« 2006年02月| »
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28

過去の日記一覧

月別アーカイブス



この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。
« 2006年01月 |メイン| 2006年03月 »
■ 2006年02月 アーカイブ

2006年02月28日

 1994年も8月のバカンス・シーズンが終わり、会社の後輩(カミさんの同期)とM田さんが偶然同時期にフランスを旅行で訪れたので、せっかくだから一緒に南仏でも行こうか、ということになった。ホテルの予約も取らず、とりあえずアビニョンに行ってから先のことを考えよう、という気ままな旅行である。
 パリからアビニョンまではTGVですぐである。現地に着くや、いつものようにまずはインフォメーションに行って宿を手配した。バカンス・シーズンは過ぎていたので、すぐに適当な部屋を見つけられたのだったと思う。ただ、どんなところに泊まったのか、いまではまったく記憶に残っていないので、たぶん、街中の安い二つ星クラスのホテルだったのだろう。いつも泊まるのはそんなところばかりだった。
アビニョンの街はそれほど大きくはないので、一日でめぼしいところはまわれた。というか、橋以外はあまり覚えていないのだ。ただ、もう一回ぐらい訪れてもいいなと思ったことだけは記憶しているので、それほど悪い印象ではなかったのだろう。
 その先をどうするか。M田さんの提案で、レンタカーを借りることにした。じつはこのころカミさんが身重だったので、すでに安定期に入っていたとはいっても、電車で小刻みに動くのは避けたかったのだ。駅前のHertzで車の予約をおこない、空車の配送がすむまでのあいだに訪問地をリストアップした。いろいろと考えた結果、カマルグ、オランジュ、ニース、グラース、モンテカルロあたりをまわろうか、ということになった。


2006年02月27日

 1994年7月に新しいPowerBookを購入した。500シリーズといわれた機種で、マニアのあいだでは開発コードのBlack Birdの名で呼ばれていた。stnモノクロ液晶の520、stnカラー液晶の520c、TFTモノクロの540、そしてTFTカラーの540cの四機種がリリースされていた。当時、TFT液晶は稀少な高級品だったので、一般個人は540cになど手が出ない。しかし、TFTの魅力は捨てがたかったので、540を購入したいと思っていた。
 ところがこのシリーズ、発売前からMacファンの人気をさらっていたので、発売と同時に深刻な品薄状態になってしまった。アメリカ市場での販売が優先されていたため、日本ではずっと入荷未定である。フランスにも在庫はほとんどないし、なによりも値段が日米に比べて高すぎた。で、試しに以前Daystar PowerCashを購入したことがあるテキサス州の店にファックスで問い合わせたところ、520だったら在庫があった。しかも値段が日本の店頭価格にくらべてずいぶん安い。唯一の問題は、アメリカからフランスに送ってもらうと、間接税と関税が高くつくことだった。しかし、7月末に仕事の関係で日本に一時帰国する予定だったので、それにあわせて送ってもらえば日本の消費税だけですむ(本当は日本からフランスに持ち込む際に申告の義務があるのだが)。で、店には日本に送るように指示するファックスを送ったのである。
 ところが、先方が変に気をきかせてくれたために、大混乱することとなった。商品の手配が予定よりも早くできたそうで、日本ではなくフランスに送ったという連絡がファックスで入った。こちらのフランス出発日を伝えてあったのだが、その三日前には確実に届くというのである。
向こうは親切のつもりだったのだろうが、とんでもない。元も子もなくなってしまう。仕方がないので、時間をみはからってテキサス州の店に電話をかけて担当者を出してもらい、フランスに送った商品を回収してすぐに日本に送り直すよう、クレームをつけた。向こうとしては親切で行ったことに対するクレームなので、かなり反発したようである。こちらの英語力では議論に勝ち目はない。仕方がないのでフランスで受け取ることにした。
 ところが、である。到着予定日になっても荷物が来ない。FedExのフランス事務所に問い合わせたところ、まだ通関が終わっていないというのだ。そして、夏のバカンス期間中なので、まだ数日かかるだろうというのである。困った……のではなく、むしろ「しめた!」と思った。すぐに状況をファックスで知らせたところ、こんどは先方からこちらに電話が入った。さらに、この担当者、片言のフランス語を話せるとあって、電話の最初はフランス語だったのである。
 こうなればこっちのものだ。こちらもネイティブではないものの、日頃からフランス語を使って生活しているわけである。向こうが一つ言い訳するたびに五倍ぐらいの反論を返した。それに、いくら向こうが親切でフランスに送ったとはいっても、こちらの指定に従わなかったという弱みがある。なおかつ現実に荷物の到着がこちらの出発に間に合わないとなれば、非は店側にあると認めざるをえない。
 向こうが配送のし直しに消極的なのは、米・仏の往復分と米・日の送料を支払うとなると、利益がなくなってしまうからだった。最後は泣き声に近かった。仕方がないのでこちらから「米・仏の片道分の送料は別名目で負担してもよい」という妥協案を出したのだが、先方にとっては渡りに船だったのだろう。即応じたものである。まあ、こちらとしては払わないでもいい負担をするわけだが、それを含めても日本での販売価格より安かったし、なによりすぐに入手できることを優先させたのである。
 そんなわけで、PowerBook 520が手元に届くまでにはいろいろな波乱があったのだが、このノートブックPCの性能は想像以上に良く、早く入手できて良かったと心底思ったものである。キーボードのタッチも気に入った。このPowerBookは、アップグレードをせぬまま五年以上使い込んだと思う。
 なお、8月は一ヶ月近く日本に滞在したのだが、その間、合計で24回のオフに参加した。一応、仕事もそれなりにこなしたのだが。


2006年02月26日

 1994年7月、会社の同期のなかでも仲が良かった者が出張でパリに立ち寄った。彼の大学時代の先輩がOECD日本政府代表部の一員としてパリに駐在しているというので、いちど、一緒に晩飯でも、ということになった。その場所がシャンゼリゼの有名なキャバレー、LIDOだったのである。
 LIDOといえばヌード・ショーが「名物」である。もちろん、シャンゼリゼ通りの、それも凱旋門からそれほど離れていない一等地でのショーだから、スケベオヤジのエロツアー会場なんかではなく、中年・壮年のカップルがお洒落をして遊びにくる社交場のようなところだ。ただ、そこには我々を含めて多くの日本人オヤジたちがいたのも事実だが。
 そのころすでに30台の我々は、もちろんまだスケベっ気は十分になったものの、べつにオッパイを見物したくて行ったわけではない。興味がないことはなかったが、あいにくと(?)こういう店でのショーとなると、淫靡な雰囲気などみじんもない。なので、最初のうちは大きさ・形状さまざまなオッパイの数々に圧倒されたものの、すぐに見飽きてしまった。印象に残ったのは、ヌード・ショーのあいまにおこなわれた幕間の芸である。これは本当に感動の連続であった。いまだにLIDOの印象というと、巨大な壷を頭に乗せて回転させていた芸人である。
 なお、このとき遊びに来た同期の友人は、2005年9月、帰らぬ人となってしまった。出張先の北京での急病だったという。彼はうちに二泊していったと記憶しているが、そのころわたしがハマりかけていたMYSTというゲームに彼も夢中になってしまった。二日目の晩など、徹夜でMYSTの謎に取り組み、翌朝、ほとんど一睡もせぬまま帰国の途についていた。


