(笑)。ああ、これは病みつきになる。
 Pari Roller のコースはけっこうアップ・ダウンがきついんですが、Coquillages の方は、初心者への配慮だと思いますが、フラットな区間を極力集めているような印象がありました。ちょっと傾斜のきつい登りは Vaugirard通りの最後の区間ぐらいでした。
 Roller et Coquillages の方は、Nomades で靴のレンタルもやっていますから、旅行者でもローラー好きの人はぜひトライしてみてください。


1999年05月02日

 ついに完走!……したのは、Pari Roller ではなくて、Roller et Coquillages の方なのであった。
 今日は気温21度もあるピーカンの日曜日。こりゃかなりの参加者がいるなと思ったけど、案の定、三千人ぐらいはいたんじゃなかろうか。Coquillages という名の通り、こちらの方は初心者OKのスローペースなので、参加者も小学校低学年の子どもから高齢者まで幅広かったです。

 スタートは Bastille の Nomades前。といっても、参加人数が人数なんで、先頭がスタートしてから最後尾が動き出すまで、十分以上かかったんじゃないのかな。以下、コースは途中の道路標識をちらちら見ながらのものなんで、やや不正確だと思います。

 Nomades前を出てからはBoulevard de Bourdon(運河沿いの道)をセーヌに向かい、Boulevard Morlandに一瞬入ってからPont d'Austerlitzを渡って左岸に出る。このあたりはバスでも車でもさんざん通ったところなのでおなじみ。Pont d'Austerlitzの舗装がすごくよくて、けっこうスピードが出たのはいいんだけど、Boulevard de l'Hopitalに入る交差点が石畳だったので、急ブレーキをかけるハメに。これで一度こけそうになった。

 Boulevard de l'HopitalからBoulevard de St.Marcel、そしてPort Royalへと進むのですが、このあたりは91番のバスの道です。Gobelins交差点からPort Royalに入ると、カミさんとムスメがベランダから見ていたので手を振ったんだけど、さすがに何千人もの隊列だったので、気が付かなかったみたい。ムスメが手を振ったので、さすが「我がムスメよ」と思ったのだけど、帰ってから聞いたら、知らないオジサンが手を振っているのだと思った、だと(笑)。

 じつはPort Royalに入ったあたりで足が張り、早々にリタイヤかな、なんて事態に陥りました。家のそばだから帰るのも楽だし。歩道のベンチに座って足をほぐしていたんだけど、隊列が次から次へと続く。おかげでなんとか復帰できた。その後も何度かリタイヤの危機はあったのだけど、長い隊列とスローペースに救われました。こりゃ Pari Roller の方はまだあかんな。

 その後コースはBoulevard de Montparnasserue de SevresRue LecourbeRue de la Conventionへと進み(このあたり、やや不正確)、Pont Mirabeauのところで再びセーヌ側とご対面。で、Quai Andre Citroenに出てParc Andre Citroenに入り、ここで30分間ほどの休憩タイムとなりました。何千人って人数なんで、公園沿いのrue de la Montagneは参加者で“貸し切り”状態でした。

 交差点の何ヶ所かは石畳なんで、そういうところはスタッフが「Pave !」と叫んで注意を促してました。ちょっと急な下りが始まるところでも、「Descendrre」という看板を掲げたり、けっこう気を使っている様子が見られます。

 小休止が終わってからは、rue Leblancrue Lecourberue de la Conventionrue de Vaugirardへと抜け、六区に入ってからはrue de Rennesを滑走。St.Germain des Pres教会の前で隊列を整えるためにストップしたんだけど、振り返ると、あのRennes通りがスケーターで埋め尽くされていた。

 その先のBoulevard de St.Germainは道も広く舗装状態もよかったので、えらく快適でしたねー。見物人がいるのもなんとなく気持ちがいいし(笑)。St.Germain通りを一気に滑ってからは、Pont Sullyを渡って Bastilleに戻りました。

 午後二時半に出発し、戻ったのが午後六時ごろ。休憩時間を除けば、正味三時間ぐらいですが、スピードが遅かったので、滑走距離は20キロちょいぐらいだと思います。でも足がもうフラフラ(笑)。それにしても、ホイル径のでかいローラーブレードの方が、公道や上り坂は楽ですね。速度制御とバランスは四輪のローラーよりも難しいけど。


1999年04月30日

 ムフタール通りだけでなく、パンテオンの裏側っつーか、パンテオンの脇にある教会の横手をちょっと奧に入った区画にもフォンデュの店が集中してますね。数年前に一度行ったのだけど、チーズ・フォンデュを食いながら水をガブ飲みするという無茶をやってしまった(笑)。


1999年04月28日

 ここは、シャンゼリゼ沿いの店の中では比較的安くてコーヒーの味もまともなカフェです。で、日本人会に用があったときの帰りには、たいていここで express を飲んで一服し、あとはその先の Roosevelt の rond point から83番のバスで帰る……というのが黄金パターンです。
 シャンゼリゼ通り沿いやオペラ、パレ・ロワイヤル近辺の大通り沿いには、「パリ在住の人達が日常 行くような カフェ」はないでしょうねえ。ちょっと中に入った筋ならともかく。でもまあ、誰でも「ここがいい!」と思えるカフェをひいきにすればいいんじゃないかと思うけど。観光カフェの中でも、Deux Magots ならわりと好きです。日常的に行くのは Brasserie Port Royal だけど(笑)。


 まだまだしぶとく続く Pari-Roller への道。先週は久々にうちの前の道を行進していった。で、こちらはというと、今日はついにインラインのローラーブレードを買ってきてしまった(笑)。


 Pari-Roller の友好団体 Roller & Coquillages の事務局がバスティーユにあり、毎週日曜の午後、三時間かけたローラーの行進を主宰している。で、ここに行けば Pari-Roller とセットの adhesion ができて、スポーツ保険にもかけられる。申し込みついでにブレードを買ってしまったのであった(笑)。

   Nomades
   37, Boulevard de Bourdon, 75004 Paris

 店の奧に狭いながらもローラーディスコのスペースがあった(こういうのも最近は「くらぶ」っつーの?)。店のあんちゃん Gille にブレードがほしいと言って、2セット出してもらい、10分ほどそのスペースで試走。やっぱ4輪のローラースケートよりもスピードが出るわ、こりゃ。これなら Pari-Roller のペースにもついていけるかな、なんて思い始めている(笑)。
 ローラーブレードの値段はピンキリあって、通販でも売っている安物(カミさんがこちらを買った)なら 200 Frsぐらい。でも専門店で売っているのはモノがかなりしっかりしたやつばっかなんで、安いので 700 FTTC、高いのになると 2000 FTTC ぐらい。試走して気に入ったのは Salomon ので 1600 FTTC のやつだったんだけど、ちと予算オーバーだったので、もう一方の 1290 FTTC の方のにした。Roller & Coquillages に adhesion した後だったので、これが一割引になりました。


1999年04月10日

 Voyageurs au Japon の前事務所、前々事務所もそのままキープされているようで、引越というよりも拡張に近いっすね。ただ、現事務所以外は倉庫に使っているだけみたいだけど。
 事業所縮小&引越、駐在員引き上げは、ほとんどワンセットでしょう。


1999年04月09日

 成田空港の税関を見るたびに、早くここも行革で大幅省力化してくれんかいな、なんて思います。他の先進国の国際空港にくらべ、あまりにも違いすぎますよね。まあ、外国にあわせればいいってもんじゃないけれど、タダでさえ都心から遠くて不便なんだから、せめて空港内の流れぐらいはスムーズにしてほしい……と言いつつ、3日後には成田だ(;_;)。でもまあ、今回はお気に入りのオーストリア航空が取れたので、少しはよしとしよう。
 そういや、日本でも英国BBCの Teletubbies の放送が始まったそうですね。これ、フランスでも人気があって、うちのムスメがすっかりとハマってます。Tinky Winky、Dipsy、Lala、Po という四人の宇宙人が登場するのだけど、一昨日、Place d'Italie のショッピング・センターで Po の縫いぐるみを買ってやったら、狂喜してました。昨年末に Tinky Winky を買ったので、これで二人目です。
 この縫いぐるみ、ライセンス生産しているのがトミーのイギリス支社(製造は中国)。日本でもソニー・プラザで売っている、なんて話を聞きましたが。


1999年04月08日

 パリの日系事業所の場所も、ずいぶんとかわりましたねえ。92年にぼくが住み始めたころには、JUNKU堂はまだ St.Honore通り沿いにあったし、東京堂書店も健在だった。東京堂のあったところには、最近、Voyageurs au Japon という日系の大手旅行業者が入ってきました。
 駐在員の引き上げが多いせいか、このところ引越業者が多忙なようです。
 しかし、社会保障コストを考えると、どう贔屓目に見ても、フランスに駐在員事務所を置くメリットがあるとは考えられない。いわんや支社をや。ユーロの導入によって、ますますフランスの「空洞化」は進む一方じゃないんですかねえ。フランス語圏ならルクセンブルクとかベルギーの方が、絶対に経済的だもん(笑)。


1999年04月01日

 「邦人に人気」という評判を額面通り受け取っちゃいけません。フランスで銀行口座を開くのって、本当にたいへんなんですよ。行員と机を挟んで一対一で交渉しなくてはいけないし、契約事項を一つずつチェックさせられる。おまけに滞在期間が一年に満たない外国人に対しては、「うちは non residential は扱っていない」という対応をするところもあります。実際には、そんなはずはないんですけどね。しかし、フランスの銀行口座は小切手を扱う当座なので、はっきりと客を選んでいるのも確かです。
 そうなると、「東京三菱銀行(旧東銀)でしか口座を開設できない」って人がいっぱい出てきます。ここ、とりあえず日本語で交渉できますから。自動引落しの申し込みだって日本語でできちゃう。しかし、もろもろの費用やサービス内容を考えると、圧倒的にフランス系銀行の方がいい。まあ、フランスに住むのなら当然のことですが。なにせ東銀ったら、3年前まで Carte Bleue を発行できず、東銀の店舗にあるATMしか使えなかったんですから。


1999年03月28日

 居住証明について。
 住所には二種類あるんです。一つが adresse permanantで、まあ要するに生活のための家がある住所ですね。こちらの証明には、通常、France Telecom や EDF/GDFの facture、assurence d'habitationの証書、住民税の通知などを使います。
 もう一つが adresse fiscale で、これは税務署に行って課税台帳に登録しないと発生しません。これ、滞在許可のカテゴリーによっては登録ができないので、外国人にとってはオプションということですね。学生が家族連れで滞在するときは、滞在許可更新時に「台帳登録ができない」ことの証明書が必要になることもあります。
 日本とフランスとは租税条約を締結しているので、adresse fiscale は日本またはフランスのどちらか一方にのみ存在することになります。だからフランスでの居住証明(こちらは adresse permanant)と日本での居住証明(adresse fiscale)とが別々に必要になる、なんてケースが出てくるんですね。
 adresse fiscale がどちらにあるかは、1月1日時点でどちらの課税台帳に登録したかによります。日本ではそういう登録制度がありませんので、ごく単純に住民登録しているかどうかで決まります。海外への転出届を出しておけば、自動的に日本での課税申告の対象からははずれます。
 たとえば1月1日の時点では日本に住民登録があり、それ以降に渡仏し、なおかつ年内に帰国しちゃったりすると、税務処理上はずっと日本にいたことになるのです。「日本に居住・納税している事が前提の額」というのは、そういうケースを指したことでしょう。
 ああ、そろそろ税金の申告しなくちゃ。


1999年03月22日

 パリの11月〜2月の天候は、例えていえば「雪の降らない日本海側の冬」の状態です。連日、曇ばっか。晴れ間がまとまって広がるのは、一週間に一度か二度程度なんですね。
 ところが、3月のある日を境に、突然天気のいい日が四日以上も続く。最高気温も18度ぐらいまで上がります。街路樹もそのころ一斉に芽吹きが始まる。で、その境の日を春の切り替わりと見なしちゃうわけです。もちろんニュースや予報でそんなことは言わないけど、日常的な会話のなかでは、「Le printemps est arrive !」というフレーズがあちこちで聞かれますから、まあ、そういう感覚は誰にもあると思います。
 この激変が、パリで暮らす二番目の楽しみですね。一番目はもちろん夏至当日に行われる fete de la musique ですが。
 たしか去年は 3月 8日に春が始まり、その前の年が12日、その前が17日だっけかな。それよりも前になると記憶にない。


1999年03月20日

 ルイ・ルグランにポリテクが絡むとガロアを連想しちゃいます。受験の口頭試問で対数の定義を聞かれ、それをあえて算術級数と幾何級数の対応関係で説明しようとしたら、試問官からいろいろと揚げ足を取られて腹を立て、最後に黒板拭きを投げつけて「これがぼくの回答だ!」と言い捨てて去る——けっこう嫌なやつだよな(笑)。
 エバリスト・ガロア本人の名前が付いた建物や地名は知りませんが、12区にある「ガロア通り(Rue de Gallois)」は、エバリストの父親の名前が由来になっていたと思います。Quai de Bercy に直行する小さな通りですが。
 ルイ・ルグラン時代のガロアの恩師リシャールは、ガロアの受験失敗と非業の死が痛恨だったようで、後にエルミートが数学オタクと化しつつあるのを押し止め、一年間、ポリテクの受験勉強に専念させたそうです。で、エルミートは無事にポリテクに受かり、19世紀のフランスを代表する数学者へと歩んだ、と。
 ガロアの伝記の副題は「神々の愛でし人」だけど、E.T.ベルの『数学をつくった人々』で記述されているガロア伝には、「天才と狂気」という題がついています。こちらの方がガロアには合っているような気がしてしまう。
 話は逸れますが、フランス滞在中に活躍した日本人数学者に、故・岡潔がおりますね。現在、「岡の原理」として知られる他変数巻数論の論文は、たしかフランスの数学雑誌に発表されたんじゃなかったのかな。日本語訳が出たのはかなり後になってからだと思いますが。


1999年03月19日

 うちの炊飯器、13区の中華街で 50 Frsで売ってるようなやつなんだけど、ずーっと水道の水で炊いてます。ただ、それを譲ってくれた人は Volvic で炊いていたそうだけど。いずれにせよ、シンプルな炊飯器の方が耐久力はあると思う。
 コーヒーメーカーはカルキがたまるんで、このところはもっぱらインスタントですねえ。で、ヨーロッパ限定販売の Nescafe Asta Rica って銘柄がすんげえ旨い。年末の一時帰国で実家にみやげに持って帰ったら、けっこう受けてました。
 まあ、インスタントを飲むんでも、湯沸かしポットのカルキは貯まるんだけどね。


1999年03月18日

 フランスの学生の求職活動は、基本的には「CVを送りまくる」ってやつですね。たしか就職までに一人平均して 600通送るっていう調査結果があったように記憶してます。グランゼコール出身者でも職に就くまで平均半年かかるらしい。その間は友人宅に居候し、ベビーシッターなどのバイトをするか、3ヶ月〜半年の stageをしながらCVの作成費や郵送費を捻出するってパターンが一般的だったのが、ここ数年の就職難のために、こういうことを親の実家でおこなうケースが増えたとか。家族問題の研究機関がある Sorbonne-Nouvelle の調査だったと思うけど、フランスでは親元に住む20代前半の若者が急増しているそうです。
 CVを送るにしても、過去に stageをやったところにアタックする、学校の掲示板のアノンスを見て送る、先輩のツテを辿る、なんてパターンがある。とくに先輩のツテというのは、bizutageの支持理由になっていましたね(そういや一昨年あたりからは、この“通過儀礼”もすっかりと見なくなりました。まあ、禁止されちゃったからね)。あと、グランゼコールが大学よりも就職に有利なのも、同窓会組織がはるかに強固だから、ということがあります。
 商業系グランゼコールなんかだと、毎年春ごろに、その年の夏の stageを募集する会社の合同説明会が学校で開催されます。教室に使うスペースを企業がブースを構え、日頃はラフな格好の学生も、この日は日本でいうリクルート・ルックでやってくる。雰囲気は学園祭に近いものがありますが、どこでどういう stageをするかはCVでも重要なポイントですので、学生もかなり気合いをいれてチェックしてます。
 企業の求人アノンスの方は、diplome を指定するものが多いです。DESSなんかはそうした指定項目に含まれることがあるわけだ。一番露骨なのは学校指定で、応募者は HEC または ESSEC の diplome 限定、なんてね。


 リセに準備コースがあるのは、グランゼコール制度の一環です。
 Polytechnique や normale などの国立グランゼコールの場合、まずバカロレアで優秀な成績(たぶん、数学と哲学が重視されてるはず)を取った者が学校長の推薦によって、準備コースに進む。これがいくつかのリセに所属してるんだけど、イメージ的には日本の旧制高校に近いかもしれない。
 で、準備コースを2年経てから concours を受ける。これに合格すると、晴れて入学が許される……という流れです。concoursに落ちた者は、救済措置として大学の 2e cycle に編入する権利があったはず。その意味でも、準備コースは大学の教養過程とおなじようなもんですね。
 ただし、事実上の“私立大学”に相当する商業系グランゼコールや、Telecom Paris のような技術系のところは、別の募集基準があるかもしれない。グランゼコールといっても、分野もレベルもきわめて雑多ですから。
 かつてワタクシが学部3年のとき、フランスの高名な数学者 J-P.セールの本(の日本語版)がテキストに指定されたことがありました。で、後書きを見たら、このテキストはエコール・ポリテクニクの第一学年生向けのもの、なんてことが書いてあった。一年生がこんな難しいことやるのかよ〜、と唖然すると同時に、さすがエルミートやポアンカレの母校……と思った。でも後からそれが日本の3年生に相当すると知って、すごくほっとしたものです。
 ENA のユニークなところは、他のグランゼコール内に受験予備教室があるんだ、ということを言いたかったのです。Polytechnique から ENAには推薦枠が二人あったんじゃなかったかな。たしかジスカール・デスタンが“二冠王”だったと思います。ベルナール・タピもだっけか。ポンピドーとシラクは Science Po から ENA ですね。ノルマル出身だと、シャルル・ドゴール、シモーヌ・ヴェイユといったあたり。現在話題の人、クレッソン女史は HECだっけか。
 シラクは ENA時代にミッシェル・ロカールと同窓生で(成績はロカールの方が良かったらしい(笑))、おなじ女子大生に惚れてつばぜり合いを演じたこともあるそうな。そんなわけでこの二人は仲が良く(アンチ・ミッテランという点でも共通していたし)、シラクが大統領選に勝ったとき、ロカールがエールを送っていましたね。


