とりあえず、こんなヤツである
40歳を過ぎてなおロン毛である。この絵は漫画家の水樹和佳子さんに描いてもらったもの。
もともとはオフロードを走るのが好きだったのだが、20世紀最後の年にホンダBeatを買って以来、多少、嗜好がかわった。いまでも林道を走るのは好きだが、オープンエアで夜の首都高を走るのもイイものだと思っている。
根っからの出不精で、外で運動することなんぞは嫌いなのだが、なぜか小学生のころからローラースケートだけは好きである。パリ在住中(1992〜1999年)はpari-rollerに参加し、数千人(いまでは二万人以上)のスケーター集団の一員として金曜夜中のパリを滑走していた。

これまでに発表した単行本、訳書、雑誌寄稿、論文の一覧です。雑誌原稿は一部を除き*ここ*で公開しています。

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  • 1959年、横浜で生まれる。さそり座のオトコである。小学校1年の3学期に転校したのだが、それまで住んでいた家は二軒屋で、隣に住んでいたおなじ年の女の子とは、物心つくまえから毎日一緒に遊んだり、銭湯に一緒に行ったりした。引っ越し当日、出発寸前までその子と遊んでいたのだが、最後にささいなことから大げんかとなった。彼女と再会することになったのは、これから46年後のことだった。
  • 引越後もあいかわらず毎日遊んでばかりいて、とくに小学校3年のときはローラーゲームがブームになったこともあり、サンダル式のローラースケートで近所のガキ集団とともにころげまわる日々を過ごす。小学校4年のときにおなじ町内の別の家に引っ越し、遊び相手が小学校の同級生に替わる。いちばん仲の良かった同級生が中学受験のため6年のときから進学塾に通うようになり、それにつられて夏季講習から一緒に通うようになった。あとから考えて見ると、それまで中学受験など考えていなかったのだから、友人関係ひとつで人生の方向が微妙に変化する最初の経験となった。
  • 72年4月〜78年3月、オフコースの小田・鈴木コンビが卒業した中学・高校に通う。元駿台名物講師の長岡亮介氏、小説家のたくきよしみつ氏や文化社会学者の伊奈正人氏、栃木県警本部長の石川正一郎氏は先輩である。
  • 78年3月、旧制度最後の入試のこの年、京大理学部にフラれる。合格ラインにあと2点足りなかったことが後に判明(試験は900点満点)。あまりの悔しさに、二度と京大は受験しないことを決意する。
  • 78年4月〜79年3月、神田駿河台某所に通う。
  • 79年4月〜81年3月、東京大学教養学部理科I類に在籍。竹内均、広松渉の授業を選択しながら出席しなかったのが悔やまれる。木村尚三郎の最後の年でもあったが、登録しなかった。このころはまだ舛添要一もいたはずだが、話題にあがることはなかった。小田島雄志の授業はどえらくおもしろかった。第二外国語のフランス語で動詞avoirの活用を教えてくれたのは芳賀徹だった。小林善彦のフランス語の授業では、「ぼくは試験で不可はつけません」という宣言に感動したものである。サークルは旅行研究会というところに所属する。当時のOB名簿のなかに現職の県知事が含まれているのをみて、ああ、やっぱトーダイなのね、と思ったものだ(ちなみにその人は武村正義)。考えてみれば、駒場時代はほとんど学生会館に入り浸りだった。
  • 81年4月〜83年3月、東京大学理学部数学科に在籍。落第せずに卒業できたのは奇跡としか思えない。当時のテキストを読み返しても、もはやほとんど解読できないのが悲しい。それでも古田幹雄という「本物の天才」を目の当たりにできたのは幸せな経験であった。4年のときのセミナー担当は岩堀長慶教授だが、このひとはCGオタクで、Apple II でグラフィックスをこさえては学生に見せびらかすのが好きな人だった。
  • 82年の秋、同級生の塚田春雄(彼はその後渡米し、彼の地で29歳で助教授になった。こいつもバケモンみたいな天才だった)から、NEC PC8001を売ってもらった。これがパソコン人生のスタートである。
  • 83年3月末日の卒業式をもって純粋数学と縁が切れる。当時の卒業式というか学位授与式は学科単位でおこなわれた。多くが普段着という式典らしからぬ雰囲気のなか、小谷元子の着物姿がやけに印象に残った。後に彼女が猿橋賞を受賞したとき、当時の姿を一瞬思い出したものである。卒業式後、赤門前で数人の同窓生とともにお約束のように記念写真を撮ったが、一人腕立て伏せの姿で写ったのが、後に「分数の計算ができない経済学部生」の問題提起で有名になった戸瀬信之だった。

