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過去の日記一覧


この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。
■ 回想カテゴリー

カテゴリ「回想」に投稿されたすべてのエントリのアーカイブのページが、新しい順番に並んでいます。
一つ前のカテゴリーは、「友人・知人ネタ」です。 次のカテゴリーは、「子どもの話題」です。

1995年06月09日

 このメッセージを書いているのは現地時間で午後10時15分です。きょうは一日曇りがちの天気でしたが、外はまだかなり明るい。サンセットは8時どころか10時ごろ、薄明は11時過ぎまで続きます。
 この季節になると、河原で Mechouiをやるグループが増えてきます。ぼくが最初に通っていた ESSEC は Cergy にあり、あちこちに森林があって、 Etoile から RERで30分とは思えないのどかな地域です。そのとある河原で、2年前のいまごろ、授業の打ち上げをやりました。
 クラスメートに「何時頃までやるの?」と尋ねたら、「暗くなるまでね」と言われました。照明の設備がないし、あかりを持っていくのが面倒だったからですね。
 その日は雲ひとつない天気で、午後5時頃には30度近くまで気温があがりました。フランスは太陽の南中が午後2時ごろなので、4〜5時がいちばん暑いんです。これに慣れないうちは、ぐったりと疲れます。
 Mechoui の雰囲気は、日本でやる普通のガーデン・パーティとおなじようなものです。適当に雑談の輪ができて、3、4人ごとに騒いでいるって感じですね。10時過ぎにようやく日没、そしてだんだんと黄昏が深くなり、天頂あたりに2等星ぐらいまでが見えるころになると、雑談は一服です。みな腹もくちてきて、適当にチーズをつまむ。
 こういう雰囲気になると、誰かが飛びきりのジョークを披露し始めます。よく「ジョーク集」などに出ている、一種の小咄ですね。たいていはシモネタがらみですが、学識ある学長自らそういう話しを切り出します。
 だいたい4人ぐらいが話し終わると、周囲の顔もほとんどわからない薄闇です。懐中電灯を使って時計を見ると、すでに12時でした。もう終電がない。ぼく以外に巴里から通っていた者が3人いたけど、誰もそんなの気にしていなかった。結局一人が車を出して送ってくれましたが。最初からそ
の計画だったのかもしれんけど。
 ぼくが巴里に住み始めたのは3年前の6月でした。当時はいまの Gobelins ではなく、ポンピドー・センターの近くに仮住まいしていました。一番日の長い季節にやってきて、午後10時に西日のさすステュディオに住んでいたのです。
 そんなこともあって、ぼくにとって夏の巴里のイメージは「西日」ですね。すごく気怠い夕方が延々と続き、午後の遅い時間になってから、湿度も温度も上がる。寝るときは窓全開という日も多かった。
 ところが朝は涼しい。真夏でも半袖だけじゃ寒い。だから、サマーセーターが不可欠ですね。ぼくが好きなのは Hobbs のパステル・カラーね(笑)。


1995年01月15日

 はじめてパリを訪れたのは9年前の五月、チェルノビル・メルトダウン当日でした。仕事だったので、ホテルは凱旋門近くの四つ星です。
 五月だと日は長い。でも、朝はわりと遅いというか、日本の夏至みたいに四時代に日が昇るなんてことはありませんです。だいたい六時ぐらい。だから、7時頃の雰囲気がいいんですよね。重い太陽光線、まだほこりっぽくない空気がひんやり気持ちよくって。ホテルからでて散歩すると、凱旋門がだいだい色に見えた。ちょっと深みのある青空をバックにして。ぼくはこの情景だけでパリが好きになったようなもんです。
 日の長い季節の朝は、いちばん幸せな時間ですね。ホテルからシャンゼリゼに抜けて、そのままコンコルド広場まであるいてみたりもしました。朝のモンマルトルなんかも行ってみましたが、時間が早いとなにかういういしい感じさえします。
 夜は左岸……なんていうと、まるで枕草子みたいなリズムだけど(笑)、サンミッシェル、ソルボンヌ、レアール、そしてバスティーユあたりの夜もいですね。いつまでもクダ巻いている連中がいて。夏至の頃は夜十時の西日を受けながらペリエを傾けていたりして。なんともけだるい時空です。


1994年09月23日

 わしらの校舎って、進学前年に建ったばっかだった。だから、当然全館冷暖房完備だったのだ。おかげで夏は寒かった。工学部の連中が、すげえ羨ましがってたのである。
 黒板も電動スライド式(うう、なんかえっちなひびき)で、ボタンひとつで上下が入れ替わったんだよねえ。初めてみたとき、けっこうたまげてしまった。
 3年の冬に、フランスの大数学者グロタンディック(だったと思う)が、集中講義をやっていたような気がする。