1999年03月17日

 人によっては Volvic でご飯炊いてます。粉ミルクを溶くときでも、推奨銘柄は Volvic です。
 なぜ Volvic かというと、この水が一番柔らかくて日本の水に近い風味だから、ですね。ミネラル分の含有率も Vittel に比べるとかなり低いです。その点が Spaとおなじ。
 このところ修羅場ぶっこいてるので、patin をしに行く時間がない(;_;)。せっかくパリも春になったのに。今年は 3月12日が季節の切り替え日でしたね。去年は3月8日だからちょっと遅れたけど、だいたいいつも3月15日前後だし。あと二週間で夏時間だけど、時間が経つ早さを痛感してしまう。


1999年03月04日

 警察のブレーダー隊は、めちゃくちゃうまいっす。おまけにガタイがいいから、滑走にもすんげえ迫力がある。ありゃローラーホッケーでもやって鍛えているんじゃなかろうか。


1999年03月02日

 Prefecture de Police にはローラーブレードのチームもあるんですね。pari-rollerには彼らが付き添っています。CRSの制服に自転車競技の人がかぶるようなヘルメット、肘や膝をプロテクトした姿は、ほとんシュワルツェネッカーの世界です(笑)。


1999年03月01日

 日曜の parcours の方なら貸し靴もあるそうですよ。


1999年02月28日

 正直言って、ハタチころのバリバリのローラー小僧時代だったら、「ど根性!」とばかり最後まで粘ったかもしれないけれど、それもいまや20年前、数ヶ月後に不惑を迎えるワタクシは、身体の安全を最優先させました(笑)。
 それにしても、こういうイベントを受け入れるパリ市は偉い。偏見かもしれないけど、日本の警察だったら歯牙にもかけないんじゃなかろうか。まあ、地方だったら“村おこし”的な意図でやるかもしれないけど、まず東京や京都がそういうことを許可するとは思えない。まあ、さすがに自転車レースで公道を使う習慣のある国、といったところでしょう。


 昨日からうちの通りの向かい5区側でガラクタ市をやっているんだが、ふと気づくと、妙に騒々しい声が聞こえてきた。おまけに天気がいいのに俄雨のような「ざーっ」という音。もしやと思って外を眺めたら、ローラースケーターたちが延々と道を滑っていた。

 日曜は午後2時にバスティーユ集合の parcours があるのだけど、今回はうちの前の通りがコースの一部になっていた、ということですね。いやしかし、見るからにペースがのんびりしている。ああ、これならば付いていけたな(笑)。付き添いの自転車のこぎ方から推計すると、だいたい時速10〜15キロ程度。やっぱ次回は日曜に挑戦しよう(笑)。

 日曜の日中、しかも好天ということもあって、参加者は2000人ぐらいいたようです。列の先頭から最後尾までが通過するのに、10分近くかかってました。


1999年02月26日

 朧月夜となった金曜夜、勇んで行ってはみたものの、結果は……

0, Avenue d'Italie (DEPART 22h00) → Avenue d'Italie → Place d'Italie → Avenue de Choisy → Boulevard Massena → Avenue d'Ivry → Rue de Tolbiac → Rue d'Alesia → Place Victor Basch → Avenue du Maine → Rue du Depart → Place du 18 Juin 1940 → Boulevard du Montparnasse → Place Leon Paul Fargue → Boulevard des Invalides → Rue de Grenelle → Place des Invalides → Avenue du Marechal Gallieni → Quai d'Orsay

 でダウン(笑)。あえなく途中リタイヤとなってしまいました。
 時間にして23時半ごろ、行程の半分ぐらいってところですかね。もうひと息頑張ろうとも思いかけたのだけど、足の踏ん張りがぜんぜん効かなくなってしまった。 Alexandre III橋のところで靴を脱いだ次第です。それよりも先に行っちゃうと、家からもどんどん離れてしまうし。

 で、帰りはAssemble Nationaleの前あたりでタクシーを拾って帰宅。階段を あがるのもしんどかったから、やっぱリタイヤは正解だった。中国系のタクシーの運転手からは、「スケートかい?」と聞かれました。自宅に着くまでいろいろ話してきたんだけど、なんでもバカンスあけの9月が参加者のピークで、天気のいい日には5000人以上集まるそうな。そういうときは、タクシーの仕事もあがったりだそうです。そりゃそうだなわな。

 この日の参加者は推計 500人といったところ。いやー、思ったよりもペースが速いんだ。のんびり滑っていたらどんどん列の後ろにやられてしまう。けっこう必死に滑りました。
 車道をスケートで滑ったことのある人ならご存じのとおり、路面の凹凸があるんでかなり脚力がいるんですよね。おまけにRue de TolbiacRue d'Alesiaが延々と昇りだったので、これで一気に息があがってしまった。

 途中、Place とか大きな交差点では行進列を縮めるために小休止が入るのだけど、Place Victor Baschでは完全にバテバテ。まあ、その先はモンパルナスまで下り坂だったからなんとか息を整えられたけど、モンパルナス・タワー近辺の売店で水を買っているうちに列の最後尾になってしまった。一応、水は用意したのだけど、25CLボトル一本だったのが敗因でした。

 最後尾になると、スタッフとCRSローラー隊のプレッシャーをもろに受けてしまう。なにしろすぐ横で拡声器を使って「Allez vite !」と煽られちゃう。まあ、小休止の場所でさりげなく先頭近辺に移動すれば、次の小休止までローペースでもついていけたのだけど、Place des Invalidesでは踏ん張りがきかずに転んだこともあって、ああ、もう潮時かなと思った次第です。

 いやしかし、街並みを楽しむゆとりはほとんどなかったけど、車道を堂々と滑れるのは気持ちがいい。路面状態からすれば歩道の方が楽なんだけど、なにせパリの歩道ったら犬のクソがそこいらじゅうにありますから(笑)。毎週日曜午後2時バスティーユ集合・解散の parcours の方がペースは遅いそうです。当分そっちで足慣らしをするかな。

1999年02月25日

 2/26の parcours が pari-roller の webに掲載されていた。
 
40, Avenue d'Italie (DEPART 22h00) → Avenue d'Italie → Place d'Italie → Avenue de Choisy → Boulevard Massena → Avenue d'Ivry → Rue de Tolbiac → Rue d'Alesia → Place Victor Basch → Avenue du Maine → Rue du Depart → Place du 18 Juin 1940 → Boulevard du Montparnasse→ Place Leon Paul Fargue → Boulevard des Invalides → Rue de Grenelle → Place des Invalides → Avenue du Marechal Gallieni → Quai d'Orsay → Place de la Resistance → Quai Branly → Pont d'Iena → Place de Varsovie → Jardins du Trocadero (escaliers) → Parvis des Libertes et des Droits de l'Homme → Place du Trocadero → Avenue Kleber → Rue de Presbourg→ Avenue des Champs Elysees → Place Clemenceau→ Avenue Winston Churchill → Pont Alexandre III → Quai d'Orsay → Boulevard Saint Germain → Rue Saint Jacques → Boulevard de Port Royal → Boulevard du Montparnasse → Place du 18 Juin 1940 → Rue du Depart → Place Raoul Dautry (pause) → Rue du Depart → Boulevard Edgar Quinet → Boulevard Raspail → Place Denfert Rochereau → Boulevard Saint Jacques → Boulevard Auguste Blanqui → ...et re-Place d'Italie (1h00)
 
 今回は途中で右岸に出てシャンゼリゼを通りますね。ルート的には83番のバス路線とかなり重なる見慣れたコース。これはぜひ滑ってみたい。トロカデロ庭園から広場のところまでは、どうやら階段を昇っていくらしいのだが、先導の白バイはどうするんだろう(笑)。ただ、天気予報では金曜の夜は雨とのこと。

 ところで昨日OVNIを読んでいたら、なんでもバスティーユ起点で別のグループが毎週日曜午後2時からおなじようなイベントをやっているらしい。“La Friday Night Fever”が再び雨天中止になったら、日曜の方に再トライしてみようと思います。でないと日記を書けない(笑)。


1999年02月22日

 車道をかなりの範囲に渡って一時的に専有しますから、夜でないと許可がおりないんでしょうね。でも日曜の昼にやったこともあるんじゃないのかな。
 午後10時スタートとはいえ、5月になれば10時でも日中ですから、いまからその季節が楽しみです(笑)。
 足下が暗くてもそれほど影響はないのです。そもそも足下を見て滑るような人は、屋外を滑っちゃいけません(笑)。スキーやアイス・スケートも同じですが、バランス系スポーツのコツは「足下を絶対に見ない」ことですので。
 ローラースケートだと軽く流すときで時速15キロ程度、ハイピッチで滑るときで時速30キロぐらいですので、視点はだいたい5メートル前後先に置いておく。もちろん足下はデコボコしてますが、それへの対策は、いかに正確にスケートに乗っているかってことで、これはスキーなども同じです。
 でもまあ、石畳の上は普通の滑り方などできませんけどね(笑)。極悪路はタップを踏むようにして進っきゃありません。


1999年02月19日

 19日の parcours は……雨天中止となってしまった。
 集合時間の約10分前に家を出て、Place d'Italieまでは靴のまま歩いて行った。上り坂の濡れた一般道なので、スケートで行くのはちょっと怖かったのである。その時の格好は、上はTシャツの上に厚手のシャツ、毛のセーター、そしてカミさんから借りたパーカーといういでたち。パーカーをわざわざ借りたのは、夜なので明るい色の方がいいかな、と思ったからである。去年、シルバーストーン・サーキットで買ったジョーダンGPチームのウィンドブレーカーを着ていこうかとも思ったのだが、色が黒(ハチのマークは入っているが(笑))なのでやめた。

 集合場所のPlace d'Italie Gaumont前には、すでにスケーターが200人ほどたむろしていた。まあ、小雨ということで、集まりが悪いのだろう。車道の脇には先導の白バイ隊と付き添い警護のパリCRSローラー・チームがいた。
 
 スタートまでまだ時間がありそうだったので、たむろしていた人がぼちぼちとウォーミングアップを始めた。ワタクシもさっそくローラースケートにはきかえ、プランタン前の広場で軽く足慣らしを始めた。濡れたアスファルトはさすがに滑りやすく、けっこう転ぶ人も多かった。
 
 そんなこんなで時間はいつのまにか10時半。なかなかスタートせんなと思っていたら、Gaumont前で誰かが拡声器でなにやら話をしていた。こちらは輪の一番外側にいたので、声がまったく聞き取れない。なにがあったのかわからんうちに、たむろしていた人数の半分ぐらいがドドッと移動を始めたので、いよいよスタートかと思い、人の列についていった。
 
 がしかし、一団は Gaumont脇でストップ。そこで15分ほどうだうだと時間が過ぎていったが、10人ほどが離脱して勝手に滑走を始めていった。んー、なんかおかしいなー、と思い、再び Gaumont前に行ってみると、先導するはずの白バイ隊の姿が見えない。ありゃ、ひょっとして中止なのかいなと思い、所在なげに立っているスケーターの一人に聞いたら、今晩は“annule”とのこと。なんだよー、中止になったのに、みんなトグロ巻いてただけなのか。
 
 ……ということで、pari-roller への挑戦は来週に持ち越しとなったのでした。ああ、それにしても、30分ほどの足慣らしでもけっこう筋肉痛が(笑)。


1999年02月18日

 pari-rollerの webにアクセスしたら、19日のコースが掲載されていた。

 40, Avenue d'Italie (DEPART 22h00)
 
Av de Choisy → Bld Massena → Av d'Ivry → Rue de Tolbiac → Rue d'Alesia → Av du Maine → Bld Montparnasse → Bld des Invalides → Esplanade des Invalides → Quai d'Orsay → Quai Branly → Avenue de Suffren → Av de la Motte Piquet → Bld de la Tour Maubourg → Rue de Grenelle → Av GAllieni → Quai d'Orsay → Bld St Germain → Rue St Jacques → Bld du Port Royal → Bld Montparnasse → Rue du Depart → Place Raoul Dautry (pause) → Bld Edgard Quinet → Bld Raspail → Place Denfert Rochereau → Bld St Jacques → Bld Blanqui ...et re-Place d'Italie (1h00)
 
 6区・7区をほぼぐるりとまわるルートである。途中、アンバリッドやエッフェル塔の近くを通過するので、眺めはけっこういいかもしれない。ただ、天気予報では明日の午後は雨なので、んー、降ったらパスだなあ。


1999年02月14日

 PARI ROLLERとは、ローラースケート(といっても実際にはローラーブレードが主流)の愛好家たちの団体である。昨年来、毎週金曜の夜になるとPlace d'Italieで集合し、パリ市内を三時間滑走している。警察が先導して車道上を滑り、行進列の最後尾にはボランティアが自転車でケアするなど、けっこう大がかりな体制で活動がおこなわれている。参加は自由で、多い日には2000人以上のスケーターが集う。
 
 この PARI ROLLERの活動を知ったのは、うちの前の通り(Boulevard de Port Royal)がしばしばコースになっていたからである。毎週金曜深夜になると、俄雨が降ったかのような音が聞こえてくることがあった。何事かと思って外を見たら、膨大な数のスケーター集団がいた、というわけだ。活動の詳細については、後日、OVNIの記事で知った。
 
 小学生時代は、アメリカのローラーゲーム・チーム、LAサンダーバードに熱狂し、学生時代には週末になると代々木公園や駒沢公園で空き缶を並べて滑りまくり、会社員となってからも時折後楽園のリンクで滑走していたワタクシとしては、パリ市内の車道をおおっぴらにスケートで滑るなんてことは、じつに魅力にみちみちたことであった。ああ、足がうずく。年末年始の一時帰国のときは、倉庫をひっくり返し、20年前に買ったスケート靴を引っぱり出し、パリまで持参した。もちろん埃のせいでベアリングまったく転がらなくなっていたが、丹念にグリースをさし、まあ、なんとか滑れるぐらいの状態にした。
 
 とはいえ、十数年のブランクからいきなりアップダウンの激しいオンロードを滑るのはキビシイ。まずは足慣らしを……と思い、今日は近くの公園まで試走しに行ったのである。場所はLuxembourg公園の手前、Avenue d'Observatoireの中にある縦長の公園である。その一角に、長さが50メートル、幅が5メートルほどのアスファルト舗装のエリアがあるんだが、そこでは時折子どもたちがスケートの練習をしている。
 
 ここ数日と同様、この日も朝から晴天。カミさんと子どもの三人連れで公園に向かう。天気のいい日曜ということもあって、公園までの道、けっこう多くの人がローラーブレードを履いて歩道を滑っていた。年齢層はマチマチ。スケートもすっかりパリに定着したのだなと実感したものである。
 
 公園に着いてから、ベンチで靴をはきかえる。エリア内には子どもが十人ほどと、バックパックを背負った大人が一人だけ。スペースは十分なので足慣らしにはちょうどいい。が、さあ滑ろうと思ったら、ムスメがまとわりついて離れない。どうやら一緒に遊んでほしいらしい。まあ、こちらも本格的な滑走ができる状態ではないと思ったので、今日はムスメと戯れながら30分ほど滑った。手を引っ張らせたり、競争したりとか。それでもまあ、けっこう感じが戻ってきたので、次はいきなり金曜夜の三時間パレードに参加してみようかな、などと思っている。


1999年02月11日

 前にちょこっとお話ししたPARI ROLLER、今日、事務局に電話してみたら、留守番電話で次のスケジュールを流すだけで、参加は自由みたい。で、広報用の Webがあります。
 
http://www.pari-roller.com/
 
 原則として毎週金曜夜10時に Place d'Italie 近くの映画館前で集合、週によって違うルートを選択しつつも、夜1時にふたたび Place d'Italie に戻るというスケジュールだそうです。参加は無料で特別な資格も不要。保険も任意みたい。ただ、広報 Webではスポーツ保険への加入を勧めておりましたが。
 アップ・ダウンのあるオンロードで三時間滑走というのはしんどそう。少しどこかで足慣らしを積んでから参加することにしよう。
 フランス国内の patineur が履いているのって、やっぱインラインのブレードが主力なんすよね。靴もプラスチック製のブーツ・タイプ。わしが持っているのは20年前の流行のタイプで、当時は NIKE のナイロン・コルテッツに直接鉄のシャシを固定します。見てくれはいいんだけど、足首のサポートがないんで、足の前部の筋力をえらく酷使するうえに捻挫もしやすい。やっぱ無理は控えよう。


1999年02月07日

 理工系と経済経営とが「分離」している状況は、もしかしたら日本ぐらいのもんかもしれない(細かな比較調査をしているわけじゃないんで推測にとどめますが)。アメリカでも工学部のなかに経営工学の学科が置かれていることは珍しくありませんから。本来であれば、現場→管理職というクライミングが顕著な日本こそ、理工系学部と経済経営コースの合体があってしかるべきなんだけど、そこはそれ、日本では「学校でやることは実社会では役に立たない」というアプリオリな前提が阻んでいるんでしょう。
 でもそんな発想が金融の弱体化につながったんじゃないのかなあ。アメリカやイギリスの腕利きディーラーって、たいていは学部は理学部か工学部の情報工学系、大学院は経済経営系って人たちだもんね。先日、日本に滞在していたとき、デリバティブ商品のシステム開発をやってる元同僚と話す機会があったんだけど、彼も理数系出身で、いまの金融商品は超関数(といってもシュヴァルツの distribution の方)を理解しないと開発不能だなんて言ってた。
 その点では、アメリカもフランスも理数系の「価値」を(少なくとも平均的な日本企業経営者よりも)評価しているような印象があります。


1999年02月06日

 路線によっては夜遅くてもそれほど怖くないのですけどね>メトロ。たとえば Gerge V からメトロ1番に乗って Palais Royal から7番に乗り換えて Place d'Italie までというのなら、まあ、それほど抵抗感はない。だけどメトロ4番で Les Halles よりも北に行くっていうのは、9時ぐらいでもちょっと緊張するかも。遅い時間ほどバスが正解でしょうね。
 ローラースケートはベアリングにすっかりと錆が出たらしく、グリースを差して円滑化をはかっています。


1999年02月05日

 なにせ92年は RER A線で Cergyまで通っていましたから、いやでも真っ先に慣れてしまいましたがな。日によっては Cergy Prefecture を夜11時ごろに出ることもあったのだけど、郊外の夜の RER駅は、慣れていてもやっぱ怖いもんです。
 1月31日に日本からパリに戻ってきたのだけれど、家族3人だったので空港からは迷わずにタクシー。で、periまでは順調に行ったのに、そこからがなぜか bouchon。運転手によれば、でかい manif が三つあったので、市内の幹線道路が大混雑してるとのこと。2月はデモの季節じゃないだろうがと尋ねたら、なんでも PACS の反対デモがあったのですってね。ありゃりゃ、あの法案、まだ通過しとらんかったのか。
 今回は日本からローラースケートを持参してきたので、少し足慣らしをしてから、PARI ROLLER に参加しようともくろんでます(笑)。集合場所は Place d'Italie で、うちの前の道を使うことも多いんすね。道路を専有して2000人のローラースケーター集団を眺めるたびに(警備の警官もローラースケート(笑))、20年前に代々木公園で空き缶を並べて滑っていた時代を思い出してしまったのだ(笑)。