  • 83年4月、株式会社三菱総合研究所でテクノエコノミストとして活動を始める……といっても、最初の3年ほどは、やたらいろいろな仕事をした。84年にはテレトピア関係の調査にたずさわり、「ニューメディア・ブーム」の一端を当事者として経験したものだ。その後、繰り返し発生した情報・通信関係のブームで、なんどdeja-vuを経験したことか。
  • 86年5月、ニューヨークにて National Online Conferenceを見物する。三菱商事の現地駐在員の人に、目の前で The Sourceのデモを見せてもらったのが、はじめて見るパソコン通信であった。IBM PC本体にモデムが内蔵されていたのに驚く。このころ、ニッポンでは音響カプラが普通だった。
  • 87年7月(だったと思う)、会社のアカウントで CompuServe に入会する。このときオマケで NIFTY-Serve のIDがくっついてきた。VENUS-P ではじめて CompuServe に接続したとき、BBSでゲイの「愛人求む」という掲示にアメリカを感じたものである。
  • 91年春頃から、NIFTY-Serveのフォーラムをときおりのぞくようになる。会社の Macから接続した。
  • 92年2月ごろ、コミックフォーラム(FCOMIC)のオフに参加。これがオフ初体験である。当時は一日に何度もチャットをしたものだが、そのときの常連メンバーに、当時のコミケ事務局を仕切っていた故・イワエモンがいたのだった。
  • 92年4月ごろ、外国語フォーラム(FL)に常駐するようになる。

  • 92年6月末日、会社を休職してフランスに渡る。知り合い皆無のなか、住み処を探すのは何とも心細い作業だった。なにしろ二ヶ月で10キロ体重が落ちた。日に日にお腹のまわりが緩くなっていくのがわかったものである。
  • 92年7月、パリからF1フランスGPの速報を NIFTY-ServeのFMOTOR4に掲載したことがきっかけで、すがやみつるさんと知り合う。その一週間後、イギリスに行く途中パリに立ち寄ったすがやさんとパリのホテルで会う。
  • 92年8月、Ecole Superieure des Sciences Economiques et Commerciales(ESSEC)の専門職大学院にて情報マネージメント課程を選択。サマースクールでは、研究科長の指示により会計学と民法を選択させられる。このとき知り合ったモロッコ人の友人とはいまでも親しくしている。
  • 92年11月、外国語フォーラムのスタッフになる。
  • 93年2月、日本に一時帰国。友人・丸楠恭一氏に出版社をいくつか紹介してもらう。このころから、退職後の暮らし方を模索し始めた。
  • 93年3月、月刊誌『国会月報』(新日本法規出版)で連載を始める。雑誌に連載ページを持つのはこれが初めてである。
  • 93年5月、本と雑誌フォーラム(FBOOK)に常駐するようになる。
  • 93年10月、日本に一時帰国。当時、FBOOKで小説工房を主宰していた水城雄さんのところに取材で訪れる。
  • 93年10月、ESSECに提出する論文はとりあえず日本からファックスで送り、暫定版のまま口頭試問を受ける。日本帰国中にフランス語力はボロボロになっていたが、寛大な研究科長のおかげでなんとか通過する。ちなみにプレゼンではPowerPointの使用が推奨されていたが、Mac野郎の意地があったので、Aldus Persuasionを使った。