2006年02月25日

 日本ではインターネットが普及したおかげで、いろいろなモノをネット通販で手軽に買えるようになった。それ以前にもテレビ通販やカタログ通販は存在していたが、インターネット普及後に比べれば、需要は限定的だったといっても間違いではないだろう。その点、フランスには、インターネットの普及以前からミニテルによるネット通販が盛んに利用されていた。
 ミニテル(minitel)とは、もともとはテレテル(teletel)と呼ばれる通信システムの簡易端末の名称でだったが、一気に数百万世帯に普及したため、ミニテル自体が通信システムを指すようになった。最も一般的なミニテル端末は8インチのモノクロモニタ一体型で、本体にはCCITT v.23規格のモデムが内蔵されていた。このモデムは通信速度が下り1200bps、上りが75bpsという規格であったが、94年当時、すでに14.4kbpsのモデムが広がり始めていたので、このスピードはきわめて「のろま」であった。
 teletelとは一般にビデオテックス(videotex)と呼ばれる通信規格のEC方式である。日本でも80年代後半にNTTがCAPTAINという名称でサービスを実施したが、あまり普及することなく忘れられてしまった。実のところ、フランスのteletelは世界で唯一のビデオテックス成功例だったのである。
 通信事業の自由化が世界的に進展した1980年代にあって、どの国も電話に次ぐ個人向け通信サービスの開発にしのぎを削っていた。そのなかでも文字と図形とをあわせて情報提供ができるビデオテックスは、「ニューメディア」の期待の星といって良かった。日本、米国、ECのそれぞれが自国の通信事業者が開発した規格を国際規格にしようとしたが、結局、三方式ともに国際規格として並立することとなった。ところが、この規格にもとづくサービスそのものが期待はずれで終わったのである。フランスの成功は、例外中の例外だったのだ。
 なぜフランスだけが成功できたのか。それは、簡易端末のミニテルを無料で貸し出す方針を政府が打ち出したこと、同時に電話帳を廃止したことが大きな要因だったと考えられている。しかし、それ以上に注目すべきことは、フランスでは通信販売が盛んだったため、業者にとっても消費者にとってもミニテルはコスト的に有利な手段だった点だろう。さらに、個人がさまざまな掲示板を利用して不要品の売買を行っていたり、新聞や雑誌広告を利用して恋人募集をおこなうという習慣があったため、ミニテルの使い途がすでに存在していたのだ。そこに政府の端末無料化という方策が重なり、うまいぐあいに需要が循環したのだろう。その点、日本にはCAPTAINを必要とする用途そのものが希薄だったのだ。
 もちろんアメリカでも通販が盛んだとか、個人情報を交換する掲示板の習慣があったわけで、その点ではフランスと同様である。しかし、政府が政策的にビデオテックスを普及することがなかった。また、アメリカではすでにパソコンが個人レベルで普及し始めていたし、モデムも世界ではダントツに安かったため、パソコン通信がビデオテックスの代わりに普及した、と考えていいのではないか。


2006年02月24日

 フランス時間の1994年5月1日午後6時5分は忘れられない瞬間となった。そのとき、F1の世界王者アイルトン・セナが死んだという公式発表がラジオから流れたのである。94年のサンマリノGP、セナの操るウィリアムズ・ルノーが高速コーナーで制御不能になり、時速200キロを超えるスピードでコースアウト、そのままコンクリート壁に激突したのだ。
 このレースをわたしは、いつものようにTF1の生中継で見ていた。レースはすぐに中断され、セナがヘリコプターで病院に運び出された。その様子をわたしはNIFTY-Serveのモータースポーツ・フォーラムのF1会議室に書き込んだ。すでに日本でも事故がテロップで速報されていたらしい。
F1レースはフランスでも人気のある番組で、セナの様子はラジオのニュースでも随時伝えられていた。その都度、わたしは情報をF1会議室に書き込んだ。時間がたつにつれ、モータースポーツ・フォーラムのチャットに多くの人が集まるようになり、それがシステムの負荷となってアクセスしづらくなったほどである。
 18時5分の公式発表で、フランス語の同時通訳は「sa mort」と告げていた。しかし、あまりに重大なニュースに、わたしは「死」と書くことはできず、電子会議室にはとりあえず「深刻な状態」とだけ書いた。同時に、このフォーラムの関係者であったすがやみつるさんには、メールで「セナ死す」と伝えた。
その後、フランスのラジオニュースでも繰り返しセナの死亡を報道したので、会議室にもその旨を書き込もうとした。ところが、あまりに多くの人がアクセスしていたために、フォーラムのなかに入れなかったのである。チャット・ルームだけでも125人が集まっていたのである。


 日本の阪神淡路大震災のニュースは、フランスでも大々的に報道されていた。地震の直後、いつも聴いているラジオからも速報が流れた。フランス時間の夜10時(日本時間の午前6時)をちょっと過ぎたぐらいだったと思う。そのときは、「大きな被害は報告されていない」というアナウンスだったので、とくに気にかけることなく寝てしまった。
 朝になってからテレビのニュースを見たのだけど、神戸の惨状が映されていた。昨夜のラジオの報道は、要するに、被害がなかったのではなく、被害が大きすぎて現地では報告すらできなかった、ということがわかった。インターネットで新聞社のサイトにアクセスしたり、NIFTY-Serveの会議室を読んでいるうちに、未曾有宇の大惨事であることが次第にわかってきた。現地の1月18日の朝刊は、すべての新聞が一面に大震災をニュースを掲載していた。
 関西には多くの友人が住んでいたが、さいわいなことに、亡くなった人はいなかった。ただ、家屋が全壊に近い被害を受けた者はいたが(改築を計画していたそうで、結局、実質的な被害はほぼゼロだったらしい)。
 こういうとき、海外にいては直接なにかを手助けする、ということはできないが、あちこちの電子会議室のメッセージを整理したり、メールを中継することだったら、どこにいてもできることなので、自分の関与できる範囲で情報整理を行った。もう一つ、コミュニケーションを研究する者として、こういうケースに今後どのような対応が必要なのかを分析するため、多くのコミュニケーション記録を残す必要があると考え、fj newsgroupや草の根BBSを含め、電子掲示板や電子会議室のメッセージ記録を収集することにしたのである。


2006年02月23日

 1994年、フランスを代表するエリート校、Ecole Polytechniqueの創立200周年記念切手が発売された。この学校、仕組みの上では大学ではなく、一般に高等専門学校(grandes ecoles)と呼ばれるフランス独自の高等教育機関の第一号だ。設立したのはナポレオンで、科学技術面で国を担う人材の養成を目指したのである。モンジュ、コーシーなど、当時を代表する数学者がここの教授陣に名を連ねていた。いまでもそうだが、ここへの入学は数学者を目指すフランス人の目標となっている。ポアンカレ、エルミート、グロタンディック、セール、マンデルブローをはじめ、Polytechnique出身の著名数学者はいくらでもいる。
 設立者がナポレオンということもあって、この学校は軍との関係が深い。というか、所轄官庁は軍だったはずだ。毎年7月14日の革命記念日軍事パレードでは、この学校の在校生がいちばん最初に行進している。数学者や物理学者だけでなく、数多くの技術者、官僚、企業経営者を輩出している。
 フランスの大学には入学試験がない。しかし、grandes ecolesには厳しい選抜試験がある。その準備のために二年間の準備学級が用意され(有名リセに付属する形らしい)、その期間を経てようやく受験となる。もちろん準備学級に進むのにも選抜がある。いわば、日本の旧制高校のようなものだ。grandes ecolesの入試に失敗した者は、大学の三年に編入が可能である。
 ……というのはごく一部のgrandes ecolesに対する説明で、実際の仕組みはもっと複雑なのだ。フランスには私立大学がないかわりに、各地の商工会議所が発足させた私立の経済商業系grandes ecolesが多々存在する。それらの選抜方式は学校によって異なる。全体像はフランス人にもよくわからないそうだが、社会人になってからもさまざまなキャリアパスのコースが用意されている点は、じつに柔軟な仕組みといっていいだろう。