1999年02月02日

 重い荷物をかかえているのなら、いっそ最初からタクシーで行ってしまうのがベストだと思います。空港からリヨン駅までであれば、平日の午後7時までであれば220フラン前後だし、日曜や午後7時以降であれば250フランぐらいでしょう(混雑状況によって1割ぐらいの違いはありますが)。
 公共交通機関を使う方法であれば、

 ■空港→Opera(ROISSYBUS)、Opera →Lyon(タクシー)
 ■空港→Opera(ROISSYBUS)、Auber →Lyon(RER A線)
 ■空港→Chatelet(RER B線)、Chatelet →Lyon(RER A線)

 Chatelet駅での RER B線からA線への乗り換えはすぐです。もしかしたらおなじホームの反対側の voie だったかもしれない。
 経費節約を目指すのであれば、RER のみを利用するルートがいいでしょう。ただし、空港の到着ターミナルが CDG1 の方だとシャトル(navette)に乗って RERの駅まで移動しなくてはいけません。CDG2 だったら空港内を移動するだけで駅まで行けるのですが。
 メトロで移動するにも RER で移動するにも、改札を通過するのがけっこう面倒だったりするし(RER の駅は切符を通さないと出られません)、駅構内での移動も階段の昇り降りがありますので、重い荷物があるときはかなりナンギです。
 その点、ROISSYBUSなら荷物の上げ下ろしはバスに乗降するときだけですみますが、Opera からの移動は結局バス、メトロまたはタクシーを利用しないといけない。タクシーを使うとなると、タクシー乗り場まで移動するか、流しの車をつかまえねばなりませんよね。それくらいなら、空港からタクシーで移動した方が、出費は100フランほど増えるけれども、はるかに合理的だと思います。荷物をかかえた旅行者は、ひったくりの標的になりやすいことも留意しておいてください。


1999年01月10日

 昨日まで京都を徘徊しておりました(笑)。
 ワタクシは同世代よりも収入の多い会社におりましたので(そのかわり就労時間も同世代の5割増以上でしたが)、chouchouたちの初年度年収・30歳年収を聞いたときに、「そんな程度か」と思いました。バブル期には35歳・年収一千万が高収入サラリーマンの一つの目安になっていましたから、ますますフランス人エリートの相対的低収入を感じました。
 経企庁や国税庁、総務庁などの統計から推計すると、日本の給与所得者世帯の平均年収は720万円、世帯主に限定すると590万円(平均年齢44歳)だそうです。フラン換算すると世帯所得が360K Frs、月平均で 30K Frsですから、家賃10K Frs のアパートを借りられる(笑)。つまり、日本の給与所得者の平均的な世帯所得があれば、パリのいちばん家賃の高い地域(6区ですね)で 4 pieces の高級アパートに暮らせるってことですね。この平均所得、対象を東京に限定すれば800万円ぐらいですから、フランス人のエリートの所得は東京都在住の平均的給与所得者と大差ない、ということになると思います。
 
 フランスの理数系大学院を支えているのは、女性と外国人留学生じゃないでしょうか。パリ第一大学の UFR mathematique, informatique に登録したとき、半分は女性であり、おなじく半分は留学生でした。教官など7割が女性でした。
 フランスの大学理数系だとベトナム人やエジプト人の「天才」たちが集まってくる。それがフランスの自然科学の底辺を支えているように思います。ちょうどインド人や中国人がアメリカの理数系有名大学院のトップを占めているのとおなじ現象ですね。こういうのは、フランス語圏・英語圏のような言語圏のある強みでもあるのでしょう。
 ひるがえって日本を見るに、東大だろうが京大だろうが、理学部に女子学生があまりおらん。ごく少数の女性は化学や生物系ばかり。もちろん数学教室や物理学教室にだっているけれど、数は圧倒的に少ない。だいたい学問の能力に性差などないはずですから、女性科学者が少ないということは、それだけ資質を持つ者の参加が損なわれているってことです。まあ、逆に言えば、日本の科学界はまだ余力があるともいえるわけですけどね。


「超俗の大数学者」と呼ばれた故・岡潔は、修士課程まで修了しておかないと雑誌掲載論文が読めない、逆に言えば、論文を読めるようにするためだけに二十代前半まで費やされてしまう、これはもはや科学の危機である、なんてことを述べていました(小林秀雄との対談『人間の建設』にて)。余談ながら岡潔の最大の業績である「岡の原理」はフランスで発表され、その日本語訳が出たのはわりと最近のことですね(笑)。
 アメリカの大学・大学院は、輝かしい部分だけが強調されるあまり、切り捨てられている部分や影の部分が伝えられていないように思います。フランスの大学だって設備のひどさたるや、悲惨なものですしね。結局のところ、どの国の高等教育機関にも「○○の大学にいくのはやめなさい」的な状況があるように思います。


1999年01月04日

 フランスの給与所得者の平均賃金は日本の3分の2程度だったと思います。で、HEC, ESSEC卒業生の平均初年収が 240K Frs 程度。いまのレートで年収 500万円ほどで、これがトップ・エリートのスタート年収です。どこまで昇給するかは、個人差が極端に大きいと思いますが、日本では大企業サラリーマンの生涯賃金が3億円といわれてますから、額の平均自体はやはり日本の方が上じゃないでしょうか。日本って、大不況といわれた98年ですら、一人あたりの GNPが世界第四位っていうバケモノのような経済超大国ですからね。一〜三位が「小国」ですから、日本人の収入はケタ違いと考えていいと思います。
 ただ、ヨーロッパだと専門分野で徹底した能力給を支給するところがある。とくに金融系。フランスではなくてイギリスの例ですが、97年に年収トップだった人は、野村証券のイギリス法人と契約していた敏腕ディーラーで、獲得収入は4000万ポンド、約80億円だったそうです。これってほとんどマイケル・ジョーダン並み(笑)。本当の頂点の収入を比較したら、欧州に軍配は上がるような気がします。
 世界の大学ランキングは、アメリカの一科学者が勝手に発表したものでしたよね。たしかにパリ大学がトップになっていたけれども、こと理学部の学生に関するかぎり、ワタクシはパリ第六大学よりも東大理学部の方が上だと断言しちゃいます(笑)。教官にしたって、サイエンスで世界的に有名な学者って、たいていは polytech か normale にいるんじゃないんですかねえ。東大高等数理研究院(かつての理学部数学科)が紀要交換をしているのもパリ大学じゃなくてこちらの二校の方です。


 HEC や ESSEC には、ENA受験準備コースって授業もある。ENA の受験視覚が DEA または grandes ecoles の diplome保持者だっけかな。
 余談なのだけど、厳しい選抜試験がある高等教育機関の受験生は、そうでない学校の登録希望者が大学でやるようなことを、高校生のうちにやるって「法則」がありますね。俗にアメリカの大学生は日本の大学生よりもよく勉強するといわれるけど、数学に関していえば、アメリカの州立大学の1・2年生がやる内容って、日本の高校教科書レベルだそうです。日本の大学生はアメリカの州立大生が大学で必死にやってることを、受験勉強の過程で済ませているというわけだ。フランスのトップGEについても、おなじようなことが言えるんじゃないでしょうかね。


1998年11月22日

 Martin, Thomas, Richard ならおります。でも Pierre, Jean, Michel がないってのがちょっと意外。Thomas よりは多いような印象があるんですけどねえ。あとは Patrick とか。
 そういや、昨日、うちの隣の映画館でまたしても映画のロケがあったのだけど(その映画館、なぜか年に2度ぐらいは映画のロケに使われる)、アズナブールの映画だったらしく、警戒がえらく厳重でした。


1998年10月30日

 午後の遅い時間にコーヒーを飲むと、ずいぶんと寝付きがわるくなるようになったしまったのだ(;_;)。30台前半まではそんなことなかったんすよ(一昨日、ついに30台末期に入ってしまった(笑))。だけどいまはもうイチコロ。仕方ないので午後5時以降に飲むコーヒーは deca ばっかです。本当は夕食後に濃ゆい express を double でぐびといきたいのだけど(;_;)。


1998年10月27日

 express は本当に慣れないと「苦いだけ」ですが、慣れるとこれじゃないとダメになりますねえ。かつては水代わりに飲めたデニーズのアメリカンも、いまでは薬のように感じてしまう(当然か)。日本でコーヒーを味わいたいときは、いまやドトールが頼りですがな。
 ここ何ヶ月か、地元カフェで3時間仕事をするのが日課になっているのだけど、最近はもっぱら the au lait です。22 Frs だけど3杯飲めるのが手頃で(笑)。
 ええっと、エスプレッソを注文するときは、un express ということが多いっすね。それでつい日本でも「エクスプレス」と言ってしまうことがある。
 でも最近はもっぱら deca の方。量を飲みたいときは double deca です。
 話は違うけど、先週、オペラの近くにできた新しいラーメン屋に行って来た。「ふらり」って店なんだけど、お一人様無料券があったので。味は東銀通りのサッポロラーメンに感じが似てます。値段はこっちの方がちょい高いかも。チャーハンはちょっと好みではなかった。
 帰り、久々に JUNKU堂に寄ったのだけど、ここ、また雑誌を立ち読みできるようになったのね。ついついスピリッツを古い号まで遡及して読んでしまった。これでまた「金曜は立ち読みの日」が復活するかも(笑)。


1998年10月12日

 フランスに留学する人から、「行くまえにどんな本を読んでおいた方がいいか?」という質問をよく受けるのだけど、ぼくは中公文庫『日本の歴史』全25巻をすすめています。フランスに滞在する日本人がフランス人から質問されることって、まず日本の歴史や時事問題なんですから、出発前にフランスの本を付け焼き刃で読んだところで意味がない。一夜漬けするなら日本史ですね。


 少なくとも「絢爛豪華」とか「光のカーペット」と形容できる夜景はパリにはないですねえ。それは横浜もおなじなのだけど(横浜の場合は夜景の展望スポットが極端に少ない)。
 上空からパリの夜景を初めて見たのは今年の2月なんですが、そのときは、道路にしか明かりがないおかげで、「光る道路地図」というような光景をタンノウできました。凱旋門付近はなかなかの壮観ですね。


1998年10月08日

 パリにはそもそも夜景が存在しません。ニューヨークや東京などにくらべ、夜景のもとになる「あかり」が少ないのです。
 まず、一般の建物。オフィスは5時以降ほとんど人がいないので真っ暗。無駄な電気を灯すところも少ない。個人の家は間接照明で、窓からこぼれる光は最初から乏しい。残るは街路灯と自動車のヘッドライトだけってことになってしまう。これがじつにナサケナイ夜景を構成します。凱旋門あたりから眺めると、やせ細ったヒトデがべたっと広がっている感じですね。
 ただし、周囲にまったく民家がないに等しい大都市だけあって、上空から眺める夜景はそれなりに美しい。パリの夜景を楽しむ方法は、夜、パリ上空を通過する飛行機から眺めることだと思います。
 うーん、夢をブチ壊すようで申し訳ないんだけど、数年前に凱旋門から「夜景」を眺めたときの正直な感想がこれ。壮麗さでは阪奈峠から眺める大阪の夜景(←正直、これが世界一なんじゃないかと思う)の方が百倍も上だと思います。
 パリの景色は昼こそ素晴らしいと思います。個人的な好みは、ポンピドーセンターの最上階からの眺めですね。アラブ世界文化センター屋上も悪くない。


1998年10月05日

 いわゆる小銭は貨幣ではなく補助貨幣なので、外貨交換の対象外になるんじゃありませんでしたっけ?
 ただし、フランス国内でフラン硬貨から外貨への購入……という方向であれば可能かもしれませんが。一般に外貨両替は紙幣でやる制度だと思います。
 古い紙幣や硬貨がいつまでも流通する先進国は日本ぐらいのもので(いまだに聖徳太子の千円札が使えるはず。もちろん一万円札も)、フランスではほんの20年前に流通していた10フラン硬貨がもう使えませんよね。ベルギーは去年紙幣が変わったのだっけかな?
 カミさんが昨年の夏に手にした1000 BFrs 札が、今年の5月にはすでに使えない状態でした。
 まあ、変更間もない紙幣やコインなら、銀行に行けば流通中のものに交換してもらるので、実質損はありませんけどね。それより古いものなら、ずっと貯め込んでコレクター的価値が出るのを待てばいいのだし(笑)。


1998年10月03日

 かつてサンチーム玉処理では vignette を買ってました。いまどきサンチームを使える自販機なんて、そうそうはないですからね。しかも vignette なら必ず使う機会があるし。
 ある日、大量の10サンチームをぶちこみました。だけどあの機械、一定の硬貨数まで受け付けないようで、16個目かのサンチームを突っ込んだら、これまで投入した硬貨を吐き出し始めました。しかもあれ、一気に出てくるんじゃなくて、ツバを吐くように一個一個じっくりと出てくる。かえって余計な時間を取られてしもたぜ。


1998年09月30日

 Lido で上演している大道芸はさまざまです。客の反応が悪いと、三日でクビになるというから、かなり厳しい世界なんでしょうね。
 ぼくが見たときに印象に残ったのは、ひとつは東洋人の「壷芸」(っていうのかな)。やることは単純極まりない。おでこに壷を乗せて、それを回転させたり位置を変えたりするだけ。でも単純だけど、あんなことは絶対に真似できないと思わせる凄さはあった。
 で、最後に超特大の壷(ってよりも、ほとんど火鉢サイズ)を、両手に持って勢いをつけておでこに乗せた。がしかし、乗せたはいいけど、見るからに相当な重量があります。それをどうやってまわすのだろうと思っていたら、その芸人、壷をまわすのではなく、壷の位置を変えないまま、自分の立つ位置を90度ずつ回転させた(笑)。その間のとりかたの絶妙さ。場内は大爆笑でした。
 その他、体操チームのアクロバティックな芸もあった。
 最後に登場したのは帽子芸の人で、この芸人はレギュラーみたいですね。接待に連れてきてくれた人は、いつも出ていると言ってました。これはもう爆笑の連続だった。とにかくわざと失敗ばかりするのです。そして最後にものすごい技をびしっと決める。あれは見ていて、「いよ!
 大統領」という古典的な合いの手をいれたくなってしまう(笑)。


 小銭の両替といえば、うちの近所の郵便局にはついに札の両替機が導入されました。昨日、アメリカの知人宛に郵便物を送ろうと思ったのだけど、窓口が混雑していたので、自動販売機で vignette を買おうと思った。でも小銭がない。仕方ねえ、行列に並ぶか……と思ったら、見慣れない機械が一台。それが札の両替機だったのです。
 対象は 50、100、200 Frs札で、50 Frs 札を入れたら 10 Frsコインが四枚、5 Frs が一枚、1 Fr が五枚出てきました。
 札の入り口が日本の機械とは違う。丸いのですね。正確には、丸みを帯びたU字型。ちょっと違和感はあるけれど、その形に沿って縦方向に札を突っ込めば、ぐいーんと吸い込んでいきます。
 ヨーロッパではドイツがわりと早くから自販機で札を扱えるようになりました。マルク紙幣のデザインが変更になったとき、札に金属ストライプが埋め込まれ(偽造防止のため)、そのストライプに金額と単位がプリントされたのですね。それで比較的簡単に読みとりができるようになった。
 フラン紙幣のデザイン変更が決まり、サン・テグジュペリの 50 Frs が登場したときも、金属ストライプが埋め込まれた。これでフランスも札を扱える自販機が増えるかなと期待したのだけど、フランの方にはそういう刻印が見あたらなかった(マルクはわりとはっきりわかります)。ちょっとガッカリしましたね。
 でもまあ、ストライプ部分だけで認識させるわけではないでしょうから、新札が完全に登場した時点で開発したのかも。


 Lido ではいちばん安いチキンを食いましたが、あれって完全に Rest-U 並みですね。料金は20倍するけど(笑)。まあ、Resto-U では、おっぱいショーも大道芸も見られないですからねえ(当然か)。


1998年08月14日

 昨日はたまたま『クラブとサロン』という本を読んだのだけど(NTT出版)、ローマ時代のローマのフォーラム、産業革命期のイギリスのコーヒー・ハウス、そして宮廷時代のフランスのサロンの対比がわかって、なかなかおもしろかったです。あの保険組合のロイズがもともとはコーヒーハウスだったというのは初めて知った。
 本のなかに「寝室に集まる人々 〜フランスのサロン文化〜」という章があるのだけど、もともとのルーツは、宮廷での人間関係に疲れたランブィエ侯爵夫人が引退後に自宅で始めた私的な集まりのことだったのね。


1998年08月08日

 うちも隣がパン屋なのだけど、最近はここを「ピエールの家」と呼んでます。そこの長男のピエールが、うちのムスメとおなじ幼稚園のおなじクラスなんですねえ。
 しかしパリっていうのは、昔の横浜の(東京もそうだったのだろうけど)下町風情が残っていてなかなかよろしい。うちのアパートの一階にある食料品店のおやじは、トイレに行きたいときは顔馴染みをつかまえて店番をさせてしまうのだけど(笑)、最近はうちのカミさんがよくつかまるらしい(笑)。


 最近、午後4〜6時は地元カフェに入り浸って仕事してます。まあ、以前からここのカフェ(っつーかブラスリー)はずっと使っているんだけど、当然ながら完全に顔馴染み。常連客にはマネージャーが握手しに巡回しにするんだよな(笑ホ)。
 ただこのカフェ、過去6年で少なくとも2回はマネージャーが替わったと思う。それにギャルソンだってだいたい三ヶ月ぐらいで入れ替わってしまうしね。折角顔馴染みとなったステファンやナディアたちとも、残り少ない日々となるに違いない(笑)。


1998年08月07日

 車を借りるのにいつも利用する Ada Tolbiac事務所の向かいに、「おじさんカフェ度」ほぼ満点なカフェがあるんですよね。いまのところ看板娘を目撃してはいないが、これは時間帯のせいだと思う(笑)。
 ここのカウンターで初めて grand cremeを頼んだとき、12フランぐらいだろうと思って10フラン玉を二個置いたら、一個をそのまま返され、さらに釣り銭が 2フランあった。
 話は違うけど、最近は cafe au lait ではなく creme とか grand creme って表示をするメニューが増えてますね。でも cafe creme って言い回しを知らないと、「grande cremeの間違いじゃないのか?」なんて一瞬思ってしまいそうだけど。注文のときだって「Un creme」だから、なんか違和感があるったらありますがね。