  • 93年10月、Universite de Paris - Pantheon-Sorbonne(パリ第1大学)の情報科学・数学・統計学科のDEA過程(いうなれば前期博士過程)を選択。おもにやったのはデータベース工学で、リレーショナル・モデル、オブジェクト・モデルをたたき込まれた。30過ぎのおっさんにはけっこうきつかったが、同級生のベトナム人学生カン(こいつも天才だった)に助けられた。
  • 93年11月、イギリスからやってきた小杉のおいちゃんと運命的な出会いを果たす。数週間後、「欧羅巴根無草倶楽部」という宴会シンジケートを設立する。
  • 94年1月、ニフティの発行する月刊誌『Online Today Japan』に連載ページを持つ。
  • 94年5月、はじめての単著『ネットワーク社会』が丸善ライブラリーより刊行される。うれしはずかし初体験である。
  • 94年7月、学研の月刊誌『ネットピア』で連載を始める。
  • 94年7月、大学院の最後のゼミと試験を青息吐息でクリアする。いやー、しんどかった。日本語でもうまく説明できないことをやるんだから。
  • 94年8月、日本に一時帰国。師匠とあがめる武井一巳さんから、メディア・テック出版を紹介してもらう。ライター仲間の西東万里からも出版社をいろいろと紹介してもらう。
  • 94年8月、三菱総研を正式に退職する。
  • 94年8月、京都で外国語フォーラム関係者とオフをする。翌日は福井に移動して、水城さんたちと本と雑誌フォーラム関係者とオフをする。滞在最後の日には、小説家の大原まり子さん、漫画家の水樹和佳さんたちとオフをする。両手両足に花状態でド緊張しそうだったので、すがやみつるさんに助っ人に来てもらう。結局、日本滞在の一ヶ月間で20回のオフに参加した。

  • 94年10月、Universite de Paris - Sorbonne Nouvelle(パリ第3大学)の情報コミュニケーション学研究科(DESTEC:Departement des sciences d'information et de communication)のDEA過程を選択。女子学生比率が8割を越えていた。こんな経験は生まれて初めてなので、最初にうちはけっこう緊張したぞ。授業の内容はメディア史、社会心理学、映画学、言語学、認識学であったが、言語学はまったくチンプンカンプンであった。日本語で授業をやられてもわからんかったに違いない。
  • 95年2月、パリにて長女が誕生する。原稿の締切当日だったので分娩室まで仕事を持参したら、さすがにカミさんの顰蹙を買った。いまだに文句を言われる。
  • 95年2月、隔月誌『EQ』(光文社)にて連載を開始する。
  • 95年3月、2冊目の単著『緊急指令! 電子メールを活用せよ』を技術評論社から刊行する。もともとは別の企画を立てたのだが、そちらはボツになり、かわって電子メール本の依頼を受けたのであった。
  • 95年6月、3冊目の単行本『通信ネットワーク快適生活術』を西東万里との共著としてメディア・テック出版から刊行する。
  • 95年6月、このころからライター仕事が忙しくなり、学校の方はほとんど開店休業状態となった。また、授業の方も理数系だった Panthon-Sorbonne と違い、もろ文学系の内容だったので、これは正直いってついていけなかった。