2006年02月22日

 フランスはデモやストが多い国である。不満があったらアピールし、なんとか自分に有利な決定を勝ち取ろうとする。多くの人がアピールし、利害がぶつかりあい、衝突し、そして打開策が生まれる。デモやストが起きるたびに、いわゆる市民生活にはさまざまな不便・不都合が生じるが、すくなくともフランス人たちは、それを迷惑だからやめろとは言わない。デモやストは生活上の当然の権利だと考えているわけだ。
 住んでいたアパートが面していたのはBouevard de Port Royalという広い通りだったが、ここはデモ行進の定番コースに入っていた。オステルリッツ方面からモンパルナス方面に抜ける道だったので、たぶん、デモには利用しやすいルートだったのだろう。おかげで、大規模なデモが起きるたびに、窓から様子を見物できた。
 1994年3月のデモは、多くの労働者の生活に直結する事柄への抗議行動だったので、いつものデモよりもかなり過激な行動が見られた。商店が破壊された地域もあったらしい。そんなわけで、このときのデモでは治安警察(日本の機動隊に相当)の隊員があちこちで警備にあたっていた。


2006年02月21日

 1993年に続き、またしたもあらたな大学院&師匠さがしをしなければならなくなった。DEA課程は一年のプログラムなので、その先の博士課程を履修する意志がなければ、一年ぽっきりで終わりなのだ。ただし、学位が取れなかった学生にかぎり、もう一年の延長が認められる。学期開始当時ちょっと親しかったベネズエラ人ルイスは途中で病欠したため、一年延ばしてDEAを取るといっていた。
 わたしの場合、この分野でtheseを登録する意志はなかった。前半の科目こそ、かなりの興味を持って取り組んだものの、後半になると、内容的に自分の関心領域からどんどん逸れていってしまったのだ。というか、いくつか抱いていた関心領域のうち、ここにきてようやくメディア論をやりたい、と明確に思うようになったのである。

 ESSEC時代の友人Abdelは、もともとがscience d'information et de communicationを専攻していたので、この分野の研究者リストを貸してくれた。そこには研究者の名前と連絡先、所属機関、細かな専門領域、発表論文などが一人につき一ページ記載されていた。このなかから、自分の関心領域と重なる研究者をさがすわけである。
 見てみると、RenneやGrenoble、Strasbourgなどに、なかなか興味深い研究に携わっている人がいた。もしそれらの人に弟子入りとなれば、当然、パリから引っ越すという選択肢も出てくる。ただ、すでにフランスでの生活には十分に慣れていたので、そうなったらそうなってでいいかも、ぐらいに思っていた。


2006年02月20日

 Paris Iに留学していた1933-1994年ごろ、SorbonneかPantheonで講義がある日はムフタール通りを使って往復するようになった。常設市場で有名なこの通りは観光客に人気がある。市場としては観光化され、けっして安くはないとの批判もあるが、それでも新鮮な肉や野菜、豊富な種類のチーズやソーセージを買うことができることは間違いなく、わたしもカミさんも頻繁に利用していた。
 冬になって気温が下がると、ムフタールの肉屋は日本人から見るとちょっとショッキングな光景となる。ショウケースのなかには、ニワトリやハトの「死体」がそのまま置かれている。その上には羽を向かれた七面鳥がぶらさげられている。横にはブタの首が置かれている。中国人と同様、フランス人もさまざまな肉や内臓を食べるし、当然、新鮮なものが好まれるので、気温が低くて肉が痛みづらい冬になると、まさに皮をはがれた動物がズラリと並べられるわけである。
 ムフタール通りでは、チーズ屋(cremerie)一軒、魚屋(poissonerie)一軒をしょっちゅう利用した。どちらも種類が豊富だった。とくにチーズ屋には100種類以上ものチーズが常時置かれていた。日本では考えられない品揃えである。学校の帰りに、しょっちゅうなにがしかのチーズを買ったものだ。いちばん気に入ったのはPoivreといって、白いシンプルなチーズに黒こしょうをまぶしたものである。買った頻度がいちばん高かったのは、ごくオーソドックスにブリであるが。


2006年02月19日

 NIFTY-Serveではコミック・フォーラムと外国語フォーラムに主として参加していたのだが、1993年11月ごろから「本と雑誌フォーラム」にも出入りするようになった。出版関係者や小説家志望者、本好きが集まるフォーラムで、なかでも小説家の水城雄さんが主宰する「小説工房」という会議室が最も活発だった。ここは水城さん自身による文章道場であり、現役の小説家がアドバイスをしたり、後に作家デビューを果たした人が短編を発表していた。インターネット以前の時代にあって、電子コミュニティにおける創作活動という点で、最も先進的で意欲的な場であったといっていい。
 わたしは小説家になりたいという気持ちはなかったが、水城さんが掲げる「商品としての文章」という考え方にはおおいに興味を持った。会議室に発表された作品に対する水城さんのコメントは、第三者的にもじつに納得のいくものであった。自分自身が文章を書くにあたっても、目から鱗がボロボロと落ちるような気がしたものである。
 本と雑誌フォーラムに参加したのは8月ぐらいだったような気がする。そして10月の一時帰国のおりには、執筆中の単行本の関係で、水城さんに取材までさせてもらった。そのときは本当にお世話になり、いまでも感謝している。その後、わたしは多くの出版関係者と知り合い、サラリーマン時代とは人間関係がガラリと変化していくのだが、その出発点は間違いなく水城さんとの出会いであった。


2006年02月18日

 1993年も11月に入って大学院の事務的手続きが一巡して講義も「本論」に入ってきた。履修したコースは数理工学分野であるが、コンピュータを操作するといった実習は一切なく、ただひたすら理論的な事柄を消化する日々だった。内容は数理論理学である。わたしにとっては、学部学生時代以来、11年ぶりに接する現代数学であった。いよいよ数学科出身の本領発揮といいたいところだが、正直なところ、わたしは数学にギブアップしたのである。その後もとくに現代数学の内容を復習したわけでもないので、11年ぶりの数学の世界にはとまどいがあった。「現役」時代だったら簡単に理解できたであろうことが、何日ももだえてようやく理解できたり、知識としてだけ知っていたことの証明を求められたり。ただ、やはり根は数学的な事柄が好きだったし、なにより数学という特殊な言語をフランス語で表現すること自体は楽しかった。


2006年02月17日

 1993年10月は、夫婦そろって日本に帰省した。大韓航空の1年オープン・チケットの期限がそろそろ切れる時期だったのだ。CDG空港でチェックインをしたとき、座席指定のシステムがえらく混雑していたようで、端末を操作していた職員が「面倒だからビジネス・クラスにしちゃったわ」と笑いながらbording passを渡してくれた。面倒でビジネス・クラスになった我らにとっては大ラッキーである。
 日本での滞在は大忙しである。滞在期間は一ヶ月近くあったのだが、その間にまず、ESSECに提出するmemoireを仕上げ、口頭試問用の発表資料を作らなければいけない。memoireの提出期限は日本滞在中に来てしまうので、こちらで出力して郵送しなければならないのだ。さらに、10月から通う予定だったパリ第1大学のオリエンテーションも滞在期間中に開かれるので、指導教官に連絡をしておかなければならない。学校関係のもろもろの作業の他に、初めての単行本を書く上での取材をこなす必要があった。一件が東京、一件が京都、そして一件が福井県の勝山である。その大移動の合間にはオフが三つ。移動はすべて車でおこなったが、たぶん、1,000キロ以上は走ったはずである。
 あわただしい滞在からパリに戻ると、すぐにESSECの口頭試問、そしてPantheon-Sorbonneの授業開始と、パリでのあたらしい生活パターンが始まる。しかし、一年間の慣れに加え、ESSECに比べればはるかにゆるい時間拘束、そしてなにより通学先が自宅から徒歩圏内にあったことなどから、生活にはゆとりが出てきた。