「観光ぼったくりカフェ」というと例の三つのカフェがすぐに思い浮かぶし、スノッブカフェとかいうと Cherche Midi通りあたりのカフェかいな、なんて気もするんだけど、有閑マダムカフェなんつーと、どのあたりがあるんでしょうね(笑)。
 銀座の風月堂は行ったころがあるけど、シャンゼリゼの風月堂はまだ未経験。
 週に一回は Pyramidまでラーメンを食いに行くのだけど、その帰りによく寄るカフェのメニューには、ついに日本語表示がワープロ印字で加わりましたぜ。以前からあのあたりのカフェでも日本語の手書き入りは結構多かったですけどね。


1998年07月25日

 たしかに京都と巴里は姉妹都市なので、京都のイベントが巴里で開かれてもおかしくはないのだが、それでも時代祭を巴里で観られるとは思わなかった。これ、日本ではまだ観たことがない。

1998年06月23日

 昨日の fete de la musique、例年より出だしが遅かったような気がする。
 なにせこれが楽しみでパリに住んでいるようなもんなんで、前日からどのあたりを徘徊するか考えてしまう(笑)。それでもいつも近場にしちゃうんだけどね。去年は主として jardin des plantes を見てまわりました。
 うちの近辺だと例年2時ぐらいから近所のモロッコ料理屋で生バンドがロックを始めるんだけど、昨日はどこからも音が聞こえなかった。W杯の影響か日曜ってことなのか、今年は地味なのかいな、なんて心配したもんです。でも前日バスで assemble nationale の前を通ったときは、けっこう大がかりなコンサートの準備をしてはいたんで、やるところはやるだろう、なんて思ったが。
 だけど6時ごろからぼちぼちと、8時から一斉に各レストランやら交差点で始まりましたね。わしらは6時ちょい前に Canon des Gobelins つー「待ち合わせカフェ」に行ったのだけど、道を挟んだ向かいにロック・バンドが1組。彼らは毎年来ています。どちらかというとヘビメタ系。
 ここで1時間ちょい眺めてから place d'Italie へ。Avenue des Gobelins 近辺もバンドが多いとこなんで、もしやと思ったのだけど、どこからも音が聞こえてこない。でもロータリーまで着いたら、二ヶ所からシンセと太鼓の音が聞こえてきた。シンセの方は Gaumontの前で、太鼓の方はバス・ターミナル近辺でした。この太鼓が良かった。パンフレットを配っていた人によれば、セネガルの民族音楽なんだそうだ。
 ここで30分ほど立ち聴きしたあと、Avenue des Gobelins を自宅方面に下ると、途中で一ヶ所、演奏の準備をしているバンドがいた。いつから始めるのか尋ねたら8時ごろから、とのこと。そのときは7時だったのだけど、ころあいよく腹が減ったので近くにあったインド飯屋に入ったのだった。
 で、その隣りにあるスペイン飯屋の前でギターのアンサンブルが始まったのが7時半ごろ。そしてインド飯屋でも8時ごろからタンゴのダンサーペアが踊りを始めた。わしらのテーブルは両方の店のちょうど境界線だったので、正面からはギター、背後からはタンゴという板挟み状態でしたね(笑)。
 メシが終わってからさきほどのバンドのところに行くと、けっこうな人垣ができてました。時間は8時半、まだまだ日は高い。ここもロック系だけど歌がうまかった。パリで聴く“Englishman in New York”も味があっていい(笑)。ここで30分ぐらい聴いてたかな。
 9時ごろになると、さすがに日が陰ってきて、しかも風が強まってきたんで退散しました。Gobelins交差点の方は相変わらず盛り上がっていた。2時ぐらいまで大騒ぎしてましたがね。
 やっぱパリは夏至の日が最高ってことを再確認(笑)。


1998年05月25日

 ストラスブールも前々から行きたいと思っていた街である。もしかしたら、94年に引っ越してきたかもしれなかった。ストラスブール第二大学で講師をしていたPhillipe BRETONという研究者に師事しようと思ったことがあるのだ。電話で相談したこともある。BRETON氏もほぼ毎週、パリ第1大学に非常勤講師として通っているため、パリでも「弟子入り」は可能とわかった。結果的に、ほぼおなじ領域の研究がパリ第3大学でもできることが分かったので、そちらに進むことにしたわけだが。
 ストラスブール自体は小さくて綺麗な街だ。フランスのエリート校ENAがあるとか、欧州議会が置かれているなど、典型的な文教都市といった感じだ。ドイツ国境沿いにあるため、いろいろな店でドイツ・マルクがそのまま使えた。

1998年05月24日

 とくに有名な観光地がある、というわけではないが、ルクセンブルクには前々から一度行ってみたいと思っていた。アンの洞窟からフランスに向かうとルクセンブルクを通過することになるので、この機に一泊してみた。ただ、この街はEUの官庁街みたいなところなので、ちょくちょく大きな国際会議が開催される。この日も金融関係の会議期間中ということで、空いているホテルを探すのに一時間かかってしまった。
 ルクセンブルク市は案外と起伏があり、城壁から見下ろす光景はなかなか絶景である。フランスのブルターニュ地方にあるディナンを大規模にした感じだ。

1998年05月23日

 ベルギーは国土そのものは狭いけれど、そこはそれ、大陸の一部。けっこう雄大な景色やら名所があちこちにある。ルクセンブルクとの国境にも近い小さな田舎町 Han sur Lesse には大鍾乳洞がある。ここ、それほど期待して行ったわけじゃないんだけど、いやもうすごかった。
 街中から小さな専用列車に乗って洞窟の入り口まで行き、そこからフランス語またはオランダ語のツアーに加わって見物するんだけど、日本の鍾乳洞とは規模がまったく違う。ジュール・ヴェルヌ原作の映画『地底大探検』の世界そのまんまです。
 洞窟内の気温は一年を通じて13度に保たれているとのこと。この日は外も18度程度だったので、洞窟に入ってもそれほど寒いって感じはしなかった。足下がすべるわけでもないし、急な坂や段があるわけでもないので、3歳の娘もそのまま歩かせられた。まあ、小さい子にしてみたら、鍾乳石を見ることもままならず、ひたすら薄暗いところを歩かされただけ、だったかもしれない(笑)。
 特徴のある鍾乳石には名前がつけられている。この石、なんて名前だったかいな。ヨーロッパの鍾乳洞だとたいていは「悪魔のなんたら」とか「天使のうんたら」という名称が多いのだけど、ここもその類だったような気がする。
 グループの先導をしたのは、地元の大学の学生だった。もう何度もやっているんだろうね。石の名前から形成に何年かかっているか、なんて説明を、ごくごくスムーズにやっておった。
 写真中央に映っている大鍾乳石、手前にいる子どもと比べれば、だいたい大きさを想像できるでしょ? 高さ約4メートル。推定で1万2千年がかりで出来上がった石だそうだ。表面にはほこりが積み重なっていたので、触ってもカルシウムの感触はほとんどなかった。
 この洞窟、後半はかなり広い空間が続き、いちばん大きなホールでは、底から天上まで140メートルもあった。地底湖もちょこまかとあり、そのうちの一ヶ所では客席を設け、15分ほどの光と音響のショーをやってくれる。出来映えはぼちぼちってとこなんだが、地底のこんなとこまでライトやスピーカーを持ち込んだ努力は認める。
 写真中央に映っている大鍾乳石、手前にいる子どもと比べれば、だいたい大きさを想像できるでしょ? 高さ約4メートル。推定で1万2千年がかりで出来上がった石だそうだ。表面にはほこりが積み重なっていたので、触ってもカルシウムの感触はほとんどなかった。
 最後は地底湖から船で川下り。これがなかなかおもしろい。でもこういう「本物」を経験しちゃうと、ディズニーランドの「カリブの海賊」がえらくちゃちく感じてしまうんでしょうね。

1998年05月20日

 パリからリスボンに車で行くには、正味二日間かかるでしょう。距離がたしか2300キロだっけかな。まあ、旅行の日程が二週間あればやってみたい気もするけど(笑)。
 もし決行するなら、今回走った感じからすると、南仏まで一気に下ってバルセロナ側から入るよりも、ボルドーから大西洋岸に抜け、それからマドリッド、リスボンと進んだ方が楽そうな気がします。宿泊地はサン・セバスチアンあたりっすかね。
 バルセロナはさすがにカタルーニャの州都だけあって、インフォメーションは〈フランス語できます〉印付きの係員がいました。


1998年05月18日

 パリは連日25度を越す日が続いてます。
 気流がかわるとこれですからねえ。
 ちなみにスペインは曇りがちのようで。


1998年05月10日

 ロワール河沿いは城とワインで有名なところ。アンボワーズは観光ラインのほぼど真ん中にある小さな街。トゥールから見て右岸側が県道で、こちらの方が街並みをぬいながら進めるんだが、途中、大型車を迂回させるロータリーで、国道側にそらされてしまった。ただし、城の全景を眺めるには、対岸側の方がいい。
 アンボワーズの街に入ってからは、橋を渡って県道側に抜けた。橋の途中からは城や街並みが綺麗に見える。小さな街だけれども、見るからにうまそうなレストランが多々あった。本当なら二泊ぐらいはしたいところだが、この日はパリに戻らなければいけなかったので、泣く泣く通過した。
 アンボワーズからブロワに向かう道すがらには、岸壁をくり抜いたワイン蔵がある。まあ、保温がいいってことなんだろう。時間が早ければ試飲をさせてくれるところもあるんだが、なにせここを通過したのが夜の8時(でも日没の1時間半前)だったので、どこもクローズ。

1998年04月05日

 はじめて税金の申告をしたとき、日本での収入分については源泉徴収表に法定翻訳を付けて提出せよといわれました。だけど実際に書類を持って出頭してみたら、法定翻訳なんて見もせずに返されてしまった。翌年、源泉徴収表だけを添付して郵送したら、後日、翻訳を送るようにと電話で連絡が来たので、そのときは自分で翻訳文を作って送りました。で、無事にパス。そして今年、源泉徴収表に最初から自分の翻訳文を添付したんだけど、はて、どうなることやら。


1998年03月14日

 日本語には渇望しましたね。読むだけでなく、書くことの方も。昔の留学生、それも横浜から船でマルセイユに来た人たちが、文藝春秋を隅から隅まで、それこそ広告まで舐めるようにして読んでいた、という気持ちが理解できたような気がします。
 ぼくもホテル滞在中は、とにかく手紙を書きまくりました。もともと書くことは習慣のようなものでしたので、ついつい枚数が増えてしまう。毎日5人分ぐらい、それも一人につき十枚ずつぐらい書いたんじゃないのかな。郵便局から送るときも、最低重量料金にはなりませんでしたね(笑)。
 ホテルから短期貸しステュディオに移ってからは、なんとかモデムを使えるようになったため、ふたたび NIFTYにアクセスできるようになったので、膨大な手紙は会議室発言に切り替わりました。当時は 70円/分の TYMPAS しか使えなかったので、月間の海外接続料金がだいたい 15,000円でした。それでもログの量が一日10KBぐらいかな。いまはもう毎日 600KBぐらいですけどね(笑)。


1998年03月12日

 ぼくがフランスに住み始めたのは6年前のことで、9年ちょっと勤めていた会社を休職しました(といっても最初から辞めるつもりだったので、2年後には退職)。で、そのときはソフト・ハードの二つのスーツケースに大型トランスなど、合計80キロのかかえてパリにやってきたものの、とりあえずの滞在先は Odeon の二つ星ホテル。なにせパリに着いたらまず家を探すことからしなければならなかったので、文字どおり、完全な根無し草状態でしたね。
 
 べつに学者を目指そうとしたわけでもなく、32歳の当時、年収 900万円という恵まれた状況にあり、仕事にも愛着があり、ことさら環境を一新するべき必然性などはいっさいなかったのですね。いまだに「なぜフランスに留学したのですか?」と聞かれても返事に困ってしまう。「一度外国に、それもパリかニューヨークに住んでみたかったから」と答えているのだけど、本当のところはいまだに明確には答えられない。ただ、サラリーマンが多かれ少なかれ抱いている閉塞感というものに、当時のぼくは堪えられず、いちどなにもかもリセットしてみたい気持ちが強かったのは確かです。まあ、いわばその「はけ口」が渡仏という行為につながったのでしょう。
 
 それにしても、成田での心細さったらなかったですね。ギリギリまで仕事が忙しく、荷物の詰め込みさえも当日の朝おこなったぐらいです。四時半まで会社で仕事をし、五時に帰宅して荷物をパッキングし(なにを持っていくのかを土壇場まで決めてなかったので、カミさんにやってもらうわけにはいかなかった)、風呂にざぶんとつかり、あわただしく家を出たのが7時。カミさんの運転する車のなかで多少の仮眠をしたものの、9時に成田に到着し、10時半には搭乗口へと向かいました。
 
 そのあたりになると、あわただしさも一段落し、かわりに「これからいったいどうなるんだろう」という不安が一気にこみあげてきましたね。「いまならまだ引き返せる」とも思いました。航空機の座席につき、周囲は見知らぬ人たちばかり、そしてパリに着けば、知り合いもおらず、住む場所もないという状態が待っている。不覚にも涙がポロリと落ちました。
 
 ソウルで乗り換えてからは、徹夜続きの疲労もあって、感傷に浸る間もなく寝てばかりいました。で、パリ到着の2時間ほど前、最後の食事のところで、たまたま隣の席に座っていたカップルと雑談するようになりました。この人たちがとても親切で、空港ではぼくの膨大な荷物の一部を運んでくれたり、リムジン降り口の凱旋門ではタクシーまで運んでくれたりしたのですが、オオゲサではなしに、このときの親切で「ああ、なんとかやっていけそうだ」という気持ちになったものです。
 
 人間、不安定な状態にあると、ささいなことですぐ悲観的になることもあれば、急に道が開けたような気分になるじゃないですか。ぼくにとってはそのときのカップルの親切が、気分を逆転させる契機となりました。
 
 いやしかし、パリに住んでも腹の立つことばかりで、もろもろの不条理を遊び心で対応できるようになったのは、まるまる二年滞在してからですね。リラックスして生活を見つめられるようになったのは滞在三年目になってから、94年の夏ぐらいからです。このぐらいから、旅行にも出掛けるようになりましたしね。子どもが生まれたのも滞在三年目の年です。
 
 だからこそ、95年秋に日本に一時的とはいて帰ることになったときも、「絶対パリに戻ってやるぞ」という執念がありました。せっかくおもしろくなってきたところで帰るのが、いかにも未練たらたら、悔しいことだったのですね。で、幸い、自由職業者ビザがあっさりと取れたために、翌年の夏に戻れました。
 
 海外に滞在するのはそれだけでも得難い機会だと思う。ただし、「滞在」を実感するには、最低3年はいなきゃ不十分だという気もします。単純に長ければいいというものではないですが、年月が経つから見えてくる風景・人間関係ってやつもあるでしょう。隣の食料品店のオヤジに、「トイレに行ってくるからちょっと店番しててくれ」なんて頼まれるようになるのも、やっぱ3年目以降ですから。


1998年03月01日

 ヨーロッパで怖いのは、高速道路での追い越しもさることながら、対面交通の一般道での追い越しでしょうね。制限速度が80キロの道で60キロ走行中のトラックを追い越すとき、反対車線を80キロで走っている車との相対速度が 160キロあるわけだから、相当見晴らしのいい道で、しかも対向車がはるか彼方にいるときでないと追い越せない。日本の道のような感覚で追い越しを始めると、すぐに元の位置に戻らなきゃならなくなりますね。
 ドイツのアウトバーンなら、追い越し車線を走っているとき、どれだけはるか後方からパッシングを浴びせられても、すぐに走行車線にどく習慣が必要ですね。180キロで走っていても、そういう車は230キロ以上で走っているわけだから。


1998年02月28日

 やっぱ左ハンドルでいちばん苦労するのは、縦列駐車のときですねえ。体をねじる方向が反対になるだけで、ああも感覚が狂うとはおもわなんだ。
 右手でシフト操作をするのはむしろ楽でいいのだけど、左手一本でステアリングを切るのがどうもなじめない。とくにワインディングロードでは頻繁に左手一本になるのだけど、安定性は右手一本の方がはるかに上なんで、運転で無理がきかないっす。


 数年前の調査で、パリ市内を走る自動車の3割が「技術的に問題あり」という結果が出てましたよね。あまりにもポンコツ車が横行するので、controle technique が制度化されたんじゃなかったのかな。
 日本でもむかしから車検費用自体は2万円程度でしたよ。それが10万円以上もするように思われているのは、車検と同時に重量税と強制保険料を支払うこと、車検の際に点検整備もセットでやられちゃうこと、が原因ですね。税金は値切れないけど、整備はすべてカットして「車検でひっかかった箇所だけ整備」って注文をつけておけば、だいたい実質2万円程度でした。
 60 Millions de Consommateurs のレポートでは、日本車(それもホンダとマツダ)が「最も維持費がかからない車」になってますね。それに続くのが BMW やワーゲンです。でもまあ、ヨーロッパにいるときはヨーロッパ車に乗るのが正解だと思うけど(よって、日本にいるときはやっぱホンダっすよ、ホンダ)。


1998年02月26日

 ガイシャの好きな知人によれば、5年落ちのプジョーが狙い目だそうですぜ。だいたい4万キロぐらいしか乗っていないことが多く、しかもフランス車はドイツ車と違い、年式を経ると急速に値が下がるけれども、5年落ちぐらいなら状態はかなりいい、ということで。
 でもやっぱ日本にいるときはホンダにしたい。うちのシビック、今年で13年なのだけど、まだまだガタが来てないので、買い替えるモチベーションがわかない。これじゃ景気がよくならないんですけどねえ(笑)。フランスで「売ります」で出てくる車は、たいてい 5〜8年で20万キロって感じですね。
 それにしても、フランスのガソリン料金も日本並みに安くならんかいな。リッター6.5 Frs はつらい。軽油がリッター4.9 Frs で、ニッポンの246号線や16号線沿いにあるスタンドのガソリンよりも高いですがな(;_;)。


1998年02月24日

 車の振動は共鳴振動ですから、スピードが速いから揺れるってわけでもないですよね。日本車の場合は、90キロとか110キロあたりでいちばんガタガタくるようになっているようです(車種による違いはあると思う)。ヨーロッパ車だと80キロとか150キロぐらいじゃないのかな。ルノーの Twingo でさえ、130キロ走行でもなんの不審振動は感じられませんでした。
 日本車とヨーロッパ車とでは、サスペンションの設定もかなり違いますね。日本車はたしか二度揺れて吸収されるパターンが多いと思ったけど、ヨーロッパ車だと一度で吸収させてますね。だから道路の継ぎ目を通過するときにゴツゴツした感じがするけど、逆に石畳の上を走るときは、そうじゃないと酔ってしまうでしょう。