  • 95年8月、4冊目の単行本『パソコン通信の仕組み』を西巻裕さんとの共著として技術評論社から刊行する。これが年末までに一気に3刷までいった。
  • 95年8月、NIFTY-Serve 本と雑誌フォーラム(FBOOK)のマネージャーを、小説家の水城雄さんより受け継ぐ。
  • 95年10月25日、「I shall return.」のセリフを残して巴里を発つ。
  • 95年10月、日本で執筆活動をはじめる。
  • 96年2月、単著では3冊目の『デジタルカメラお気楽活用ガイド』をメディア・テック出版から刊行する。その後めでたく増刷がかかった。
  • 96年4月17日、小説家の谷甲州さんの仕事場にお邪魔しているとき、谷さんの新田次郎記念文学賞の受賞を知らせる電話が飛び込んでくる。受賞の瞬間を目の当たりにして感動するワタシであった。
  • 96年5月、フランス大使館より自由職業者のビザがおりる。
  • 96年6月、なんとか NIFTY Manager本を脱稿してメディア・テック出版に納品する。
  • 96年7月14日、巴里に帰還する。
  • 96年12月 FBOOK のメンバーが執筆する本(金井くん執筆『QV-10aを仕事に・遊びに生かす本』、DSWメンバー執筆『G.Grew3お楽しみグラフィックス作成術』)の監修を手伝う。
  • 97年2月、KKベストセラーズより二冊同時刊行(『間違いだらけのパソコンソフト選び Macintosh編』、『間違いだらけのパソコンソフト選び Windows編』)
  • 97年4月、所用で日本に出張。担当編集の今泉さんと三泊四日にわたって関西・中京に取材旅行。京都の某古書店でいちどに305冊のマンガ古本を買ったのは、このときのことである。三重県の国道23号線沿いにあるマンヨー系列店でも買いあさったため、この出張の間に購入したマンガの数は700冊を超えてしまった。
  • 97年6月、メディア・テックより『ColorIt!で始めるオトナの「お絵かき」テクニカル・ブック』刊行。サンプル画像をもらった業者は、じつは密かに定点観測していた風俗情報Webの制作元だった。
  • 97年9月、夏目書房より『まんがまっぷ』刊行。原稿は5月にあがっていたのだが、版元の都合で出版がこの時期にずれ込んだ。この本で関西方面の原稿を依頼していた大学院生と、十数年後、某学会で再会したのだった。
  • 97年12月、リブロスより処女翻訳『お尻のエスプリ』刊行。共訳者は山本淑子さん。
  • 98年9月、ダイヤモンド社より『マンガ古本雑学ノート』刊行する。発売から一週間で増刷が決定となった。
  • 99年2月、pari-rollerに参加するも、あまりにも速いペースについていけず、道半ばにしてリタイヤする。それでも後日、インラインスケートを購入し、再起を期する。
  • 99年3月、アパートの大家さんから、娘が巴里に帰ってくるので5月末ごろにアパートを明け渡してほしい、ついては別のアパートを紹介したいのだが、との連絡が入る。じつはこちらもぼちぼち帰国しようかと思い始めたところだった。数年間、巴里で交流のあった人たちの帰国が相次いだので、なんとなく里心がついたのである。大家さんとの相談の結果、6月いっぱいで明け渡すこととなった。
  • 99年5月、Paris-Versaille間のローラーマラソンに参加する。ベルサイユを訪れる日本人観光客は無数にいるが、ローラースケートで巴里から訪れた日本人など、ほとんどおるまいて。
  • 99年6月、あれほど苦労したpari-roller、もはや堂々の先頭グループで疾走である。巴里を去るにあたり、このシアワセなイベントに参加できなくなることが最も悲しかった。
  • 99年7月、日本から両親が遊びに来る。欧羅巴在住中の最後の家族旅行を、ベルギー&ルクセンブルクのドライブで過ごす。ベルギー〜ルクセンブルク国境を通過中に日本からの電話が携帯に入り、さすがにちょっとビビった。

  • 99年8月、巴里からの荷物も届き、娘の幼稚園の手配もすみ、日本での生活が再開する。住まいは95年10月の一時帰国時のところとおなじところ。
  • 00年1月、中公から『ネットワーク社会の深層構造』が刊行される。中公新書から本を出すというのは一つの目標でもあったので、ちょっとした達成感があった。巴里最後の夏は、この本の校正にかかりっきりだった。近所のカフェBrasserie Port Royalが完全に仕事場と化した。校正とはいえ全体の半分近くをリライトしてしまい、編集さんを困惑させた。
  • 00年2月、別冊宝島「お宝コミックランキング」が発行される。企画にGOが出たのが12月半ば。作業期間が正味1.5ヶ月という超ハードな進行だった。最後の二週間はほとんど芸能人なみの生活だったが、取材をつうじて一冊百万円以上の稀覯本の書影を大量に入手できた。
  • 00年8月、十何年かぶりで面接を経験する。
  • 00年12月、別冊宝島から『「IT」の死角』を発行。このムックでも原稿を書いてもらった友人が突然亡くなりショックを受ける。
  • 01年2月、財団法人電気通信普及財団より、『ネットワーク社会の深層構造』に対して第16回電気通信普及財団賞(テレコム社会科学賞)が授与されるとの連絡が入った。賞金で引っ越し費用がまかなえる、というのが真っ先に浮かんだ感想だった。
  • 01年3月、横浜に転居する。むかーし住み続けていたところの近くだが、残念ながら小学校当時の同窓生はほとんど転居してしまっていた。それはそれで仕方のないことだが。