2006年02月16日

 1993年当時に使っていたパソコンはMacintosh IIである。モトローラの68020/16MHzを採用したこのマシン、購入したのは87年12月のことであった。いくら製品寿命の長いMacといっても、そのまま6年も使い続けることは難しい。ここまでもたせることができたのは、2月の一時帰国の際にアメリカ人の元同僚に頼んでアメリカの通販業者からDaystar PowerCashという68030/40MHzのプロセッサを購入し、本体のチップと換装したからである。これでMacが三年若返った。
 しかし、メモリは8MBのままで、当時としてもけっこうギリギリである。すでに旧式となっていたMac IIの場合、PALという特殊なタイプのメモリでないと装着できなかった。おまけに世界的に4Mbit DRAMが品薄でメモリ価格が急騰し、Macの需要が米国に比べて少ない日本では、Mac II用PALメモリを安く買うことは不可能だった。
 そんななか、ミッシェルというフランス人の友人が仕事で渡米することになり、PALメモリを探してくれることになった。ミッシェルと知り合ったのは、CalvaComというフランスのパソコン通信サービスがきっかけである。このネットの歴史は案外と古く、しかも1990年に藤野満さんという人が日本から入会していた。そしてCalvaComの「Soleil Levant」という電子会議室とNIFTY-Serveの外国語フォーラムとのあいだで、メッセージを相互に転載することになったのだ。転載はすべて藤野さんが手作業で行っていた。そして何人かのCalvaComユーザが常連として定着するようになった。
 CalvaComで忘れられないのは、フランス人新婚カップルの歓待プロジェクトである。CalvaCom常連の友人が新婚旅行で日本を訪れることになり、どこかオススメはないかといったメッセージを投稿した。それを受けて、外国語フォーラム側でさまざまなプランが練られたのである。
 フランス定住後、わたしはCalvaComに入会し、何度かCalvaCom側でメッセージを投稿したりもした。そのCalvaComで長らく中心メンバーだったのがミッシェルである。彼はソフトウェアのエンジニアであった。お互いの家を何度か行き来したこともある。彼もまたMacユーザだったので、わたしのためにいろいろなソフトを教えてくれた。あるときわたしが「メモリを増設したいのだけどモジュールが手に入らない」とボヤイたのだが、そのことを覚えてくれていたのだ。
 非常に親切な人で、アメリカのパソコン・ショップでモジュールが見つかるや、わざわざうちまで国際電話をかけ、値段を知らせたうえで買うかどうかの確認をしてくれた。もちろん即依頼し、二週間後、メモリを受け取ることができたのである。増設後、Mac IIはいっそう使いやすくなり、その後さらに使い続けることができた。このMac II、1993-94年版の『地球の暮らし方 フランス編』にもじつは写真の一角に登場したのであった。


2006年02月15日

 姉夫婦が夏休みを利用して遊びに来た。この夏、日本は異常気象で野菜価格が高騰していたとかで、姉たちは「とにかく野菜を食べたい!」と叫んでいた。到着翌日に近所の常設市場の場所を教えたところ、以降、自分たちで大量の野菜を買い込んでは、サラダにして食べまくっていた。フランスはあちこちから農産物を輸入しているため、多少の気候変動があっても、なにかが突然高騰するということは少ないようだ。それ以前に、多少高騰したところで、元の値段が日本よりも圧倒的に安いので、日本人は高いと実感できないだろう。
 姉の友人が結婚してスイスのベルンに住んでいるので、我らともども遊びに行くことになっていた。その友人は、姉が劇団の研究生をしていたころの同期生だ。演劇をやる前は日航でアテンダントをやっていて、姉とおなじ劇団の研究生を辞めたあとは、演劇の勉強をするために単身ニューヨークに行ったという経歴の持ち主である。わたしも何度か面識があった。テンポよくポンポン突っ込んでしゃべるタイプの人だった。
 パリからジュネーブまでTGVで移動し、ジュネーブからベルンまでは在来線を利用した。切符は姉夫婦に日本で手配しておいてもらった。航空機こそ使っていないが、我ら夫婦にとってはフランス在住後、一時帰国を除けば初めての「国外」旅行である。
 ベルンの駅では姉の友人が出迎えてくれた。家は駅からバスで10分ほどのところにある。ダンナさんはベルン出身のスイス人で、二人のあいだには男の子が二人。我ら一行4人を含めて夕食は8人という大人数だったが、全員が共通してしゃべれる言語が一つもないという状況だった。そんななかでいちばん器用な「使い分け」をしていたのはダンナさんで、わたしとはフランス語、子どもたちとはドイツ語、他のひとたちとは英語である。そもそもこの一家、夫婦の会話は英語、母子の会話は日本語、父子の会話はドイツ語なのだった。
 翌日、ルツェルンの街を訪れた。14世紀に造られたカペル橋を渡ることもできた。この橋、我らが訪れた一週間後ぐらいに火事で大被害にあったので、元の姿を見ることができたのはラッキーといえなくもないのだが、素直に喜べないことである。


 いま現在、オレが最も知り合いたいと思う研究者は教育社会学者の本田由紀さんである。『若者と仕事』(東京大学出版会、2005)で興味を持ったのだが、今回は『「ニート」って言うな!』(光文社新書、2006)を読み、そこで展開されたニート言説批判にはおおいに感銘を受けた。鋭く切り込んでシャープに論駁するというスタイルではなく、あくまでもデータを正確に読み取って分析を積み重ねる論述スタイルは、非常に真摯だと思う。この真摯さが、ともするとセンセーショナリズムに陥りがちなテーマを論ずるにあたり、最も必要な姿勢であるはずだ。
『「ニート」って言うな!』は三部構成になっており、本田由紀、内藤朝雄、後藤和智の三名がそれぞれ執筆している。タイトルからも推察されるように、ニートを批判/肯定するものではなく、ニートを諸悪の根源であるかのごとく取り扱う言説を批判するという、メタ言説的な主張となっている。詳しい感想はいずれレビューにも書くつもりだが、メディア・コミュニケーションを研究テーマとする者としては、おおいに共感できる内容ばかりであった。社会問題・労働問題においては、ニートという存在とおなじくケータイやインターネットもしばしば「主犯」として扱われているわけであり、その構図はほぼおなじと考えていいだろう。
 個人的に抵抗を覚えた箇所を挙げるなら、後藤さんが担当する第2部の終盤で開陳されている「自由な社会の構想」に見られる一種の楽観主義である。簡単にいえば、多様性を認め合う寛容な社会を是とする論議なのだが、「(略)自由な社会で強制されるのは、なじめない者の存在を許す我慢(寛容)だけです」(p.205)という主張は、オレには楽観主義としか思えない。存在を許すことが極めて苦痛で困難だからこそ、移民問題やアラブ vs イスラエルの対立が数千年の長きにわたって続いているのではないのか。
 それはさておき、本書を読んで再認識したことは次の2点である。

・ニートもフリーターもいない社会は閉塞状況に陥る。
・世に語り伝ふること、まことあいなきにや、をほくはみなそらごとなり。

 一寸先は闇という人生にあって、一度や二度は、根本的なキャリア・チェンジが求められる機会はあるはずだ。そういうとき、ニートを選択するしかないはずである。転換先のキャリアの専門性が高ければ高いほど、「働きながら力をつける」なんてことは容易にはできないはずだ。ニートにはキャリア・チェンジのバッファという側面があるわけで、それを排除してしまったら、じつに選択肢の少ない世の中になってしまうはずである。
 そして、ニートをめぐる言説がいかに歪められ、そこに多くのメディアや御用学者が荷担してきたかを知れば、わかりやすい主張というのは、それだけでウソかデタラメという証拠であることが実感できるはずだ。


