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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。

1999年02月09日

 薩摩治郎八については、パリ在住の画家・加藤一さんがときどき講演をおこなってます(『せ・し・ぼん』は加藤さんに依頼されて検索・購入いたしました)。加藤さんは画家になる前は競輪の選手で、ヘルシンキ五輪の代表に内定していたところ、プロ転向によって辞退なさった方です。ドゴール時代にパリに渡り、以来、フランスの自転車選手との親交を深めた結果、日本にツール・ド・フランスを紹介することがかなったそうです。で、そのときにフランス政府との交渉に尽力してくれたのが、やはり薩摩治郎八だとか。
 あとは藤田元嗣のパトロンでもあったそうです<薩摩治郎八。ただし、カネは出すけど口は一切出さないという belle epoque な大旦那芸の持ち主だったそうで、それに恩義を感じた藤田が、Cite Universite 日本館設立の際に自分の絵を寄贈した、という話があるらしい。
 この薩摩治郎八の人生は、本宮ひろ志がマンガにしそうな一生ですね(笑)。生まれ育ったのが神田近くの敷地3万坪の大旗本屋敷。生家は元士族で治郎八の祖父が綿の取引で巨万の富を築き、父は粋人だったそうで、治郎八自身、小さなころから芸者遊びに興じていたそうな(笑)。
 ハタチのころに最初はロンドンに、すぐにパリへと渡り、都合30年間ほどをパリで過ごしたそうな。戦前には数々の文化的功績でレジオン・ドヌールを受勲、第二次大戦中のナチ占領下のフランスにあっては、ドイツの友好国・日本の国民かつレジオン・ドヌール受勲者という立場を活かし(ドイツにもビシー政権にも顔が利く)、数々のフランス系ユダヤ人を助け出したのだそうです。
 で、フランス滞在中はとにかくケタ違いのカネを遊びに使い、総額は現在の貨幣価値に換算すると500億円ぐらいだったらしい。そんなわけで、晩年は禁治産者にされたそうな。亡くなった土地は徳島なので、現在では徳島に「バロン薩摩の会」という集まりがあるそうです。


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