  • 01年4月、大学教員になったものの、大学で授業などやったことがない。事務的な仕事の流れにしても、授業の進め方にしても、すべてが手探りである。でも、フリーで食っていたときに比べれば、いろいろなサポートがある分、困ることはないが。
  • 01年8月、二年ぶりにフランスを訪れる。ノルマンディ地方を旅行し、怪盗ルパンに出てくる「空洞の針」が実在することを、いまさらながら知る。
  • 02年9月、旅研OBの増田さんより、OB会の招集がかかる。以来、80年代卒のOBどうしで宴会をする機会が増える。
  • 03年2月、フランス人のアニメ監督ヴィオレーヌ・ドナデロを京都で紹介される。3月には彼女が友人と上京したので、たまたま当時仕事関係でツテがあった楳図かずお・松本零士・すがやみつるの3氏とのインタビューをアレンジする。各回とも本当ならフランス大使館が通訳を手配してくれるはずだったのがドタキャンとなり、結局、三回とも通訳を引き受けることになった。語学力がボロボロになっている事態を痛感した。
  • 04年12月、三年ぶりでフランスを訪れる。パリでは友人宅に滞在させてもらう。滞在中、ヤフオクで超掘り出し物(細川知栄子『しあわせ』KCフレンドシリーズ全5巻揃いビニカバ付)に遭遇し、運良く落札できた。
  • 05年6月、情報通信学会の大会が地元横浜で開かれる。が、初日は「スター・ウォーズ エピソード3」の先々行ロードショーと重なってしまったが、迷うことなくエピ3を観に行く。
  • 06年7月、ちょっとしたキッカケから古いMacintoshを買い漁るようになる。ジャンク品を復活させるカイカンにはまってしまい、気がついたら、初代128k MacからQuadra 800に至るまで、68k Mac/PowerBookのほぼ全機種をそろえてしまった。システムも1.0から7.6までをすべて動作可能にした。
  • 07年4月、本務校の所属学部が変更になり、研究室も引越となる。いままでが人文学部で、移動先が社会学部。分野的には大転換だが、「文学部社会学科」が普通に存在する国なので、その意味では不思議ではない。
  • 07年7月、あたらしい研究室の「改装」が終わる。前々から、研究室がかわったら「和風」にしようと決めていた。こんどは掘り炬燵仕様である。06年夏に買い込んだ大量のビンテージMacを収納するのに、どうしても床下収納を制作する必要があったのである。5月に木材を発注し、毎週、火・水に作業を少しずつ進め、前期の終了間際になんとか完成したのであった。
  • 08年4月、本務校がかわる。あたらしい職場は神田駿河台に校舎と研究室があるのだが、なにしろ聖地・神保町の間近である。ときめかずにいられようか。
  • 08年4月、駿河台の研究室も、当然ながら和風掘り炬燵仕様である。前研究室の資材を解体・再加工して駿河台に搬入し、組立なおした。資材の輸送は前の職場の同僚が手伝ってくれた。大感謝。新研究室の改装は、なんと三日で終わった。
  • 09年3月、年度始めに立てた「メタボの誓い」、すなわち、一年間別の店で昼食を取るという誓いを完遂す。目標の100軒には届かなかったが92軒を開拓した。
  • ……で、とりあえずは今日に至っている。


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主著
2007年『リンク格差社会』
2007年『ビンテージMacintosh』
2006年『マンガ古雑誌マニア』
2005年『メディアの近代史』(共訳)
2004年『監視カメラ社会』
2003年『レポートの作り方』
2002年『マンガ古書マニア』
2000年『ネットワーク社会の深層構造』
1998年『マンガ古本雑学ノート』
1997年『間違いだらけのパソコンソフト選び Mac編』
1996年『デジタル・カメラお気楽活用ガイド』
1995年『緊急指令!電子メールを活用せよ』
1994年『ネットワーク社会』
略 歴
1959.10横浜生まれ
1972.4私立聖光学院中学校入学
1979.4東京大学教養学部理1入学
1983.3東京大学理学部数学科卒業
1983.4三菱総合研究所入社
1992.6同社を休職し渡仏
1992.8ESSEC MS-MSID課程登録
1993.9同課程修了
1993.10Pantheon-Sorbonne DEA登録
1993.9同課程中退
1994.10Sorbonne Nouvelle DEA登録
1993.7同課程中退
1999.7日本に帰国
2001.3第16回テレコム社会科学賞受賞
2001.4目白大学人文学部助教授
2007.4目白大学社会学部教授
2008.4明治大学情コミ学部准教授
2011.4明治大学情コミ学部教授