2006年02月14日

 1993年7月に入ると、日本でフォーラムの常連となった者のうち何人かが留学で来仏したほか、91年からフランスに在住していた日本人企業駐在員が会議室に登場し、一気に在仏組がフランス語会議室で増加した。もともと在仏日本人の数自体は多かったので、パソコン通信の普及率が高まれば、フランスからアクセスする人が増えても不思議ではない。さらに、世界最大のパソコン通信事業者CompuServeのノードからNIFTY-Serveに接続できるようになった。Tympassだと接続に1分70円かかったところが、CompuServe経由だと40円である。けっして安くはないのだが、この違いはかなり大きい。接続方法もTympassより簡単だ。
 インターネットの常時接続が当たり前となったいま、通信コストのこのような問題は、なかなか理解できないかもしれない。しかも通信速度は以前として2400bpsが中心だったのだ。Bフレッツの100Mbpsと比べれば、じつに4万倍の違いである。しかし、技術的な差がこれほどあったにしても、当時のネットワーク上の「濃さ」は、けっして現在のblogに劣るものではない。結局、コミュニケーションそのものに対する需要さえあれば、利用者はその時点で利用可能な手段を駆使してコミュニケーションに努めるものなのだ。


 結局、「ゆとり教育」の転換は見送られたようである。
 報告書本体を見たわけではないので(中教審のwebではまだ公開されていなかった)、あくまでもこの報道からでしか推察できないのだが、よーするに、「ま、いろいろと問題があるんだろうけど、とりあえずさ、もうちょっとやってみようよ」という結論のようである。
 ただ、この主の結論、国の審議会のものとしてはめずらしくもなんともない。報告書にしたところで、結局は文部官僚の作文なのだろう。中教審初等教育分科会の委員名簿を見ると、野依良治やら増田明美やらが名を連ねていることがわかるが、この忙しい人たちが報告書を書いたとは到底思えない。おそらく、臨時委員のなかの一人か二人が事務局の文部官僚をペンをなめなめしたのだろう。で、多忙な委員たちの最大公約数的な意見集約をはかるべく、〈報告書文体〉「……という問題点が認められる。他方、……という状況も見られ、一概に……と断ずることは早計である。したがって、当面は……に配慮しつつ、なお慎重に状況変化の把握に努めることが必要であると考えられる」となったのだろうな。
 しかし、役人ののらりくらりの一方で、世の中は時々刻々と変化をしているわけだ。つくづく思うに、文部科学省という役所そのものが見放される日はそれほど遠くはないんじゃなかろうか。企業社会の方に、そんな「ゆとり」は残っていない。そもそも企業にとって、「学位」という文部科学省のお墨付きは、それほど価値あるものではない。フランスのgrandes ecoles制度に見られるように、教育を主幹する官庁以外が高等教育を企図したって、ちゃんと機能する仕組みはつくれるはずなのだ。
 大学改革、とりわけ実学教育に関しては、いろいろな議論がなされているし、現場でも模索が続いている。ただ、この点に関しては、教員間の世代ギャップがずいぶんと大きいような気がするのだ。率直にいって、アカデミズム一筋のジサマほど、企業現場でのスキルを舐めてかかっているように思う。「実学教育に熱心」=「資格取得に熱心」という短絡を起こしているんではないのか。
 しかしまあ、ハッキリと問題が顕在化しているのに、中央がのらりくらりしている状況って、幕末の幕府そのものじゃん。あたしゃシミジミ思いますよ。幕府崩壊は必然ではあったが、それは幕府固有の問題が原因なのではなく、組織自体の必然的な末路なんだ、と。


2006年02月13日

 Pantheon-SorbonneのDEA課程に1993年9月から登録できることになった。これで滞在期間を一年延ばすことができる。かりに帰国となっても会社に復職すれば食うには困らないとはいえ、せっかく一年間の滞在でフランスの生活にもなじんできたところ。まだ二年はなんとか踏みとどまりたいと思っていたので、登録が許可されてほっとしたものである。
 フランス語会議室のなかには、何人かフランス留学を計画している人がいた。そのうちの何人かが秋から実際に留学するようになれば、パリでいろいろな交流をする機会も持てるだろう。フランスに在住する人は万単位で存在するはずなのだが、あいにくとこの時点ではまだ、他にフランスから定期的なアクセスをする人に出会えていなかった。その点、すでにアクセスをする人がフランスに来れば、確実に交流の機会は増えるはずだし、電子会議室もいっそうにぎわうことになるだろう、と思った。滞在そして電子会議室の利用から一年が経過し、気分的になんとなく「先輩」という意識を持つようになった。


2006年02月12日

 1993年5月、フランス語会議室に登場したM村さんという人がフランスのInternetについて質問していた。M村さんは北海道の大学教員で、その年の秋からフランスに研究留学をする予定だった。すでにインターネット・メールなどを利用していたため、それをフランスでも利用できるのかどうかを知りたかったわけである。
 1993年の時点で日本の最もポピュラーな電子メールはインターネットではなく、NIFTY-ServeとPC-VANのメールであった。どちらの事業者も会員数は100万を越えていたし、メールに関しては相互乗り入れが図られていたので、実用性の点ではインターネット以上だったのである。
 一方、日本でもWide Projectという実験のもと、いくつかの研究所間でインターネットが用いられるようになっていた。そしてNIFTY-ServeでもWideとの共同実験を進めており、プロジェクト参加機関とのみ、インターネット・メールの交換ができるようになっていたのである。たしか当該機関数は13(!)であったと記憶している。
 インターネットのことは在職中にアメリカ人の同僚から聞いていたので、電子メール、telnet、ftpの仕組みについては知っていた。また、1988年にフランスのINRIAを訪問した際、交換した名刺にインターネット・メールのアドレスが入っており、それが何なのかを尋ねたことがある。とはいえ、わたし自身はインターネットを具体的に利用したことはなかった。ネットワークといえばパソコン通信が圧倒的にメジャーだったのである。


2006年02月11日

 パリの住民にはなったものの、行動半径はパリ市内とパリ近郊に限定されていた。最大の遠出が電車で一時間先のフォンテーヌブローである。東京に住む人が鎌倉よりも遠いところに行ったことがない、というのとおなじことだ。とはいえ、パリでの生活に対応するのが手一杯で、とてもどこかに旅行しようという気にはなれなかった。旅行ができればいいな、とは思っていたが。
 1993年4月のイースター休暇(vacances de Paque)に、友人Abdelがブルターニュ旅行に誘ってくれた。こちらにとっては渡りに船のような申し出である。彼の奥さんPatriciaがブルターニュ出身で、この休暇中に帰省したいというのだ。それに便乗する形である。我ら夫婦が泊まれる部屋も用意してくれるとか。
ブルターニュ地方は日本人にも人気のある観光地である。モン・サンミッシェル(正確にはノルマンディ地方に属する)など、おそらくはパリに次いで日本人の訪問が多い場所だと思う。干潮時に地続きとなる島であるが、神奈川県民のわたしにしてみれば「江ノ島のようなもの」で、それ自体はそれほどめずらしいものには感じられない。ただ、島の寺院はすばらしく、とくに上部の回廊は神秘的だった。
パリからブルターニュまでの移動にはレンタカーを用い、Patriciaが一人でずっと運転をしてくれた。高速道路の途中、サービスエリアに立ち寄ったが、どこの国でも大差のないこんな設備でも、初めての経験となるとけっこうドキドキするものだ。また、わたしはこれまでに何度か海外で運転した経験を持つが、セルフの給油だけはなんとか避けてきたのだが、今回の往復では抵抗なくできるようになった。それほど大げさなことではなかったのだが。
レンヌではAbdel、Patriciaの友人たちと時間を過ごした。Patriciaのお姉さん夫婦の家に泊めてもらった日もあった。Patriciaの両親も含め、会う人すべてが歓待すてくれたので、最初の「国内」旅行では期待以上に楽しい時間を過ごすことができた。
4月ともなると、日が長くなったのをハッキリと感じることができる。冬のヨーロッパを「越冬」するのは初めてだったが、暗くどんよりとした日々を過ごしたがために、4月の明るい日差しが心地よかった。