1998年02月23日

 日本もオリンピックを夏冬あと5回ずつぐらいやれば、一般道も完全に整備されるかもしれませんね。
 ヨーロッパは本当に車での移動が楽ですからねえ(スイスを除く)。日本国内では過去に一日千キロ超という運転は2回しか経験がないけど、あれは辛かった。その点、フランスやドイツだと、なんかもう一気という感じですね。とくにドイツだと一時間で確実に150キロ移動できるし。
 ヨーロッパの地方の道だと、信号のかわりにロータリーがけっこう多いですよね。制限速度も日本の自動車専用道路並みだから、みんなが車で移動するのも当然って気がしますわな。それ以上に鉄道の移動も快適だけど。


1998年02月22日

 昨夏に180キロキープで走った南ドイツのアウトバーンは、どう考えても常磐自動車道より路面状態は悪かったと思う。でも一歩市外に出れば果てしない平原が広がるフランスと日本とでは、道路の建設やメンテのコストがダンチだと思います。それにフランスだって状態のいい autorouteはたいてい有料だし。


1998年02月21日

 3年前だったか、フランス人の柔道世界チャンピオンが筑波で交通事故にあって死んじゃいましたよね。信号を無視して横断しようとして、車にはねられたのだけど。多少酔っていたらしいのだけど、おそらく横断するときに左から確認したのだと思うんですよ。車が右側通行の国だとそうするのが普通ですから。
 ぼくもパリ市内を歩くときは、シャンゼリゼとかモンパルナス通りのような道は別として、たいていは「自主信号」状態なんですが、やっぱ自然と「左から確認」ってクセがついてしまう。だから日本に帰ったときは、これだけは気をつけないとやばいと思ってます。
 でもまったく交通量のない道で、しかも広さがせいぜい二車線分ぐらいの横断歩道で、あくまで律儀に赤信号を待っている光景を見ると、つい「パブロフの犬」って言葉を連想してしまう。


1998年02月15日

 わがアパートの面するBoulevard de Port Royalは、デモの定番コースになっているのだが、今日はかなり大規模な行進だった。それでもドライバーたちは慣れていた様子だが。

1997年12月14日

 そうそう、PRIORITAIRE で思い出した。先日、郵便局に航空便で手紙を出そうとしたのだけど、うっかり「Par Avion」を書き忘れていた。で、窓口でその旨を伝えると、手紙はすべて航空便扱いだから書く必要はないんだと。小包はそう明示しておかないとデフォルトは船便なのでヒサンな結果になりますけどね。
 つーことで、フランス発ならたしかに Prioritaire と書くか Economie と書くか、あるいはなにも書かないか、のどれかってことになりますね。


1997年12月03日

 収入がほとんど日本の口座に振り込まれるので生活費は2〜3ヶ月ごとに送金を手配しているのだけど、額が万フラン単位なので、1円の振幅がそのままン万円の差額になります。3年前はよかった。100 JPG が 5.85 Frs ぐらいだったから。いまは 100 JPY で 4.70 Frs ぐらいっす。まあ、92年に渡仏した時点では 4.20 Frs ぐらいだったから、はるかにマシとはいえますけどね。
 最近わかったことは、日本からの送金はフランス側で口座を持っている銀行と直接取引のところからしたほうが絶対にいい、ということであります。現在、青息吐息の Credit Lyonnais に口座があるのだけど、日本からの送金は東京三菱銀行からやってます。これだと文書扱いでも翌々日には入金されているんですよ。三和やさくらから送金したときは、電信扱いでも四日かかりましたから、直接取引があるかどうかでダンチですね。


1997年11月29日

 成田から京成ライナーに乗って日暮里に出ると、なんかもの悲しい気分になりますぜ。ロワシーからパリ市内に入るときとあまりにもギャップがあるから。こと都市の景観ってことに関しては、東京とパリは比較できない差がありますわな。二階程度の建物がひしめきあっている風景と6階建てのアパートが整然と揃っている光景を比べると、東京のどこが土地不足なんぢゃい、とわめきたくなるぜ。京都の瓦屋根の街並みは許せますが。
 二年前の十月、いよいよ巴里を後にするとき、家の前からたそがれをバックにしたモンパルナスタワーを眺め、この光景もひょっとしたらこれで見納めかと思ったら、涙がぶわーっとわいてきましたがな。まあ、これが I shall return.の原動力になったわけだけど(笑)。


1997年11月27日

 たしかにセーヌを見るとぼくも巴里を実感しますね。日が暮れたあとなんかは、ついついセーヌ河畔を歩いてみたくなる。
 ただ、「巴里にいる」と一番実感がわくのは、ぼくの場合はモンパルナスタワーを目にするときっすね。日本での滞在から帰り、アパートの前の並木道からたそがれをバックにしたこの建物を見るときが、「ああ、おれは巴里におるんぢゃ」と思います。


1997年11月07日

 国道246沿いの川崎〜厚木間だといまはガソリンが 80円/L ですね。これってパリ市内の軽油価格よりもかなり安い。かといってパリが他都市・他のEU諸国よりもバカ高いわけじゃない。要するに彼の地より安いわけだ。ガソリンが高いといわれる長野県内でも97円/L で、これもフランスの国内価格にくらべれば相当安いですね。
 こと物価に関する限りは、マスコミ三原則(オカミは悪い、金持ちは悪い、大企業は悪い)が見事にまかり通っているような気がいたします。電気通信コストにしたって、アメリカ以外に日本よりも明らかなに安いといえる国(シンガポールみたいな規模の国は除外)があるんだろうか?
 半年前に調べたけれど、こと市内通話料金に絞って比較すれば、BT、France Telecom、Deustche Telekom より NTT はだいぶ安いですね。まあ、NTT はたしか市内通話部門は赤字だったと思うけど。


 Communications locales が値下げになると期待していたのだけど、ドル箱の市内通話だからやっぱダメでしたね。月の電話代 1,000 FTTC のうちの大半が市内通話だから、これが下がるとうれしいんですが。まあ、forfait locale を申し込んであるので、ほんの少しは安くなったのだけど。


1997年10月15日

 96年の年収を対象にした直接税は申告が 2月だったのに対して Avis d'imposition が届いたのは 8月でしたがな。税金に関する処理は、ただひたすらトロいっすね。いちばん笑ったのは、4年前に納税台帳登録をしに地区の税務署に出頭したら、おまえは就労ビザを持っていないといって登録を拒否したにもかかわらず、数日後、納税台帳登録がまだされていないって電話がかかってきたことです。このときは「あんたの同僚から『台帳登録できない証明書』を書いてもらったぜ」と対応しました。やっぱ書類は必須です。


1997年10月01日

 今回みやげに買って帰ったモノは、Quincy を 2ボトル(計 80 Frs)、各種オイルサーディンを 8巻(計 50 Frs弱)、Foie のパテ 1瓶(18 Frs)、そしてサラミ一本ってな具合です。いずれも最寄りの Champion にて。
 荷物が少なくて小スーツケースがスカスカだったので、もう着なくなった冬着を詰め込んできましたがな。合計15.5キロしかなかった。
 日本に着いて三日、これまでに買ったモノは、64MB DIMMを 1枚、中古キーボード 1台、ジャンクの Mac IIマザーボード 1枚、それにマンガを80冊ほど(笑)。今日はまんだらけ渋谷店に行ったのだけど、フランス人(とおぼしき少年たち)が4人来ておりました。


1997年04月01日

 フランスで外国人がアパートを探すとき、一点、注意しなきゃいけないことがあります。フランスの不動産業者は法律によって、借り主の収入の3分の1以下の物件しか斡旋できません。借りる方からすれば、たとえば 4,000 Frsの物件を業者に斡旋してもらうには、月収換算で 12,000 Frs以上の収入があることを証明しないとあかんのです。
 企業派遣員であれば、この条件はたいていクリアされますが、個人留学生となるとこれにひっかかるケースが多いと思います。よって留学による渡仏であれば、「不動産業者から探すのは困難」と考えた方がいいでしょう。
 他方、フランスは業者を仲介させない不動産賃貸物件がかなり多数あります。それはミニテルや Figaro 木曜版にアノンスとして出されますから、これらからこまめに探し出すというのは、外国人であっても有力な手段ですね。
 あと、在仏日本人会の事務室、ジュンク堂、Voyageur au Japon 営業所などには、日本人どうしの賃貸物件、あるいは日本人に貸したいと思っているフランス人オーナーの賃貸物件のアノンスが大量に掲示されています。これらから探して借りるというのもひとつの方法です。ぼくがいま住んでいるところは、在仏日本人会のアノンスで見つけたところです。
 その他、OVNIやフランスニュースダイジェストにもアノンスが掲載されます。ただし、それらの物件の多くは日本人会にも掲載され、有料物件はたいてい発行前にはすでにツバがついているようです。
 バスティーユ近辺はけっこう安くていい物件が多いと思いますよ。その近くであればナシオンあたりも人気がありますね。マレ地区は日本でいえば「麻布に住みたい!」というようなもんです。


1997年03月25日

 フランスは(というか、状況はドイツ、イギリス、スイス、ベネルクスもおなじだけど)、「人手のかかるものは高い」と考えて間違いないですよ。逆に自分でなんでもやれば、かなり安く切り上げられます。よって、人間的な最低限(?)の生活コストは東京よりもかなり安くなります。もちろんそれなりの贅沢をすれば、東京よりも高くなる可能性もありますね。
 先日、アパートのシャワーがブチ壊れたのですが、こんなのを修理に頼んだら、だいたいいつ来てくれるわわからないし、一回で修理が終わる保証がない。そういう状況でも確実に日当 500フランぐらいはかかるかもしれない。
 こういうときはまずは BHVの地下売場に行って交換部品を買い、自分で修理してしまう、というのが正しい way of life であります。
 で、スパナ込みで都合 600フランでした。でも BHVで 3〜34ミリのスパナセットを買ったのはいいんだけど、肝心のナットのサイズは 32ミリで、セットの方は見事に30ミリの次はいきなり34ミリでした(;_;)。仕方ないから隣の Brico屋さんでモンキーレンチを買うハメになってしまいましたが、これもまあフランスでしょう。


1997年03月10日

 もう3日も続けて晴れだから、今-0はもう春になったんだろうねえ。今-0の春は3-6日に始まった、ということにしやう。ここ数-0ではいちばん早いんじゃないのかな。おとといは夜更かしのついでに明け方ヘール=ボップ彗星が見えるかと期待したけど、朝靄のせいでまったくダメだった(;_;)。

 カラオケボックスがあるかどうかは知りませんが(あれはニッポンではラブホテルの再利用みたいなもんだし)、Pyramid近辺のいわゆる日本人街にはけっこうカラオケの店が多いですね。それもニッポン式の。
 それ以外に、普通のカフェでもカラオケを置く店がけっこう出てきてます。だいたいレーザーカラオケだっけかな。まだニッポンみたいなISDNカラオケではないと思うけど。


1997年03月07日

 平均的フランス人が少食だったら、ニッポン人はカスミを吸うだけで生きていけますよ……というのは冗談にしても、連中はよく食いますよ。ただし、食事の量などは個人差・家庭差(?)があるものですから、過剰な一般化はできませんが。
 パリ6区あたりに住む人だと、朝食は取らずに朝はコーヒーだけ、10時ごろに pain chocolat をちょこっとかじり、昼はかなりボリュームのある食事を二時間たっぷりかけて取り、夕方は簡単なオードブルあるいはサラダとワインだけ……という家庭もけっこうあるようです。要するに、これから寝るだけという夜の食事は、量を取っても意味がないという発想ですね。


1997年02月27日

 忘れたころの話題だけど、よーやっとワタシは滞在許可が下りました。フランスに再上陸したのが昨-0の革命記念日でしたから、「え、なんでいまさら?」とお思いのあなた。自由職業者の滞在許可はケタ違いに面倒くさい。これに比べたら学生の滞在許可申請/更新は、ほんとに簡単明瞭手間暇ゼロみたいなもんです。
 まず、自由職業者だと身分の accredite が必要になるんですが、ぼくの場合は journaliste independante という建て前なので、フランス外務省発行のプレスカードが必要になります。これはまあ比較的簡単に取れたのだけど、期間が 1〜12-という固定方式なんで、それが今回の許可申請で障害になりました。
 最初に申請に行ったのは 8-26日。この時点では外務省の attestationのみだったので、三ヶ-有効のrecepisse de la demande de titre de sejourが出ただけ。しかし次の更新手続きでは事実上プレスカードを提示すればいいような状況だったので、このときは完全に楽観しておりました。
 ただし、初回申請までに Securite Sociale の加入が義務づけられていたので、これがまたあちこち訪れることになり、えらく苦労はしましたが。結局、フランスの著作者保険協会の-0金および健保にもぐりこみましたが、いやもう、フランスってなんでこんなに社会保障負担がでかいの(;_;)。
 で、11-25日に更新手続きに行ったのだけど、この日は「恐怖の8番窓口」に出くわしてしまい、またしても三ヶ-有効の recepisseが出ただけ。2-25日に再度更新手続きをせにゃあかんかった。このときの付帯条件は「97-0のプレスカードを提示のこと」。
 Paris Prefecture de Police の8番窓口にいる Controler はじつは4-0前にカミさんの許可更新で遭遇したことがある。彼女はどえらく仕事が遅く(所在なげに何度も書類を見る時間が長い)、しかもやたら細かなところを確認してくる。その時も事前に別の窓口で問い合わせOKが出た書類に対し、なんかいちゃもんをつけてくる。あくまで突っ張ったら、上司にお伺いを立てに行って、結局OKになった、ということがありました。
 他の申請者との交渉でもそれとなくチェックしたんだけど、要するにガチガチの杓子定規タイプです。でまあ、11-のときも延々一時間半にわたる交渉をしたものの、頑として受け付けんかった。
 そして2-。紙一重の差で「恐怖の8番窓口」は逃れられました。わしらの後に来た中国人カップルがここに引っかかり、哀れ彼らはわしらがすべての手続を終えた後も、まだ交渉してました。
 いまは申請した当日に許可証が発行されるんですね。まあ、むかしと違ってただのシールになったから、なのだろうけど。1番窓口でわしとおなじぐらい長髪の美人 Controlerがパスポートにシールを貼ってくれておしまい。再上陸から約7ヶ-後、よーやっと visiteur の滞在許可証がおりた。期間開始が来-0の 2-25日までなので、これで長野五輪を見てからフランスに戻れる。
 で、学生滞在許可証にない特典(?)、それは免許証をフランスのに交換できること。今日、さっそく手続に行って参りました。窓口が混雑していて、しかも管理用のシステムがダウン寸前(実際、わしの手続が完了してからマシンダウンで事務がストップしてた)ではあったけど、いまワタシの手元には、来-0で期限が切れる日本の運転免許証のかわりに、期間無制限のEU共通免許があるのだ。むふふふふふ。
 さてと、これから確定申告をせねば(;_;)。


1997年01月15日

 バゲットの価格はたしかに統一ですが、どうやら地域ごとみたいですね。去-0(もう二-0前か)はたしか 3,80 Frs だったと思う。
 スーパーはたしかに安いけど、バゲットはやっぱ Boulanger の方がうまいような気がする……といっても、店によってかなり味は違うけど。うちの近辺だとパリ第三大学近くの店はいまいちで、ここなら道の向かいにある Champion で買った方がいいと思う。アパートの隣の店はまあまあ許せる方です。Arago通りの店がいちばんうまいと思うけど。
 Pantheon-Sorbonne の校舎に通っていたころは、ムフタールの Cremerie でチーズを買い、最寄りの Boulangerie でバゲットを買い、ナイフで切りながらガツガツ食うことがよくありました。焼き立てのバゲットが偶然買えた日は、それだけで一日、幸福な気分にひたれまんな。


 アパートを契約するときは、かならず大家、賃貸人、先住者が一緒になって etat du lieu という儀式をやります(賃貸人と先住者が別々の日にやることもある)。このときに破損状態を確認しあうんですね。天井のペイントがはがれてるとか、壁にでかい穴があいているとか。
 で、原則的に etat du lieu の状態に比べて破損があるときは、敷金(caution)からその修繕費用を弁済せんとあきません。
 うちももちろん三者立ち会いでやったんですが、そのとき画鋲の穴とか釘の穴とかは、大家さんが無視しそうになったので、あわててぼくが「Bon etat?」と確認したら、「Bien sur」とあっさりいなされました。
 以前友人(モロッコ人とフランス人の夫婦)に「壁に画鋲を打ってええの?」って聞いたら、通常の賃貸契約であれば、ぜんぜん問題ない、ただし壁をぶち抜くときは大家に事前了解が必要だけど、と言われました。このあたりはけっこう自由なようです。
 壁紙の張り替えや絨毯の交換などは事前に確認せんとあかんようですが、店子が費用を持つのであればだいたい問題ないみたいです。たしか通常の賃貸契約だと設備の破損は大家の責任で交換が必要なので、そのための措置だと思いますが。
 ……というわけで、内装の変更は契約上もかなりできる余地がありますし、実際にそうする人も少なくないようですね。そのせいかどうかはわからんけど、DIY店では目立つ場所でドリルを売っております。


1997年01月13日

 パリの治安は(というか、日本国内以外のたいていの都市では)、500メートル四方ぐらいのブロック単位で異なりますし、もちろん時間帯によっても違います。それでも5区・6区はほぼ全体的に安全なところが多いです。逆に11区・18区・20区はやばいブロックが多いけど、それでも快適なエリアはいくらでもあります。
 治安を過小評価するのはよくないですが、ニッポンでは都市の治安に対しちと神経質すぎる情報が多すぎると思いますね。ニューヨークだってパリだって、何百万人って人がごく普通に暮らしているのですから。パリでいちばんおおい死因は、自殺と交通事故じゃなかったっけな。
 安全なブロック、やばいブロックのかぎわけには、それなりの嗅覚が必要です。だから馴れないうちは気をつかいすぎるかもしれないけど、ある程度の原則(トロトロ歩かない、多額の現金を持ち歩かない、ブランドもんを身につけて・着てメトロに乗らない、赤信号で立ち止まらない等々)を守れば、そんな危険なことはないですよ。


1997年01月11日

 わしが最初に住んでところはポンピドーセンターまで徒歩30秒のところ。んでもって、いまのところに引っ越してきたんだけど、便利なところが見つからなければ Cergy に住むつもりでおりました。一応、業者をまわって物件は見つけたんだけど、Cergy Prefecture 駅の上で、駐車場とカーブの使用権を付けて、52平米の 2 pieces が 3,200 Frs/mois であった。
 郊外だと Carrefour や Euromarche みたいな grande surface がたいていあるから、物価という点でも絶対に有利だしね。要は車さえあればいいんだから。
 まあ、なんにしても、ニッポンの都会よりはるかに選択肢が多いことは確かでしょう。東京に住むったって、おのずの限られてくるしねえ。かといって川崎や横浜、最近は八王子も高いし。古書店巡りをするなら絶対に八王子なんだが。


