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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。

1997年10月24日

 ガロアとアーベルとの研究はじつはかなり違うんです。アーベルが証明したのは「五次方程式が代数的には解けない」ことであり、ガロアの研究は代数方程式が代数的に解ける一般的な条件でした(今日のいわゆるガロア理論)。実際に代数学におけるアーベルの業績はこれだけで、彼はむしろ楕円関数論で有名ですね。
 アーベルの天才はノルウェーでも認められていたのですが、当時のノルウェーはえらく貧しく、アーベルをドイツやフランスに留学させられるだけの資金がありませんでした。で、せめてもということで旅費だけは支給します。これでアーベルは当時のフランスの看板数学者コーシーとルジャンドルのもとを訪れます(コーシーは Ecole Polytechnique の初代数学教授)。ドイツに行かなかったのは、アーベルが送った五次方程式論の論文をガウスが一顧だにせずに捨ててしまったのに腹を立てたから、という話があります。もっとも、後にガウスはアーベルの業績を知り、邪見に扱ったことをえらく後悔したそうです。
 ところが二人の数学者はエスプリたっぷりの会話でアーベルに接し、数学の話題はおくびにも出さず、アーベルをすっかり失望させてしまったそうです。このころコーシーはガロアの論文を紛失してしまってます(これがガロアの挫折につながる)。実にコーシーは二人の天才の挫折に関与したわけです。
 もう一人ルジャンドルは楕円積分の研究に没頭していたのですが、じつはこの分野を飛躍的に発展させたのがアーベルでした。まあ、ルジャンドルは後にアーベルの業績を知って、えらく悔やんだそうです。
 失意のどん底にあえいだアーベルでしたが、それでも地道に活動を続け、フランスで誕生した世界初の数学論文誌クレーレの創始者に見出されたりもします。で、いよいよベルリン大学教授の職に就ける、というときに、長年の無理がたたって夭逝してしまいました。
 ガロアの方はというと、その挫折を悔やんだ Louis Le Grand の恩師リシャールは、数年後にもう一人の天才少年を見出します。そして彼は少年をなんとしても Ecolo Polytechniqueに入学させるべく、一年間、受験勉強に専念させます。で、無事に入学を果たして数学者としての才能を開花させたのがエルミートという人で、彼が残した業績は「エルミートのおかげで後世の数学者は50年は多忙でいられる」といわれたくらいですね。
 そのエルミートがある時「五次方程式の解法について」という論文を発表しました。そのなかで彼は一般五次方程式が楕円関数によって解けることを示します。アーベルの研究がこれで一応閉じた形になったわけですね。
 エルミート以降にはポアンカレが登場してくるのですが、ガロア前後の時代がフランスの数学史ではいちばんトキメク時期であります。


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