2006年02月10日

 3月というと、日本では大学の入試シーズンが終わり、合格者発表、そして下宿探しの時期である。学校歴が日本とは半年ズレているフランスの場合は、大学院進学の準備がだいたい3月ぐらいから具体化する。大学院には入試制度がないので、進学準備は履歴書送りでもあるのだ。
 まずは希望先を見つけなければいけない。フランスの大学院探しは指導教官探しとほぼイコールである。日本であれば、学校の「格」が進学先探しでは一つの要素となりうるが、フランスではそんなことが一切ない。もちろん地域によって人気のある大学は存在するが、それはむしろ地域自体の魅力といっていい。つまり、パリ第4大学が人気なのは、パリに住みたい地方の人が多いにすぎない、ということなのだ。
 このころわたしが第一希望に考えていたのはパリ第1大学(Pantheon-Sorbonne)である。後期に非常勤講師として授業を二ヶ月間担当したColette ROLLANDという教授の研究に興味を持ったのである。リアルタイムで進行する動的な現象を情報システム化するための概念モデルを提唱したもので、当時、ESSECの授業で習った静的なデータモデルを土台にした概念化手法よりも刺激的に思えたのだ。しかも、ROLLAND教授はDEA課程のプログラム責任者だったので、教授個人と交渉するだけですむ。この教授には真っ先に履歴書を送った。
 あらたな進学先が見つからないと、1993年8月いっぱいで日本に帰らねばならなくなる。それはそれでかまわないのだが、できれば三年はフランスに滞在したいと考えていたので、級友たちとも相談し、早めに準備をすることにしたわけである。
 フランスの大学院探しのノウハウなど、日本にはほとんどなかった。大学院留学者の多くは、日本での指導教員や先輩のツテをたどっているので、わたしのような徒手空拳での学校探しはきわめて例外的なのだ。そこで、フランスにいて級友たちに教えてもらいながら模索していった内容を、そのままほぼリアルタイムでNIFTY-Serveに「連載」したのであった。


2006年02月09日

 1993年、2月に入ると学校の後半に突入である。バレンタインデーのあたりに二週間の休暇があったので、それを利用して日本に一時帰国した。もちろん観光とか気分転換とかが目的ではない。日本にいる友人に頼み、いくつかの出版社を紹介してもらったのである。この時点ではまだ会社を休職中という身分であり、94年6月までは復職の権利を持ってはいたが、気持ちの上では休職期間満了とともに退職するのは既定路線であった。そうである以上、退職後の食い扶持について、そろそろ布石を打っておく必要があったのだ。
 最初から出版関係の仕事で食っていこう、と考えたわけではない。連絡を取った友人というのがいくつかの出版社とつきあいがあり、単行本や連載のかたちで評論を書かせてもらい、それだけでも十分に食っていけると話していたのだ。この友人は、その時点で休職中だった会社の一年先輩である。おなじ部署になったことはないが、お互いに残業が多く、しかも部署が隣だったので、アフター5の社内でしょっちゅう顔を合わせていたのだ。この会社は社員の2割ぐらいがやたら残業が多く、おなじフロア内の残業常連者のあいだには、一種の連帯感のようなものさえ芽生えることがあった。彼とは話があったのと、東京での住まいがすぐ近かったことから、在職中から親しくさせてもらっていた。
 わたしが会社を休職してまでフランスに留学しようと決めた過程において、じつは彼の存在は大きかったのである。彼も留学経験者であるが、わたしの休職以前に会社を退職していた。仕事がイヤになったとか、上司と折り合いが悪いとか、という理由で辞めたのではない。むしろ、仕事が好きで好きでたまらないので、もっといろいろな可能性を探るために、いったん会社を「卒業」したのである。若気の至りが許される年齢のうちに、いろいろと思い切ったことをやってみたい、とも語っていたと思う。彼の言動にはもとから共感することが多かった。こういう先人の姿を見て、わたし自身、「いつかやりたい」と思っていたことは、「いま」やらなければダメなのだ、と再認識したのだ。
 この一時帰国中に紹介してもらった出版社からは、さいわいにしていきなり連載を任されることになった。別の出版社では、単行本の企画を前向きに検討してもらえることになった。


2006年02月08日

 長期滞在開始後、最初の元旦は学校の同級生宅で迎えた。日本と違い、ヨーロッパでは元旦も祝日のひとつにすぎず、大晦日は平日なら店も平常営業、1月2日も同様なので、年末年始を休み慣れた日本人には、ちょっと違和感を覚えるところだ。ただ、新年を迎える瞬間はヨーロッパの人たちも盛大に祝う。巴里の住宅地でも、年越しの瞬間はあちこちでシャンパンの栓を抜いたり、窓を開け放って「おめでとう!」と絶叫する人もいる。
日本の大晦日の恒例TV番組がNHKの紅白歌合戦なら、フランスはキャバレー・クレイジーホースのヌードショーである。この番組を、友人Marie-Pierreの自宅でのんびり見ていた。彼女の家には剽軽者のThomasやモロッコ人Abdelたちも招かれていた。つくづく級友に恵まれたと思ったものである。
 じつは、巴里で新年を迎える8時間前に、もうひとつの年越しを経験していた。NIFTY-Serveにアクセスし、いくつかのフォーラムでチャットに参加していたのである。とりわけコミック・フォーラムは日頃からチャット参加者が多く、このときはピーク時に90人以上が「雑談」を繰り広げていた。新年の瞬間には、チャット参加者をリストアップするという「記念撮影」も行われた。
この日わたしは、コミック・フォーラムと外国語フォーラムのチャット・ルームとを何度も行き来した。他の人たちも似たようなもので、ルームを退出するとき、たいていの人は「ちょっと年始まわりに行ってきます」といったメッセージを残していった。チャットとはいっても、感覚的には宴席をハシゴするような気分が味わえたのである。
この年のことだったかどうかは失念したが、ある時、フランス、ドイツ、アメリカのメンバーがチャットで偶然居合わせたことがある。インターネットが普及した現在、こういうことはめずらしくもないが、1993年というインターネット普及以前の時代に、日本というローカルな地域の事業にすぎないNIFTY-Serveに世界各地の人間が「集まる」という現象は、ネットワークがもたらす不思議な感覚を実感させたものである。