1997年01月08日

 パリにはバレンタインデーの翌々日に戻る予定であります。以前聞いた話しだと、フランスだとバレンタインにはオトコからオンナにプレゼントをするんだとか。だから 2/14はぜったいに日本にとどまろうと思ったわけです。
 いやその、もらえるアテはないんだけど(;_;)、可能性だけは留保したいってわけで。
 ところで週刊現代を立ち読みしてたら、「海外で住みたい都市」人気投票でパリは2位でしたよ。家族4人で生活費が 30万円/-っていうコメントがあったけど、たしかにそんなもんでしょうね。うちがだいたい 12K Frs/mois ぐらいですから。
 ちなみに1位はニューヨークです。やっぱみんなミーハーなんだなあ(笑)。


 パリで住処を探したとき、ベテラン住民にいわれたことは、「パリに住むなら高くても便利な場所に住め。でないと生活がつまらない」ということでした。どうしても予算があわなければ、中途半端にパリで暮らすよりも、郊外の安いところを探して車を買えともいわれました。
 パリの最大の魅力は職住混在環境なんですよ。普通のアパートの地上階にカフェやレストラン、銀行、映画館があるってね。職住分離環境と違って、昼でも夜でも人通りが絶えないので、自然、活気があります。それに終電や終バスを気にせずに遊ぶでしょ?
 だいたいパリっ子というのは、遊び始めたら時間軸が消失するもんですから。うちあたりでも Les Halles や Montparnass からなら徒歩で帰れるので、住むならやっぱ中心部です。
 で、バゲットはいまは1本 4 Frs ですね。水はスーパーで買えば1本 3 Frs前後です。店によっても銘柄によっても若干違いますが。
 オレンジは忘れた。ニッポンよりかなり安いことは確かだけど。


1997年01月06日

 5区、6区を選ぶのは正解中の正解ですね。パリに住むならやっぱ中央部、それも左岸がいいっす。16区、17区は高級住宅街として有名ですが、パンピーにはあまり関係ないですね。それにあのあたりは住民がかなり冷たい上に、泥棒が多い(そりゃ収益源がぎょうさんあるんだから)から、一人住まいには適していないと思います。
 一人かカップルなら5区、6区、家族ならいっそ周回道路近辺(最寄り駅が Porte なんたらってあたり)の広いアパート(ただし左岸)か、RER で郊外に出て一戸建て(St.Germain en Lay なら最高だし、Orsay あたりも悪くないっすね)というのが正解ちゃいますかね。うちは13区だけど道の向かいは5区なので、「名誉5区」といってます(笑)。


1997年01月05日

 在パリな人たちの話を聞いて、水道管が心配になってきた。
 ちなみにワタシは水漏れの「加害者」になってことがあります。洗濯中に長電話をしていたら、洗濯機の排水ホースがバスタブからはずれ、浴室を大洪水にしてしまったのでした。幸いにして階下の住民が寛大な女性だったので、「笑って許して」くれました。


1997年01月04日

 資金と空き部屋があれば、ワタシは5区か6区に住みたいっす。1区・4区の Les Halles 近辺もいいけど、あのあたりはけっこうやばいブロックも多いので、土地勘がないと危険でしょうね。
 知人が2-0前に St.Michel の築 350-0のアパートにバカンス貸し物件を借りて滞在しておりました。柱は傾いているわ、天井は低いわ、床はきしむはで、さすがにガタがきてるって感じはありましたが、短期の滞在ならああいうところも風情があっていいですね。立地はもう最高でした。広場まで徒歩2分のところだったので。


1997年01月03日

 パリのフランス人は英語を「話さない」んじゃなくて、ほんとに「話せない」人が多い。いやほんと、まじなはなし六本木あたりのほうが、よほど英語は通じるでしょう。ただし Parisien/ne の方が Tokyoiteよりも外国人観光客ずれしているので、なんとか相手の主張を理解して、フランス語でこたえちゃう、というのが実態でしょう。
 そういえば、友人の一人が道を尋ねようと思って「Do you speak English?」と話しかけたら、「Oui, je parle l'anglais.」と応えられたといっとった。まあ、初歩的な内容なら、相手のいうことぐらいはなんとかわかるから。
 あ、パレロワイヤルとかオペラあたりはもちろん別ですよ。あと、モンテーニュ通りとかマルソー通りみたいなところもね。でも左岸あたりなら、英語は通じないものぐらいに考えておいたほうが無難ですぜ。
 アリアンスでは debutant complet でもクラス分けの試験を受けさせるんですよね。プレーン初心者なら問題文もわからんのにね。


1996年12月14日

 医師が書く処方箋はけっこうミスがあるようです。カミさんが2年前に SOS Medecin にかかったとき(ちょうどわしが日本に出張中)、薬局で指定薬を買おうとおもったら、「こんな量はおかしい」と指摘され、いろいろ調べたら一日にとるべき量が必要量の倍だった(それも抗生物質)、なんてことがありました。面倒でも処方箋だけは辞書をきっちり引いてほうたほうが無難です。かかりつけの医師なら信頼できるのだろうけど。


1996年12月12日

 じつは Metro 4 は Chatelet で降りても RER A のエリアを突っ切っていけば、そのまま Les Halles まで通り抜けられるんですよね。わざわざ歩いていく人はいないだろうけど、方向がわからなくてうっかり行ってしまう人はけっこういるでしょう。このあたりの罠(笑)は、東京駅で横須賀線を降りてから丸の内線に乗ろうとした人が、営団東京駅ではなくうっかり大手町まで行ってしまう状況にぴったりであります。
 あと、Metro 3 も Opera から隣の駅まで、RER A の Auber駅エリアを突っ切っていけばそのまま歩いて抜けられます。こちらはけっこう実用的です。RATP がストをすると RER A 線の Cergy行きは St.Lazard 始発のみになってしまうのですが、うちからそこまでたどりつくには Metro 7 から 3 に乗り換えないとあかん。でもストで超満員状態なんで、乗車区間は1駅でも減らしたい……なんてときは、隣り駅までさっさと歩いてしまうわけです。
 Chateletで楽な乗り換えは Metro 1 と 4 です。ほとんど銀座駅の丸の内線と日比谷線ですね。7 から 11(だっけかな)も比較的近い。Metro 7 と 1 の correspondance は Chatelet でも可能だけど、ぐっとこらえて Palais Royal で乗り換えるのが通ってもんでしょうね(笑)。
 1番は午後5〜6時の George V 〜 Hotel de Ville あたりはとことん混雑しますね。いつだったか、5本見送ってようやく乗車できたことがあった。夏だったので途中で気分が悪くなってしまったがな。こうした点も、「パリの銀座線」たるゆえんであります。やたら歩かされるって点では、Concorde、Chatelet、Montparnass が三大不便駅だろうなあ。


1996年12月11日

 Chatelet なら Metro 7 から RER A への乗り換えがいちばん長いでしょう。動く歩道を二つ乗り継ぎますから。これが故障してるときは悲惨です。7 から A に乗り換えるなら、Opera-Auber の方が圧倒的に短いですね。
 Chatelet なみに乗り換えが長いのは Montparnass でしょう。だから Chatelet が「パリの大手町」で、Montparnass が「パリの赤坂見附」だったりするわけで……って、このネタは首都圏以外では通じないか。Metro 1 は「パリの銀座線」ともいわれます。


1996年10月29日

 街路樹がだんだんとすかすかになったおかげで、通りの彼方にふたたびモンパルナスタワーが見えるようになった……けど、ちとデジタル写真ではわからんかもしれん。夕暮れ時はなかなかのながめである。去年、ひょっとしたらもう最後の巴里になるかもしれなかった。そのときの心残りのひとつが、Brasserie Port Royal 前からながめるモンパルナスタワーであった。

1996年10月27日

 内務省にはやっぱけっこうビビった。なにしろあのパスクワんの根城だったとこだもんね。
 外務省に申請書類をすべて提出したのが 9月14日のこと。「約一ヶ月後に、内務省から電話で連絡が入ります」と言われて待つこと一ヶ月、連絡はこなかった。「連絡がないんですけど」というクレームを外務省につけたのが先週の木曜。「たぶん来週あたりでしょう。C'est normal, hein?」というおきまりフレーズでやり取りは終わり。
 しかしフランス外務省の読みはなかなか鋭い。ほんとに「来週」に電話がきた。月曜の午後3時ごろだったと思うけど、やけに明るい女性が電話をかけてきた。内務省からの電話だから、きっといかめしいあんちゃんだと想像してたんですけどね。
 さっそく「尋問」の rendez-vous となったんだけど、こっちは早ければ早いほどいい。で、翌日の11時に会いましょう、ということになりました。彼女曰く、「直通電話番号を受付で告げないと入館できない」とのこと。もちろん番号を教えてくれました。
 次の日、83番のバスで……といいたいところだけど、ちょっと出遅れてしまったため、面倒だからタクシーで行っちゃいました。でも運転手は内務省の場所を知らなかった。しょーがねーやつ。手帳を出して住所を調べにゃならんかった。ルートは簡単で、Port Royalからそのまま Montparnasse 通りを突っ切る。これで一気に Invalide まで行けちゃいます。Alexandre III橋のひとつ下流の橋を渡って Chemps-Elysees Clemanceau を抜け、あとはまっすぐ行くだけ。
 内務省の入り口はかなり狭い。入ってすぐ左に受付があるので、そこで要件を告げると、面談相手の電話番号の下五桁を言えという。それが内線番号になっているみたいでした。すぐに先方に連絡をつけ、アポの確認ができると、身分証明書と引き替えに入館証をくれます。これ、磁気カードになっているのだけど、ストライプの部分をバリケードのリーダーにかざすと、なかに入れるようになる。
 10分ほどで相手が来たのだけど、事務所まではえらく複雑だった。内務省のあるあたりは道が入り組んでいるので、建物も完全なタコ足状態なんですね。あれに匹敵するのは講談社の本社ぐらいでしょう(笑)。


1996年10月26日

 やっとプレスカードが取れた。まあ、申請は簡単だったのだけど、身分照会に時間がかかるんですよね。今週の火曜には内務省への出頭依頼があったので、びくびくしながら行ってきました。場所はエリゼー宮のすぐ北側、警察の総本山だけあって、入館はえらく厳しかった。外務省の警備員なんていつもヒマそうなのに。
 いやしかし、83番のバスがあんな便利だとはおもわなんだ。終点の Hausseman まで行けば日本大使館まですぐ近くですがな。ありゃ地下鉄使うよりも楽だな。


1996年10月17日

 フランスでは全線ストップさせるのは違法なので、スト期間中でも「どこかしら動いてる」のが一般的です。昨年は全線止まったのかな、たしか。これは例外中の例外ですね。
 こういう状態でいちばん複雑なのが RER で、SNCF がストをやるときと、RATP がストをやるときとで、動いてる路線がぜんぜん違う。4年前は RER A線で Cergy まで通っていたので、ストシーズンはえらく苦労しました。St.Lazard にいかなきゃあかんときもあったし、Nanterre Prefecture までいかにゃならんときもあった。最悪のときは Cergy のひと駅先までしか運行してなくて、そのときはピストン輸送バスが出ました。でも駅ではそんなこと教えてくれよらん。友人があちこちききまくって、ようやくその存在が判明した次第で。それでも St.Germain en Laye 行きしかなかったので、帰るのにけっこう苦労しましたよ。


1996年09月20日

 Place d'Italieは、案外と高台です。目の高さにパンテオンのてっぺんが見えるし。27番のバスを Place d'Italie から乗って St.Michel まで行くと、けっこうパリのアップ・ダウンを満喫(?)できます。
 イタリー広場から Avenue des Gobelins を一気に下り、ムフタールの入り口近辺で Rue Bernard とぶつかるあたりが「底」ですね。Bernard から先は一気にのぼり。右手奥には Ecole Normale Superieure やら Curie研究所があります。そのあたりが「峠」になるのかな。
 ホタテ通りと交差するあたりからまた下ります。St.Jacque をそのまま下っていけば、Sorbonne の裏手に出て、シテ島の右手に抜けます。27番のバスはそっちには行かず、Luxembourg の北東口に抜けます。ここで St.Michel通りに出るのだけど、先はまた下り坂ですね。下りを実感しようと思ったら、二輌連結のいちばんうしろの席にすわることです。
 最近は外務省に何度か行く用件があったので、83番のバスで北上する機会が多かった。このバスでもけっこう市内観光ができます。
 Brasserie Port Royal の前にバス停があって、ここからしばし Arago通りを西に。途中で右折して Port Royal通りに出て、RER の Port Royal駅から先は、華の6区のど真ん中を突っ切っていきます。Luxembourg公園の西側をずっと走るんですけどね。最初は Rue d'Assas を走ります。途中、パリ第2大学(Pantheon-Assas)の前とか、語学学校の Institut Cathorique の横を通り、Raspail通りに出ます。ここからまた北上し、St.German通りに抜ける。St.Germanから先は一気に Invalide まで出ます。6区のええとこどりしている路線なんですよね。


1996年09月14日

 パリに帰ってもうすぐ2ヶ月経過。これまでに変化したことは……。
 その1、体重が4キロ減った。原因ははっきりしている。パリに来るとチョコレートの消費量が激減するから。日本滞在中は近所に食品ディスカウントがあって、ハーシーの安いチョコを売ってたのであった。だけどさすがにパリで Godiva のチョコを暴食できるほど稼ぎがよくない。よって消費が減り、体重が減る、と。
 その2、やたら忙しくなった。これは単に4、5月あまり仕事をしなかったツケなんだが。今月はあと 300枚ほど書かないと。それでもなんとか三つ、〆切をクリアーしたんだけどね。瞬間一時的売れっ子状態です。これも体重減の原因かも。
 その3、日が短くなった。もう8時は空が暗くなる。まあ、東京の夏至ぐらいの日没時間になったかな、という感じ。でも高緯度地方だから、さすがにたそがれは短い。
 その4、ぼちぼち紅葉? アラゴ通りはもう葉っぱが赤く染まってます。でもここの通りはいつも思うんだが、紅葉しているっていうよりも、排ガスで葉っぱが枯れているだけなんじゃないのかな。染まり方がどこか痛々しいし。
 ボルドーまでの往復ではじめて TGB Atlantic に乗ったのだけど、かつてのパリ・ジュネーブ間みたいに、速い区間はちょびっとだけですね。それよりもモンパルナスを出た直後の短いトンネル・ラッシュはなんとかしてほしい。耳がきーんとくるからたまらんわ。


1996年09月10日

 巴里に十回以上来ている友人が日本から遊びに来た。たいがいのところはすでに訪問済みなので、消去法でユーロ・ディズニーに行ってみることにした。まあ、こちらは子ども連れだし。
 開演以来、フランス人には悪評ぷんぷんだが、それはべつに平均的フランス人の趣味とディズニーランドとがミスマッチをしているだけであって、ここが特別東京ディズニーランドよりもサービスが悪いわけじゃない。評判が悪いときのほうが、アトラクションをすいすい利用できてうれしいくらいだ。でも、スペースマウンテンで不覚にも乗り物酔いをしてしまったが。

1996年09月03日

「une vie familiale normale」あたりにけっこうパスクワ法の影響が出てます。一夫多妻制の国の移民に対して、配偶者としての滞在許可は一人しか認めなくなったんじゃありませんでしたっけ。たしか家族手当でもそういう制約を加えていたように思います。でも逆にいえば、monogamie の国がよくもこれまで polygamie の制度を他国民とはいっても受容してきたな、という思いの方が強いですね。
 今日は日本大使館にあたらしいパスポートを取りに行って来ました。いまの為替レートだと、日本で作ったほうが安かった。でも新パスポートだと発行地が省略されているんですね。ときどき申請書類でパスポート発行地を記入する欄があるけど、大丈夫なのかいな。


1996年08月21日

 友人にかつて「常備薬」のことを聞いたとき、「風邪のとき? ラムを飲めばいいんだよ」という答えが返ってきました。うちでもそうしているんだけど、ラムに絞ったレモン果汁をまぜ、砂糖を少々、場合によってはバターを少々、これを暖めて飲むと、ぐっすり眠れるしけっこう効くんですよね。頭痛がひどいときはビタミンC配合のアスピリン(Asprine vitamine)を飲んでます。あ、これは水に溶かして飲むやつね。


1996年08月12日

 朝一に税務署に直行する。うちの地区担当は9階のはずだが、念のために受付で確認をする。「11階ですよ」だと。前回は9階だったというと、所得申告はすべて11階なんだとか。
 困ったなー。これじゃ前回とは違う担当者になっちゃう。また「振り出しに戻る」ってことになりゃせんか。心配してもしょうがないので、エレベータで11階に向かう。エレベーターを降りて右に向かうと、でかでかと「13区民の所得申告はこちら」という看板が出ていた。やっぱりここか。
 待合所は無人。タッチ・アンド・ゴーである。申告事務室に入る。
 見覚えのあるにーちゃんが座っていた。3年前に「あんたは納税台帳登録ができない」証明書を書いてくれた担当官であった。向こうもわしのことを覚えていた。所得申告をしたいのだが、と言うと、すぐに「あなたはたしか学生で、台帳登録ができないはずだが」と来たもんだ。ほーら、さっそくおいでなすった。先週、9階でもらった申告用紙を見せる。さらに、あんたの同僚とその上司の意見によれば、滞在身分に関係なく所得が発生すれば申告の義務があるとのこと、と説明した。
 まあ、税務署の方も税金を徴収するのが商売だから、払うという人間をそうそうは拒まないのだろう。彼はすぐに納得したようだ。しかしまあ、税金が払えてほっとするというのも、なんか妙な気分である。
 が、手続きがあまりにもあっけなかった。せっかく用意した支払い調書の法定翻訳を見ようともしない。申告用紙にさっと眺めて「C'est bon.」と一言。あとはカバーのところにスタンプを押して、サインしただけ。
「J'ai des questions.」「Oui, je vous ecoute.」
 ここからはひたすら粘るというか、書類をひとつずつ見せて確認した。わしゃ AGESSA に登録せんとあかん。でないと滞在許可が申請できない。まずは adresse fiscaleの証明が必要なの。彼は何もいわずにもう一通の申告用紙にスタンプを押し、サインをして、こちらに渡した。「Voila.」だと。
 あんちゃん、voila って、これが証明書になるんかいな?「Oui.」ときた。自信満々である。こりゃ粘ってもあかんわ。この間、約10分。そのうちの8分はこちらからの書類確認であった。手続きは実質的に2分でおわり。30分は覚悟してたのに。あまりにあっさり終わるとかえって不安である。幸い時間はまだ11時前。いまから AGESSA に行っても午前中の受付時間に間に合う。なにはともあれ、こんな安直な書類でいいのかどうか確認してこよう。(つづく)


1996年08月10日

 日本から支払い調書のオリジナルが届く。東京を水曜に発送されて、土曜に到着だから、4日で届いたことになる。さすがに首都間は早い。これが速達だともう1日余分にかかるのだが。
 これで declaration sur la revenue の書類が完全にそろう。コピーと翻訳だけだといまいち不安だが、オリジナルがあればなんとかなるだろう。なんとかなると信じたい。なんとかなってほしいのである。
 月曜の午前中が第一関門である。想定問答シミュレーションをあれやこれや始めるのであった。(つづく)