2006年02月07日

 巴里生活半年足らずで二度目のクリスマスを迎えることとなった。この時期、街はイルミネーションに飾られ、じつに煌びやかな美しさを競っているのだが、生活者にとっては辛い季節でもある。なにせ北緯54度の高緯度地方、冬至近辺ともなると、太陽が南中しているときでさえ夕方のような感じである。いや、まだ太陽が出ている日はマシで、連日曇天ばかりなのだ。西風のおかげで緯度のわりに気温は低くないが、太陽光線を欠いた日々は、日本の太平洋側に住み続けた者にはつらい。
 なにがいちばん辛かったといえば、通学の際、夜明け前に家を出ねばならないことだ。朝7時45分ごろは、まだまだ真っ暗なのである。そんななかを、ネイティブたちはごく普通に移動しているのだが、こちらの体内時計はまだ睡眠中の時間帯を指している。元来が夜型のわたしにとって、これは本当にストレスが募った。
 Chatelet-Les HallesでRER A線に乗り換え、Nantereの先で地上に出るのだが、そのころにようやく日の出である。列車の北方向を窓越しに見ると、La Defanceの新凱旋門あたりから日が昇るのが見えたものだ。
 いまにして思うと、わたしは6月末に来仏したので、夏の心地よさを知っているだけまだマシだったかもしれない。11月に来仏したカミさんにとっては、着いたそのときから連日曇天続きだし、たまに晴れても高くのぼらない太陽をほんの束の間接することができただけだったのだから、気分的にキツかったかもしれない。
 そうはいっても、この時期にはこの時期だけしか楽しめないことがいくらでもある。fruits de mersが味わえる季節だ。生牡蠣はもちろんのこと、生ウニまで扱う店があった。市場に行けば新鮮な魚介類がいくらでも手に入る。ワインも安い。チーズも安い。いろいろな食材が楽しめるのは、冬の特権といっていい。


2006年02月06日

 1992年も11月に入り、ようやくカミさんが来仏した。ビザの関係で、わたしに遅れること約4ヶ月半である。フランスは留学生の受け入れには寛大なので、留学生ビザは比較的簡単に取得できる。ところが家族ビザとなると、不法就労対策のために手続きがはるかに面倒なのである。とりわけ学生が家族を呼び寄せるには、その学生本人が滞在許可証を保持していることが前提となるのだ。したがって、カミさんの分の家族ビザを申請できる状態になったのは、わたしが滞在許可を得た7月末なのである。そして申請から実際にビザが下りるまでには通常3ヶ月かかるため、11月に入ってようやく渡仏できるようになった、というわけである。
 異国で生活をはじめたわたしもたいへんだったが、日本に残ったカミさんも相当な激務に追われていたらしい。なにしろわたしは出発当日の午前5時まで仕事をしていた。成田に向かうべく家を出たのは午前7時前である。ほぼ完徹の状態だったのだ。土壇場まで仕事に追われていたため、引っ越しの手伝いなどできなかった。したがって、わたしがフランスに発ったあとは、すべてカミさん一人が荷造りをしなければならなかったのだ。その他、役所への届けでその他もろもろの事務手続き一切合切を、結局はカミさんに押しつけた形となってしまった。
 それはさておき、11月に入ってようやく、4ヶ月半ぶりに夫婦そろって生活できるようになった。住環境はすばらしいし、アパートも快適だったので、異国での生活は東京時代よりもむしろ快適な面も多々あった。なにより、多忙なサラリーマン時代は生活はほとんどすれ違いだったが、巴里では二人で共有する時間が格段に長くなった。ただ、ダンナの方は年がら年中パソコンにしがみついていたので、それはそれで家庭内別離を生み出してしまったかもしれない。


2006年02月05日

 1992年も10月に入ってからは、なにもかにもが変わった気がした。フランスで生活するようになってから三ヶ月が経過し、生活環境が落ち着いた。片道1時間の通学にも慣れ、生活リズムが整ってきた。そしてなによりも、ネイティブ・スピードの会話にようやく耳が慣れてきたのである。もともとわたしはバカ話が好きなので、相手のしゃべっていることさえわかれば、こちらかも突っ込みを入れられる。周囲とコミュニケーションが円滑にとれるようになり、毎日があらたな発見の連続となった。その発見を電子会議室で披露することで、コミュニケーションの楽しさは二重になったのである。
 フランスに留学している人の多くは文学や自然科学の分野を専攻していると思う。その点、わたしが所属した大学院は、フランスでこそ有名だが、経済経営分野であるため、日本ではそれほど知名度が高いわけではない。なおかつわたしの専攻はITマネージメントであるから、なおのこと日本とは縁が薄い。そんなことが逆に、多くの日本人にとってなじみのない用語や発想を知る機会をえたわけである。10月には情報処理概念の講義があったので、フランス語のIT用語を電子会議室で披露した。


2006年02月04日

 1992年9月になると、ポンピドー・センター近くのステュディオから13区のアパートに引っ越し、これでほぼ巴里での生活環境が整ったことになる。このアパート自体は7月初めの段階で見つけたのだが、先住者が8月いっぱいまで別の人に又貸ししていたため、こちらに越せるのが9月になってからとなったのだ。まあ、それだけここが気に入ったので、わざわざ別のところに短期間住んだわけだわけだ。
 学校も含めた生活には、まだまだ慣れたとは到底いえない。なにしろ周囲の会話スピードについていけない。あとから振り返るに、この時期が精神的にいちばんキツかったように思える。アパートに帰っても一人だけ。学校に行っても会話がはずむわけでもない。授業はそれなりにしんどい。泣きたくなる、とまでは言わないが、ハッキリと食が細くなった。事実、巴里に着いたときと比べて体重が8キロ近く減っていた。
 そうしたなかで、8月の一時帰国によって外国語フォーラムのコアメンバーたちと顔見知りになり、電子会議室でのコミュニケーションがいっそう心和むものとなった。さらに、フォーラムの最古参メンバーのM田さんが9月に休暇を利用して巴里を旅行することとなった。その人とは一時帰国のときにも顔を合わせ、その席で巴里旅行の話しを聞いたので、こちらからぜひ宿泊してくださいと持ちかけたのである。9月のもっともしんどい時期に顔見知りの人と日本語で会話をできたことが、結果的にいちばんきつい時期をしのぐ一助となったことは間違いない。
 到着の前には、いくつかの品物の輸送を電子メールで頼んだ。わたしの巴里滞在は合計7年に及んだのだが、その間、M田さんが巴里を訪れなかった年はないし、複数回の訪問があった年のある。訪問のたびにいろいろな品物を持ってきたもらったわけだが、いつしかそれを「救援物資」と呼ぶようになっていた。


2006年02月03日

 NIFTY-Serve外国語フォーラムのなかには、すでに1989年の時点でジュネーブから接続に成功していた人がいた。しかし、その時点ではまだ本格的な国際データ通信で日本語を扱うことができなかった制約があったため、海外に長期滞在し、なおかつ日本のパソコン通信にも日常的にアクセスする人の数は、米国以外ではきわめて少なかったはずである。その例外的な数のなかにわたしが含まれていたわけで、巴里から外国語フォーラムとのコミュニケーションは、わたしだけではなく当時のフォーラム会員にとっても、一種の実験的な出来事であったといっていい。
 会員数が全体では100万人を超えていたとはいえ、外国語フォーラムを日常的に利用する人の数は数百人レベル、そのなかでフランス語会議室を積極的に利用していた人となると、おそらくは常時数十人といったところだろう。その後のインターネットの巨大掲示板に比べれば、きわめて限定的な「仲間内」の世界であったといっていいと思う。ゆえに、電子会議室でのメッセージは、10人規模のメーリングリストにも似た私的な雰囲気を濃厚に持ち合わせている。
 1992年も8月に入ると、わたしの通学先も語学学校から大学院のサマースクールに替わる。日常的に交流する相手は、おなじ外国人からフランス人やフランス語圏の人間たちとなった。そのような状況で、外国語フォーラムで出るフランス語やフランス文化に関する疑問や質問をわたしが友人に尋ね、それをフォーラムで発表するといったコミュニケーションが活発になった。
 わたし自身、異文化圏での発見を伝えるのが楽しかったし、それに対する反応がダイレクトにわかったので、ますます多くの事を知り、そして伝えようと思った。それだけでなく、こちらがつっかえたことを電子会議室で伝えると、多くの人から助言や励ましをもらうことができた。実際、サマースクールの法学の授業では、辞書にも載っていない専門用語が多々使われていたが、その意味するところを教えてくれたのは当時のフランス語会議室のメンバーだった。
 わたしは巴里において日本人コミュニティに浸るということがなかった。というか、企業駐在員でもなく、しかも教授や先輩のつながりで訪れた留学生でもないため、巴里の日本人コミュニティとの接点がなかったのだ。それでも孤独に陥らずにすんだのは、通信ネットワークを用いたコミュニケーションのおかげである。
 8月には所用で日本に一週間ほど一時帰国することとなった。その折りに外国語フォーラムの常連メンバーたちと会う機会を持つことができた。


2006年02月02日

 巴里に着いたのは1992年6月25日だった。最初の一週間はOdeonの近くにあるホテルに滞在し、その間にアパートを探すことにしていたのである。留学先の授業開始は8月中旬、それまではアリアンス・フランセーズという語学学校に通うことにしていた。
 着いた三日後だったと思う。ホテル近くの公衆電話に携帯用カプラを介してノートブックPCをつなぎ、Tympassのパリ・ノードにアクセスしてNIFTY-Serveに接続した。電子メールや電子会議室のメッセージを落とすのに15分ほどかかったが、その間、こちらは通話をするでもなく電話ボックス内にいたので、何人かの人から「早く出ろ!」とプレッシャーをかけられた。こちらは電話に接続したPCを指さしたが、先方には理解されなかった。
 そんななか、ただ一人だけ、ニヤニヤ笑いながら、電話ボックスの外から名刺を差し出す人がいた。アメリカ人の観光客で、彼はおそらくわたしのやっていることを理解し、「パリでもこんなことをする者が現れたのか」などと思ったのだろう。逆にいえば、いまでは普通の光景であるモバイル・ネットは、1992年当時はほとんどの人にとって怪訝な行動だったのである。
 たった一週間のホテル滞在期間中に住み処が見つかる保証はなく、最初の三日間は不安ばかりが募った。ホテル内の電話経由ではTympassにはうまくつながらず、ひたすらストレスの募る日々だった。しかし、運良くポンピドー・センター近くのステュディオを二ヶ月間借りることができ、とりあえずは滞在できる場所ができた。そちらに移動してからは、電話回線からモデムを使ってTympass/NIFTY-Serveに問題なくアクセスできるようになった。
 巴里には知り合いがほとんどなく、妻はビザの関係で10月にならないと来仏できないため、心の底から「会話」に飢えていた。NIFTY-Serve外国語フォーラムのおかげで、この飢餓感がどれほど癒されたことか。ネットワークへのアクセス環境が整ってからは、次々とメッセージを書き始めたものである。
 ちなみに、当時のTympass接続料金は1分あたり70円である。そのほかにNIFTY-Serveの課金が1分10円、さらに電話代が別途必要で、ネットワークに1分間接続するだけでも100円近いコストがかかったのである。日々のアクセスはせいぜい5分程度だったが、それだけでも月間の通信費は1.5万円前後もしたのだ。


 今日、またまたエピ3をDVDで観てしまった。さすがに最初から最後まで通してみるようなことはしなくなったが、とりあえずこれで15回ぐらい観たことになるのかな。仕事の合間に、ついついね(笑)。で、やっぱりというか当然というか、ダース・ベイダーがルークごときにあっさりと倒される展開が納得できなくなるわけですよ。
 最初のうちはあまり気にしなかったのだけど、エピ3ラストのオビ=ワン vs アナキンの対決を繰り返し観ているうちに、やっぱねー、それほど修行を積んだわけでもないルークに百戦錬磨のベイダーを倒せるわけがない、と思わないではいられんのです。だって、あのヨーダが倒せなかったパルパティーンをして、「Darth Vader will be more powerful than either of us.」とまで言わしめたわけなんですからね。アナキンの戦闘能力は群を抜いていたわけですよ。
 素質という点でも、ミディ=クロリアンの化身とまでいわれるアナキンと、パドメという人間の血が混ざったルークとでは、濃さが違う。ベイダーの戦闘能力低下要因といえば、せいぜい四肢がサイボーグ状態になったことぐらいだけど、ルークの右手の動きを見れば、あの世界のバイオニクスは生身の身体と大差ないレベルだってわかる。
 んじゃ、ルークはいつどれだけ修行したんかいな? エピ4ではファルコン号の中でちょこっと手ほどきを受けただけ。エピ4・エピ5の間は不明だが、氷の惑星フォスでの体たらくからすれば、たぶん霊体オビ=ワンにちょこっとアドバイスを受けながら自習しただけだろう。結局、本格的な修行はエピ5でヨーダの弟子となったときにやっただけだが、これとて中断している。エピ5・エピ6間は何年も経過しているわけじゃない。これでベイダーに勝つってんだから、ヨーダは「短期集中Jedi養成講座」を実施したってことかいな(笑)。
 んー、やっぱエピ4〜6はリメイクしてほしい。クワイ=ガンやウィンドゥ、キ=アディ=ムンディなどのジェダイ・マスターの霊体を総動員してルークをしごけ(笑)。


2006年02月01日

 1992年当時、一般個人がパソコンを使ったコミュニケーションを楽しもうと思ったら、まだパソコン通信しかなかった。もちろんインターネットはすでに存在していたが、それは一部の研究者が利用する公的なネットワークにすぎず、商用サービスは(少なくとも日本では)始まっていなかったのだ。パソコン通信にしたところで、けっして誰もが手軽に楽しめる、という状況ではなかった。通信に必要なモデムは高価で、しかも2400bpsのスピードしかなかった。この時期、電子メールを使っているといっても、ほとんどの人には「?」だったのである。
 1992年当時の国内最大手のパソコン通信事業者はNIFTY-Serveであった。会員数ではNECのPC-VANがうわまわっていたが、サービスの充実ぶり、積極的な利用者数はNIFTY-Serveがうわまわっていたと考えられる。わたしは当初、米国のCompuServeを利用したいと思い、会社に申請してアカウントを申し込んだ。そのときの代理店がニフティ社であり、CompuServeのIDのオマケとしてNIFTY-ServeのIDも付いてきたのである。しかし、あくまでも利用目的はCompuServeを利用してオンライン・データベースにアクセスすることだった。たしか1988年のことだったと記憶している。
 その後、1991年ごろから仕事の合間にNIFTY-Serveのいくつかの「フォーラム」を覗くようになった。フォーラムとは、一つのテーマに沿って設定された電子会議室の集合のようなものである。91年の時点でNIFTY-Serveの会員数は100万人程度、参加者の多いフォーラムの電子会議室では、かなり活発なコミュニケーションがかわされ、いわゆる「オフ」もしばしば開催されていた。
 わたしが最初に参加したのは「コミック・フォーラム」であった。1991年の年末、フランスの大学院への登録許可が降り、翌92年の夏からパリで暮らすことが決定してからは、フランスやフランス語の情報を収集するため、当時の「外国語フォーラム」に参加するようになったのである。
 いまでは考えられないことだが、91〜92年当時は国際データ通信への規制は厳しく、海外からNIFTY-Serveにアクセスするのは相当困難なことだった。しかし、当時の外国語フォーラムのメンバーの一人より、Tymepassという国際データ通信サービス事業者が「実験的」にフランスを含む海外からNIFTY-Serveなどに接続するサービスを行っていることを教えてもらった。そのおかげで、わたしはパリで暮らすようになってからも、日本の人たちと交流を続けることができたのである。



Copyright (C) Masayuki ESHITA