1996年08月08日

 日本から FedExで自著が届く。見本刷りなのに、国際宅配便で発送されたので、しっかり税金を取られてしまった。くそー。
 とりあえずこれで見本提出用のコピーが取れる。近くの写真ラボに行って、パスポートやら電話の請求書やら、銀行の Relve de Compute や Avis d'execution の束と一緒にコピーを取る。写真ラボには先客が二人。そのうち一人はコピーを取りにきたようだが、店主と雑談をずーっとしてたらしく、まだ一枚もやってなかった。わしがコピーを取りたいというと、やおら作業を開始する。これがまたずいぶんと枚数が多い。おめー、雑談はやることやってから熱中しろよ、と心のなかで舌打ちする。


1996年08月07日

 日本時間の朝9時。まずはM社に電話する。が、出社時間は9時半とのこと。編集さん、いまだ来たらず。いきなり出鼻をくじかれる。
 日本時間朝9時半、こんどは電話がかかってきた。M社の編集さんであった。ファックスを読んだとのこと。さっそく手配してくれる。でも経理部門はほかの事務所じゃなかったかな、という不安が頭をよぎる。
 日本時間朝10時。古巣に電話する。祈った。ほんまに祈ったぞ、このときは。作業を依頼したバイトさんがすぐ電話口にでてくれる。「届きましたよ」の一言に、心臓が一回おおきく鳴ったような気がした。さっそくコピーを取ってファックスで送ってもらうことにする。5分後、ベルがなる。すぐにモデムでマニュアル受信。ファックス・データをビュアーで確認する。
 よっしゃ……と思ったら、年度が抜けていた。こりゃまずい。古巣に電話する。「すまん、年度を記入してからまたファックスしてくれんか?」と依頼。5分後、ベルがなる。またマニュアル受信。こんどはカンペキだった。
 再び古巣に電話する。オリジナルの方は、航空便で送ってもらうように依頼する。「まちがってもEMSや速達にはしないでね」と念を押す。普通航空便がじつはいちばん速いのだ。しかも古巣の隣は東京国際郵便局である。これなら東京・パリは4日で着く。
 ひとまずほっとしていたら、電話が鳴った。M社の編集さんからだった。伝票が届いたので、すぐにファックスを送るとのこと。おなじ事務所内に経理課があったようだ。
 3分後、ファックスが届く。カンペキだぜ。5分後、受信したファックス・データを、レーザ・プリンタに出力する。これでなんとかパリで法定翻訳に出せる。
 約4時間ほど仮眠。朝一でアラン・ゴメス氏に電話する。が、しかし。ゴメス氏は不在だった。留守番の女性曰く、「Il n'est pas la pour le moment.」だと。困るがな。いつ戻ってくるかわからんだと。午後2時半、ゴメス氏に電話する。「電話をくれ」という伝言は残しておいてもらったが、こういう場合、かなりの確率で電話はかかってこないのだ。
 ゴメス氏が出る。まずはファックスで原稿を送ってくれ、とのこと。昼のあいだに原稿の内容をエディタで箇条書きし、ローマ字の読みもタイプアップしておいた。だからやっぱり法定翻訳じゃなくて、法定清書なんじゃないのかなあ……という愚痴はとりあえずさておき。
 1時間後、ゴメス氏のオフィスの最寄り駅に着く。ひと駅先は知る人ぞ知るパリの新大久保というかパリの黄金町(横浜である)なのだが、事務所のあるあたりはそれほど妙な雰囲気はなかった。オフィスのなかには、大相撲パリ場所のポスターがはってあった。書棚のなかに『小学5年生 自由自在』があった。
 まだ終わってない、とか。きっとこれから始めるのだろう。蕎麦屋の出前は万国共通なのだ。
 約一時間後、法定翻訳が揃った。(つづく)


1996年08月06日

 日本時間17時、フランス時間朝10時、コールバックで古巣に電話する。
「まだどこらからも届いてませんよ」
 早くも次の対策を迫られる。どうしたもんかいな、と考えていたところ、ニッポンの実家から電話が入る。「本、送っておいたぞ」とのこと。実物見本として見せる自著の郵送を、国際宅急便で依頼していたのである。火曜の発送なら、木曜には届くだろう。
 が、しかし。「M社から郵便物が届いていたので、それもついでに入れといたぞ」だと。あかんがな。M社は古巣にではなく、実家の方に送ってしまったのであった。
 段取りをまたやりなおさなくてはいけなくなった。二社分の支払い調書がそろわないと、二年分の所得申告ができなくなる。二社分ないと、まったく意味がないのだ。いずれにしても、原票はもう間に合いそうにない。法定翻訳をコピーでやってもらって、税務署に提示する際に原票を一緒に見せるか。それとも日本で法定翻訳を依頼するか。どちらかしかない。コピーの翻訳は、通用する場合もあればだめなときもあるという。ゴメス氏の話によれば、「交渉次第」だそうだ。税務関係なら、大丈夫な可能性は高いと思うが、とも付け加えていたが。
 いろいろと考えた結果、方針を決めた。日本時間の水曜朝一番にM社に電話し、事情を説明して再度支払い調書を発行してもらう。念のために用件を今日中にファックスで送ることにする。そして、発行できたらM社からファックスで原票を送ってもらう。それをモデムで受信しレーザープリンタで出力すれば、法定翻訳の原稿として使えるぐらいの精度にはなる。ほんとはスキャナで読み取ってもらい、ファイルをメールで送れてもらえばベストなのだが、そこまでは要求できない。
 そうなると、問題はG社の方である。万が一、G社からの郵便物が水曜にも届かなかったら。パリ市内の郵便は24時間以内に届く。東京もおなじだろうな、と思っていた。だから月曜中に発送までしてもらっていたら、古巣には火曜の夕方には届くはず……だった。
 配送作業が送れているだけ? それともG社の発送が遅れている? いずれにせよ、翻訳に出すタイムリミットは水曜まで。万が一、水曜の昼にG社からの調書が届かなかったら、そのときは日本で法定翻訳に出すしかない。
 祈るような気持ちの二段構え対策であった。(続く)


1996年08月05日

 日本時間の 9時半を狙って、電話をかけまくる。この事態にそなえ、コールバック・サービスの暗証番号を業者に再送信してもらう。しかしまあ、パリから東京に電話するのに、アメリカ経由だと6割も安くなるというのは、やっぱ不条理だよなあ、とは思うけど、安けりゃべつにどんなルートだって関係ない。
 まず古巣に電話し、在職時代から務めているバイトさんと交渉する。「もしもし、わし」「あら、いまどこですか?」という月並みな会話のあと、用件を伝える。
 出版社から支払い調書が送られてくること。コピーを取ってすぐにこちらまでファックスを送ってほしいこと。原票はすぐに FedEx の24時間サービスで送ってほしいこと。
 次いで出版社Mに電話する。以前の担当編集さんが出る。用件を伝える。
 次いで出版社Gに電話する。担当の編集さんが不在なので、経理に電話をまわしてもらう。じつはここ、支払い調書の発行は面倒なので、どうしても必要なのかどうか、確認を求められていた。
 担当者が出る。状況を説明したところ、支払い調書をすぐに再発行してもらえることになった。じつはややこしい話しがあって、先方はまだわしの調書を作成してないと思っていたらしい。それで「面倒な手続きが必要」だと思われたようだ。が、実際すでに昨年末一度発行してもらったことを告げてからは、すぐに引き受けてもらえることになった。
 一眠りして、11時ごろ起床。法定翻訳官のアラン・ゴメス氏に電話。翻訳料金と段取りについて交渉する。支払い調書の翻訳は1枚 500 FTTC といわれる。げげ。ちなみに前野氏は 360 FHT、日本人会なら 250 FTTC である。が、2枚目は半額でいいといわれる。前野さんはディスカウントなしといってたから、2枚依頼するならゴメス氏の方が安い。
 手配は終わった。あとは支払い調書が届くのを待つのみ。(続く)


1996年08月03日

 法定翻訳との闘いが始まった。戸籍(etat-civil)関係や免許なら日本大使館に頼めば3日でできる。だけど大使館は基本的に「法定翻訳」ではなく、厳密には原票をもとに仏文の証明書を「発行」する仕組みなので、支払い調書など分掌外の「翻訳」はやってくれない。通常は在仏日本人会で依頼すればいいのだが、いまは担当翻訳官がバカンス中で、一週間かかってしまう。いまから書類を日本から取り寄せても、翻訳に出せるのが早くて12日(月)、仕上がりは20日(火)になってしまう。これじゃトラブったら最後である。
 前日、日本大使館にパリ在住の法定翻訳官の連絡先を教えてもらった。一人は日本人で前野氏、もう一人はフランス人で Alain GOMEZ氏。ところが前野氏は 3日から19日までバカンス、GOMEZ氏は 9日(木)からバカンスだという。困った。選択肢は二つしかない。日本で作成してもらった書類を日本で法定翻訳にかける。月曜中に書類を作成してもらい、それを都内の誰か宛に送り、そこから国際宅急便の24時間サービスでパリに転送してもらう。さすがに発行元に「FedEx で送ってくれ」とは頼みづらい。
 まずは日本で法定翻訳をやってくれるところを探す必要あり。必死にお助けメールを送るのであった。ニッポンに秘書がほしいと切実に思うようになった。(続く)


1996年08月02日

 13区の税務署(Centre des Impots)に行く。場所は Pantheon-Sorbonne大学本部庁舎の向かい。うちからなら83番のバスで直行である。税務署には久々に訪れたので、何階にいけばいいのか忘れた。受付で住所を告げ、担当階を教えてもらう。9階であった。エレベーターを降りてすぐ右に受付がある。待合所の椅子にけっこう人が多い。受付で用件と住所を話す。整理券を渡される。白札の9番。
 奥から係官が一人やってきて、受付にいま終わった人の札を返している。次の順番の人を呼ぶ。
「青札5番の方!」
 "Bleu"がほとんど "Blanc"に聞こえた。現に白札5番の人が自分の番だと勘違いしてたから、おれの聞き取り能力が悪いわけではない。あんちゃんがなまっとったんや。
 50分ほど待って、ようやく自分の順番がやってくる。なかなか話のわかりそうな雰囲気の男性係官である。部屋に案内され、椅子をすすめられる。ちょっと待ってねと言って、彼は一度部屋を出ていった。1分ほどで戻ってくる。
「で?」
 想定説明文を頭に思い描き、一気にしゃべりきる。先方は「ん」と相槌をうつだけ。話し終わると、「そういう職種だと、専門の担当官がいるので、そちらで相談してみてくれないかな?」ときた。反対側の区画に導かれ、とある事務所に促される。彼とはそこでバイバイであった。
 部屋の主はけっこう几帳面そうな中年の女性であった。過去の経験によると、もっとも杓子定規で手強そうな雰囲気が漂っている。こういう人は、いきなり突っぱねるか、とことん面倒をみてくれるかのどっちかだ。
「印税収入の申告をしたいのです」
 ちなみに「印税」が droit d'auteur というのは、先日 AGESSA でもらった資料で初めて知った。申請のたびにいろいろと単語を覚える。胃壁に一つひとつ、単語が刻まれているのである。
 最初の反応は予想通りであった。過去の滞在が学生身分であれば、その間に正規の労働許可はおりない。よってその期間中に収入はあり得ないはずである。ならば所得申告は必要ないし、そもそもできないはずである、と。
「だって奨学金で生活していたんでしょ?」
 という質問のところで、切り返してみた。奨学金はもらっとらん。フランスにいて日本の出版社相手に本を書いていた。所得も日本で発生していた。AGESSAにそう説明したら、フランスでの所得として申告できるといった。だからほれ、こんな書類をくれたんですよ、と。
 ここで彼女の自信が揺らいだようだ。結果的に、これがラッキーだった。税金を払えるようになって運がいい、というのは変だが。彼女は隣室の上司のところに相談に行った。間のドアが開けっ放しなので、やりとりは筒抜けだった。上司はひどいマルセイユ訛りだった。
「彼は学生だったのだから、申告はできないはずでしょ?」
「そんなことはない。現滞在許可証を持ってフランスに滞在していて、理由はなんであれ報酬を得たのであれば、それは課税対象となる」
 外国相手に仕事をして外国で報酬が発生するというのは、たぶん法律の想定外のことなんだろう。彼女が戻ってきた。ここから先は、「強い見方」となった。
 必要書類を一つずつ提示する。書き方を細かく教えてくれた。
「円をフラン換算するレートはどうするんですか?」
 おお、とかいいながら、書棚からなにやらマニュアルを引っぱり出してきた。年間の平均レートを用いるらしい。94年分の収入については、1円あたり 0.0536フラン、95年が 0.0485フラン。こういう数字をみるたびに、はよ円もデノミしてくれんかな、と思ってしまう。
 所得の証明書類は必要ないのか、と尋ねたら、日本の源泉徴収表に法定翻訳を添えてくれ、といわれた。15分ほどで、ひととおり話は終わった。一気に申告まではできなかったが、どうせそんなうまく事が進むわけはないと思っていたので、この日は上々の成果だと思った。
 双六で一こまようやく進んだ気分がした。


1996年07月31日

 税務署に行くのだから、所得を証明する書類が必要だろうなあ……なんてことを思いつく。日本時間の31日(水)のオフィス・アワーが始まるのをみはからって、94年、95年に仕事をした出版社にかたっぱしから電話をかける。
 いつも国際電話はコールバックを使っていたのだが、アメリカ・センターの番号やら暗証番号の載ったドキュメントがなくなってしまった。昨秋の引っ越し時に cave のかなたにほかしたか、ニッポンにおきざりにしたらしい。仕方なく通常の国際通話を利用する。
 どの出版社も支払い調書(サラリーマンでいえば源泉徴収表)の再発行にはすんなり応じてくれた。とりあえず横浜宛に送ってもらう。そこからファックスで転送してもらって、と。
 それだけでは申告ができるとは思わないが、4年間に得た「どうせ最初の一回ですんなりいくわけがない」「うまくいくときはいいかげんな書類でも問題ない」という表裏一体経験から、法定翻訳を要求されるか、コピーで十分かのどちらかである、と決め打ったのである。支払い調書を翻訳にかける時間はすでにない。ならばコピーで様子見(?)だ。
 一眠りしてから、AGESSAの申請必要書類を読み返す。
 過去の成果を立証せよ。
 とりあえず大使館に提出した C.Vをもとに、著作やら連載経験のリストをつくる。そういえば本の表紙のコピーも、なんて言っておった。まわりをさがすと、自著は8月に出る本の見本刷りしかない。
 近所の友人に電話する。
「オレの本、なんかもっとらんか?」
「ないわい」
 表紙のコピーもニッポンからファックスで送ってもらうしかなさそうだ。
 横浜に電話をする。が、本はすでに誰かにあげたりして、3タイトル分あるだけだと。とりあえずそれだけファックスで送ってもらい、残りは留守宅に後日取りに行ってもらう。ついでに郵送も。
 次いで共著で出した本の相棒に電話する。カバーをファックスで送ってくれないか。ほいきたよっしゃ、と話は簡単に進むが、回線の調子が悪いのか、どうもうまく受信できない。
 再度電話をし、翌日、あらためてカバーをスキャナで読み取り、データをバイナリ・メールで送ってもらうことにする。(続く)


1996年07月30日

 所得申告をするには、まずは直接税の台帳登録 declaration d'inscription des impots sur la revenue が必要。だけど登録事務はたしか金曜の午前中しかやっていないはず。滞在許可申請のアポが月曜だから、金曜中にできることは一気にせんとあかんようになった。
 etat civil も準備しないといけないのだが、日本人会の法定翻訳はたしか火曜午前中〆の金曜あがりたったと思う。やばい……と思って、日本人会に確認の電話を入れる。
「戸籍抄本の法定翻訳をお願いしたいんですが」
「いま翻訳官がバカンス中なので、来週の仕上がりになってしまいますが」(げげ)
「今日の午前中に持ってきていただいたものが、来週の火曜の午後に出来上がります」
「金曜にはどうしても無理ですか?」
「そうですね……特急料金が加算されますけど……」
「ちなみにいくらぐらい?」
「150フランです。合計で 200フランになりますね」
 戸籍抄本の法定翻訳は以前依頼したことはあるんだが、あれは翻訳なんてものじゃない。申込用紙に記入した項目をただタイプアップして、法定翻訳官のスタンプを押すだけである。入力手数料と考えれば会員料金50フランぐらいは許せるのだけど、火曜上がりが金曜になるだけで 200フラン! タイプするだけなんだぜー。たったそれだけで夕食フルコース分、Rest-U なら12食分である。
 念のために大使館の領事部に聞いてみる。
「戸籍抄本の法定翻訳は、どのぐらいで出来ますか」
「すべて三日間です。今日中に出していただければ、金曜に仕上がります」
 だからいうわけではないが、日本大使館の電話の応答は、むかしからなかなか丁寧でよろしい。これが在日フランス大使館東京領事部の日本人職員ときたら。胃によくないのでこれ以上は書かないでおく。
 しかし法定翻訳ってなんであんなに高いんだろうか? 翻訳技術が駆使されたものなら納得もいくのだが。ありゃどう見たって「法定仏文タイプ」としか考えられんがな。(続く)


1996年07月29日

 ダメもとで AGESSA に行く。「Attestation を書けない Attestation」を書いてもらえればいいわけだから。場所は11区、21bis, rue de Bruxelle、St.Lazard のちょっと先。ふと気づいたのだけど、St.Lazard の近くには、どうして都市を名につけた通りが多いんだろう?
 Les Gobelins からメトロ7番でまずは Opera へ。Opera でメトロ11番に乗り換えるのだが、じつは RER Auber 駅を突っ切っていけば、隣の駅までそのまま駅構内を通って行ける……のだけれども、わざわざ歩いても仕方ないので、素直に Opera で乗り換える。
 ここでアナウンスが聞こえる。メトロ3番はオペラからモンパルナスまで現在不通……。ま、逆方向だからいいか。が、逆方向だからよくなかった。モンパルナス方面行きはとりあえずサン・ラザールまではやってくる。だけどモンパルナス方面からはぜんぜん来ない。
 15分経過。2駅先なだけだから外に出よう……と思ったら、ようやく地下鉄が来る。さい先が悪い。なんかうまくいかなそうな予感。
 Place de Clichy で下車。目的地は地図によればここから数分のところ。駅はロータリーの下なので出口が複雑だった。地図で最寄りの階段を見つけるも、どの階段がそれなのかがわからん。営団地下鉄みたいに、出口に記号を付けておかんかい>RATP。
 AGESSA のある建物はすぐに見つかった。開いた門をくぐる。すぐ左手にガラス張りの入り口が。受付が見える。ドアを開けて用件を告げる。
「Securite Sociale について話しを伺いたし」
 応対はとても柔らかだった。じつはここにくるまで、たぶん神経性のものだと思うのだが、ちょっと下痢気味な気分であった。すぐに取り次いでくれるや、便意もすーっとうせた。
 10分ほど待つ。上階からおにーちゃんが一人降りてくる。受付正面にある応接室に行くよう促される。着席。用件を告げる。
「ちょっと複雑な話しなんだけど……」
 過去の経験から、最初から複雑に決まっている。滞在許可申請の書類は、じつにじつに paradoxalな環になっていることが多い。警察はあれこれを用意せよ、という。それを用意しに行くと、滞在許可がないとあかんといわれる……といのは日常茶飯事である。今回の AGESSA も、案の定、そのパターンに陥りそうである。
 ところが意外なことに、「加盟登録はできる」といわれた。日本人会報では「P.L.での滞在が三年必要」とあったのだが、過去4年間すでに滞在していたこと、その期間中、出版による収入があったことを説明すると、あっさりと「pas probleme」であるとか。問題は、「ただし、adresse fiscale を持てれば」ということ。要するに、税務署に開業届けさえできれば、登録はできる。申請書類をさらさらと説明書に書き込んでくれ、滞在許可証という項目もあったのだが、なければないで構わない、だと。開業届に必要な書類もくれた。
 ここで「やったー!」と喜んだら、おれもフランス在住初心者といわれるであろう。だいたい口頭で「できる」といわれても、それは「その時点でその担当者がたまたま『できるんじゃないの?』と思いついただけにすぎない」という意味であることは、過去4年間の滞在で身にしみているのだ。書類を揃えて次にやってきても、「だめ」といわれる可能性は十分にある。そもそも税務署が開業届けを受理してくれる保証もない。
 闘いは始まったばかりである。(続く)


1996年07月24日

 前日、日本人会で買った「滞在研究 自由職業者」を熟読する。中身は日本人会報の抜き刷り。Q&A形式なので読みづらい。製本するなら項目ごとに整理してくれ……といいたいところだが、読みづらいからこそ、わしが本にして売るチャンスがあるのだ、と思い直す。
 滞在許可申請の要点は簡単で、要は収入、住居、保険の三点を立証すればいい。今回ちょっとやっかいなのが保険である。学生や同伴家族なら海外旅行保険ですませられるのだが、労働がからんでくると、国の社会保障に加入せにゃならなくなる。
 パンフレットによれば、URSSAFに入るのが出発点、とある。
 Union pour le Recouverement des Cotisation de Securite Sociale et l'Allocation Familiales
 要するに、国民年金と国民健保の胴元、ってわけだ。この機関の存在は前々から知っていた。最低支払金がけっこう高いことも。2年前の段階でたしか年金が年額 8.600Frs、健保がおなじぐらいの額だったと思う。旅行保険の方が安くていいんだよなあ。これは加入するしかないので、先を読む。
 URSAFFに加入するには、Maison des Artistes および AGESSAに加入できないことをまず立証せにゃならん、と。フランス名物「Attestation を発行できない Attestation」をまずはこさえてもらえ、というわけだ。Maison des Artistes は写真家とか画家、歌手、役者の所轄組合なので、わしには関係ない。で、AGESSAの項目を見る。対象が「出版物を発行したことのある者」とある。
 Association de la Gestion de Securite Sociale pour Auteurs
 要するに、日本でいえば文芸家協会といったところ。ニッポンでもこの協会は健保事業をやっている。
 書いている内容を読むと、AGESSAに登録できればかなりオイシイことがわかった。cotisationが URSSAF よりもかなり安い。おまけにここに登録すれば職業の立証にもなるので、滞在許可申請は相当楽になるはずだ。ただし、日本人会のパンフレットによれば、過去3年、P.L.として稼いだ実績がないとだめ、とのこと。まずは URSSAF に登録し、作家やライターとしての実績を積んでから AGESSA に足抜けせよ、と。
 でもここは Tout est possible. なフランスである。とりあえずここに登録の相談をしてみることにした。ダメならダメでどのみち「登録できない証明書」が必要になるわけだから。(続く)


1996年07月23日

 巴里の夏はアイスティです……といっても、カフェで飲むんじゃなくて、近くのスーパーで Liptonic を買い込んで、毎日飲みまくっているだけなんですが。ニッポン滞在中はうちの近くに Liptonic を置いている店がなくて、9ヶ月間、禁断症状に耐えねばならんかった。
 Liptonicとは、そうです、缶入りのレモンティー・ソーダです。最初は紅茶に炭酸?という違和感があったんですが、飲み出すとこれが病みつきです。Liptonic 以前は中毒気味だったペリエ・オレンジ風味からあっさりと転向しました。ニッポンでも売っているという話しを昨夏聞いてよろこんでいたんだけど、うちの近くにはどこにもなくて、結局ずーっとコーラ漬けの日々を送っておりました。
 昨日は滞在許可申請のアポ取りのために11区の警察に行ったのだけど、帰り、メトロの駅でネクタリン・ジュースの新製品のアンケートを受けました。なんかパッケージに関する調査だったみたい。「どちらを買いたくなりますか?」なんてね。


 到着から8日間経過、ようやっと時差ボケが抜けたので、滞在許可申請の手続きを始める。これまでさんざん etudiant や visiteur familialの手続きはやったが、今回はどういう身分になるのかすらわからん。領事館には journaliste independantでビザを申請したのだが、先方からは chercheur independantということで許可が降り(てしまっ)た。でもこれは領事館が思いついた statut なので、categorie は visiteurである。滞在許可でどう扱われるかは出たとこ勝負になる。
 涼しいうちに家を出る。まだ9時には目が醒めてしまうのだから、時差ボケがほんとは少し残っていたのかもしれない。目的地は11区の警察署。13区の外国人はここで受付手続きをし、指定された日にシテ島で本手続きを行う——多分これは変化ないと思ったので、決め打ちでここに赴いた。パスポート以外は不要なはずだが、tout est possible な国にいるので、一応、必要そうな書類を一通り用意する。
 窓口はタッチ・アンド・ゴー状態で、待つ間もなく呼び出しがかかる。担当官にビザを見せ、ついでに古い滞在許可証を提示する。「学生なの?」「いや、ビザを変更しました」
 学生の所轄はユネスコの隣りにある Centre d'etudiants である。出版活動でメシを食っていることを告げると、担当官応えて曰く、「ならば profession liberaleですね」だと。
 実のところ、profession liberale になればラッキーだなあ、と思っていたので、まさか向こうからそう言われるとは思ってもおらんかった。P.L.とは文字どおり自由業としての滞在身分で、salaire を伴う就労活動はできないが、honoraire を稼ぐのは自由というもの。フランスで長期滞在できるかどうかの鍵は、etudiantから P.Lに切り替えられるかどうかにかかっている、といわれている(らしい)。
 担当官が convocationの必要書類欄にマークを入れる。シテ島へのアポは約二週間後、8月5日となった。書類が揃うかどうか、微妙なタイミングである。
 最寄り駅がメトロ1番 Ruilly-Diderot なので、ついでに日本人会まで行くことにする。相変わらず1番線は暑っくるしい。George Vに着くまでに汗が吹き出る。でも地上に出ればけっこう涼しい。ついつい凱旋門を眺める。9ヶ月ぶりである。振り返れば風月堂。このあたりはまったく変化なしだが、シャンゼリゼの歩道だけは改修工事が終わり、やたら綺麗になっていた。
 風月堂の隣のアパートの5Fが在仏日本人会である。狭いエレベータは電気が切れていた。事務所内はバカンス期間中というか、まだ留学生ラッシュ前なので、いたって静かだった。受付で会費を払い込む。ついでに「滞在研究 自由職業者」というパンフレットを購入する。さらについでにアノンスをいくつか眺める。思えば4年前のいまごろ、いまのヤサはここで見つけたのだなあ、と遠い目をしながら思い返すのであった。(以下次号)


1996年07月16日

 うー、気持ちわりー。年々時差ボケが辛くなっている。西への移動だったからまだマシだけど、回復にはきっと3日ぐらいかかるでしょう。そのあとは天然ボケが待っていそうだけど(笑)。
 92年 6月以来、成田かパリのどちらかで雨に遭遇している状態が11回続いておりました。14日朝の成田は曇ってはいたけど雨は降りそうになかったので、こりゃきっと巴里は雨だろうなあ、と思ったものです。でも晴れてたし、空港はいつになく野兎が多かった。なんとか連敗は11でストップしたけど、乗り継ぎ地のヘルシンキは雨でした。
 Bal は陸軍病院近くの消防署でも毎年やっていて、昨日はうちの近くでもかなりにぎやかどした。こちらは出発直前のドタバタによる疲労(前々日までオフがあったり)、子どもの風邪なんかが重なり、騒音が脳にこたえました。
 デスクトップ環境、しかもキーボードの初期モデルに馴れてしまうと、さしもの PowerBook が使いづらくてたまりません。去年まではこればかり使っていたんですけどね。休日とは知りながらも、さっきは早々に MacWAREHOUSE に PowerMac 7200/90 を注文しちゃいました。まだ在庫は残っているかな。9.032 FTTC なら日本と比べてそう無茶苦茶高いってわけでもありませんね。もちろんメモリは 8MBしか実装されていないけど。


1996年07月09日

 輸送手段をいろいろ考えたのですが、結局、いま使っているのは日本で売り払い、フランスであらためて購入することにしました。
 4年前にフランスに上陸したときは、航空便のアナカン扱いで本体、モニタを輸送しました。業者はヤマト運輸で、国際配送はUPUです。たしか10万以上かかったと思います。同様のサービスは日通、JTBトラベル、西濃運輸などもおこなっておりますが、航空便なのでかなり高いです。先日電話で見積もりを聞いたら、重量が8キロで6万円とのこと。これは梱包を自分でする場合です。FEDEX や DHL などの国際宅配便を利用すれば、3割ほど安くなります。ただし、これらはビジネス・ドキュメントや商品の輸送が前提なので、身の回り品のサービスはやってません。利用できないことはないけど、免税のための書類作成や交渉はすべて個人でおこなう必要がある、ということです。
 いずれにせよ、自分で機内に持ち込むのでないかぎり、最低でも数万円は追加でかかってしまう。いくらフランス市場はパソコンが高いといっても、ミッドクラスのマシンならチャラになってしまいます。もちろんノートブックなら日本から持参する方がいいでしょう。
 で、結論。メモリは日本から買って持参し、デスクトップ本体はフランスで買う。そしてフランスを発つときに帰国売りする——これがいちばん経済的なようです。メモリは秋葉原価格で 32MB SIMM が 24,000円、32MB DIMM が 27,000円になりましたが、フランスはこの2〜3倍近くするようです。


 Evry(エブリー)は、たしか途中までは Fontainebleau とおなじだったような記憶があります。Zone 6 の中で、巴里から行くなら Gare de Lyon から SNCF だったと思うんだけど、10年前の記憶なのでアテになりません。
 なぜ Evry に行ったかというと、当時通っていたアテネ・フランセで使っていたテキスト Sans Frontiere 1 の Unite 2 だか 3 の舞台が Evry だった、というだけのこと。現代建築をふんだんに使った集合住宅地群、整然と区画された街並み、バス専用路線や自転車専用路線まで整備された道路等々。いかにもよさげなんだけど、ぜんぜんおもしろくない。臭いのない街はつまらんという定理は、ブラジリアやキャンベラで証明された、なんて意見もあるけど、Evry もそんな感じだった。
 中華街はヨコハマがベストで、次いで桑港、NY、巴里の順でいいと思います。巴里13区の中華街は、純粋な中華メシは少ない。ほとんどがベトナムとかタイとのハイブリッドです。でも、あのあたりの市場は白菜や大根が安いんで助かりますけどね。タクアンも売ってるけど、ちょっと甘すぎる。


1996年06月19日

 ペタンクはうちの近くだとリュクサンブール公園の南西側、それに Jussieu のローマ遺跡でよくやってます。遺跡が遊び場になっているのが、とてもとても不思議な感じでした。ニッポンでいったら、古墳でゲートボールやるようなもんだから。


1996年06月04日

 ヨーロッパで紙幣が使える自販機の多い国はドイツです。数年前に切り替えられたマルクの新札には、金属ストライプが埋め込まれているんですが、そこに数字が刻印されてるんです。で、紙幣の使える自販機はそれを読み取るのね。ポンドもたしかそんなスタイルになったかな。例の星の王子さまの新札が出たとき、フランでも金属ストライプを埋め込んだから、てっきりそうなると思っていたのだ。でも数字は刻印しなかったみたいね>フラン。
 マルクの精緻なデザインとフラン紙幣を比べると、「マルクは強いぞ〜」という実感が湧いてくる。そうだ、相場がようやく待望の円高に向かいそうです。上がれ上がれ、あと2割上がれ>円の対フラン相場。


1996年05月29日

 RATP は毎年定期値上げしています。パリに住み始めたときは、carnet がまだ 34 Frs だった。でもあのときは 1 Fr = 25 JPY っていう円安だったんで、円ベースでは上がったり下がったりなんですけどね。
 よみがえれ! 1年前の円高! あんときゃ 100 JPY = 5.85 Frs って両替屋もあったぞ。


1996年05月03日

 滞在許可はいろいろと複雑で、titre de sejour のカテゴリーそのものはetudiant、employe、visiteur の三つしかない。ところが、visiteur にはサブ・カテゴリーともいえる statut があって、その多くが個別判断になってしまいます。
 比較的手続きが確定している statut は、artiste、chercheur invite の二つです。前者は絵画、写真、音楽、舞踏などで実際の活動歴を証明すれば、VISA も滞在許可も比較的スムーズにおりるようです。chercheur invite は受け入れ先の書類がそろえばこれも手続きは定式化しておりますね。家族VISAも visiteur に属するのですが、これは配偶者が滞在許可を取れば連動してます。
 VISA は発効されないけど statut として手続きが定型化しているのが、自由職業者(profession liberale:P.L)です。フランス国内で翻訳や通訳をやっている学生以外の正規滞在者は、ほとんど P.L でしょう。現在では、学生身分から合法的に労働ができるもっとも簡単な道が P.L への切り替えです。
 で、ほんとに最近になってわかったのは、それ以外の statut もかなりありそうだ、と。昨秋の出国寸前にわかった journaliste independant もそうですが、今回判明した chercheur independant も、ですね。ただし、これらは VISA を発給する省が警察とは別組織ですから、滞在許可申請で「なんだそれ?」という対応をされる危険性があります。


1996年05月01日

 流しの研究者(笑)には昨日フランス大使館から連絡があって、なんとかVISAはおりたのである。でも正直いって、あっけないくらい簡単におりてしもたので、滞在許可がいまから心配。また口八丁手八丁やらないとあかんのか。


1996年03月23日

 遠く離れてはいても、4月、5月の巴里を思い浮かべると、ほんとうにときめきますね。ニッポンの四季も美しいけれど、春分から夏至にかけてのまさしく劇的な巴里の変化は、何度経験しても飽きることはないと思う。当初「I shall return」を3月にしようとしたのも、ひとえにこの季節を味わいたかったからです。
 そういえば、もうすぐサマータイムではないか。


1996年03月20日

 日本滞在中の最大の用件である VISA申請が、よーやっと先週の金曜にできました。でも本当は木曜にすませるつもりだったのだけど、道が大渋滞で領事部に着いたのが12時5分前、記入すべき書類がぜんぶで18通、出直しを命ぜられたのであった。
 去年は 3月11日に春が始まったから、今年も巴里はすでに芽ぶいているころでしょう。うちの近辺では Arago通りが真っ先に緑色になり、St.Marcel が次、最後が Port Royal という順番でした。これから6月にかけてが、巴里のベスト・シーズンです。わくわくしちゃうけど、再上陸は fete de la musique 前後になりそうだ。
 その後領事館から一度電話があって、「申請書類を読んでみたが、記載されている活動内容は journaliste independant ではなく、chercheur independant ではないか」とのことでした。journaliste indep. という statut は昨秋の帰国直前に知ったのだけど、chercheur にもそんなのがあるというのは初めて知った。まるで「流しの研究員」ですね(笑)。たぶん日本でいう科学ジャーナリストやサイエンス系評論家に近い立場なんだと思うのだけど。
 揃えた申請書類は、滞在理由書(膨大な annex 付き C.V.も添えた)、派遣証明書、銀行残高証明、戸籍抄本、パスポート・コピーでした。派遣証明書は取引のある出版社に依頼したのですが、文面はこちらで作成し、サインだけもらう形にしました。領事部は英文または仏文といってたけど、どうせ滞在許可申請で仏文が必要になるに決まっている。
 この派遣証明書の用意に時間がかかって、文面の作成は通訳をやっている知人に全面協力してもらい、のべ一週間ぐらいかけて仕上げました。それをレター・ヘッド付き用紙にプリントしないといけないので、まずはお願いがてら用紙をもらったり、その場でコピーさせてもらったり。一番タイトな日で、5社ぐらいハシゴしたことがある。
 ただまあ、フランスの場合だと書類は多ければ多いほどいいので、こういう部分はあまりはしょらないほうがいいんですよね。あー、でもこれだけ申請に苦労して却下とかなったらかなり悲しい。


1996年02月20日

 フランスのSSはかなり手厚いようでも、実際には渋いようですね。フランス政府のSSが義務づけられていない学生などは、海外旅行保険のほうがはるかにオトクですね。政府の学生向け保険などは給付額が低いので、保険の保険があるくらいです。
 日仏の医療水準は全体としてどっこいどっこいといわれていますが、歯科医療については日本のほうがかなり進んでいるそうです。最近の歯科はほとんど設備投資で治療の水準が決まりますので、ハイテク好きな日本は有利なようですね。ぼくもカミさんも歯の治療だけはすべて日本ですませてます。


1996年01月02日

 巴里でアパートを探すときは、近所のカフェの雰囲気をひとつの目安にするのが常套手段です。カフェは確実にカルチエの鏡ですから。場末の雰囲気のカフェがある街は、街自体がどこか殺伐としているはず。その意味で、ぼくはやっぱり5区、6区のカフェ、とくに Vavin、St.Michel、Odeon 近辺のカフェが好きです。
 ただ、気合いのはいった(というのも変だけど)カフェとなると、8区、それもルーズベルトとか Av.Montaigne、Av.George V 近辺ですね。このあたりのカフェは、ちょっと気取った格好で入りたいところでもあるけど。
 Palais Royal や Tuilerie あたりはちょっと観光ズレしすぎてる感じがしますわな。ギャルソンもせせこましいし。まあ、日本語が通じるから楽は楽なんだけど。はいっていきなり「ご注文は?」と聞かれると、ちょっとあせりますが。



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