1994年05月04日

 友人にヒコーキおたくがいたのですが、彼の話によると、ConcordeはB1よりも戦闘能力があったのだそうですね。
 Concordeの巡航高度は地上1万4千フィートだそうです。この高さだと、ジャンボなどの高度に比べ、人が受ける放射線の量がかなり多いそうです。よく冗談で、「コンコルドで何度も大西洋を往復すると、コンドームが必要なくなる」なんてのがありました。冗談ですよ、冗談。
 ド・ゴール空港にはコンコルド乗客専用のラウンジがあります。そこでは、搭乗を待っているあいだ、酒飲み放題だそうです。このヒコーキ、全席ファースト・クラスなんですよね。運賃はファースト・クラス料金の4割増しです。
 ぼくの同僚で一人、海外出張でコンコルドを使ったやつがおりました。会社の規定でそんなのは認められてなかったんだけど、スケジュール調整上、絶対にコンコルドじゃないと間に合わないと「理由」をでっちあげたのですね。予算潤沢なバブリー出張でした。
 彼曰く、「空飛ぶ鉛筆」だったそうです。


1994年03月08日

 アテネ・フランセのJPペレさん、もう在日30年くらいになるんじゃないのかな。なにしろアクの強いひとなので、相性のあわない生徒は一日でクラスをかえ、相性があうと、3年も4年も同じテキストのまま継続する、という両極端なパターンの持ち主ですね。ぼくの場合は相性があってしまった(笑)ほうで、ペレ氏の引っ越しの手伝いやら、テレビの配線工事やらを手伝わされてしまった。
 ほんと、役者って感じの先生ですね。全然、日本語に不自由しないくせに、普段は知らないふりをする。台湾や韓国を旅行するときは、日本語で用をたしているそうです。授業では生徒をいぢめるけど、プライベートでは剽軽なおっさんですわ。いろいろと問題集なんかも出しているみたいですね。いまでもときおり、「この雑誌を送ってくれ!」って手紙がきますけど、たいていが左翼系の雑誌でしたよ(笑)。


1993年11月16日

 大学卒業後三年目、出張でフランスに行く機会ができた。初めてのヨーロッパ。海外そのものが二度目の経験だ。
 チェルノブイリ・メルトダウンの翌日、雨のパリに着いた。初めてのパリ。
 レストランのメニューが分らない。道の尋ね方も分らない。なんも分らない。
 教養時代、それなりにフランス語を勉強したはずだった。
「あの二年間はどこに消えた?」
 時間を無駄に過ごしたというショックが襲ってきた。
 これではいけない。せめてマクドナルドやセルフ以外のレストランで食事をできるようになりたい、使った時間を無駄に殺したくない……
 出張から帰ってから、昔の練習ノートを納戸から引っ張りだした。約3ヶ月間、毎日シコシコと取り組んだ。語学学校でちょんぼをしないために。
「語学学校に行こう」
 出張から帰る前から思い立った。しかし、かつて経験があるのにゼロからスタートするのも悔しい。かといって、どのレベルから始めたらいいのか分からない。せめて複合過去くらいまで、「回復」させようと思ったのだ。
 アテネ・フランセに通い始めたのは、1986年9月、出張から5ヶ月後のことだ。
 アテネにした理由は簡単。安かったこと、学校がしっかりしていること、そして会社から簡単に行けること。日仏のある飯田橋は会社から少し不便だった。
 選択した授業は本科初級レベル2。一回二時間、週二回の授業。毎週火曜、金曜、午後六時半に始まるコースを取った。講師は小村女史、テキストは Sans Frontier 1 だった。モージェなど、かつてのコースが姿を消そうとしていた。
 授業初日。
 始業10分前にアテネの校舎に着く。
 掲示板で教室を探し、なるべく後ろの方、それも端の席を取る。前に座る度胸はない。一番後ろもさける。ボトムエンドは、講師の性格によっては墓穴を掘ることもある。
 小村女史が時間ほぼジャストに入って来た。なかなか気難しそうな風貌。やれやれ、どうやっていたぶられるのだろう……
 はたと気がついた。
 出席で名前を呼ばれたら、何と応えればいいのだろう?
 真っ先に呼ばれないことを祈った。どうせアルファベット順だろう。A や Bで始まる人がいますように……
「マドモアゼル・……」
 よかった。先客がいる。
「Presente!」
 そうか、present でいいのか。少し気が落ち着いた。
 初級クラスということもあって、授業での説明は日本語が中心だった。
「初日なので、まず部分冠詞のチェックでもしましょうか?」
 小村女史が一人一人に質問を始めた。
「Buvez-vous de la bierre?
 Ouiで応えて!」
 間違えると「だめ!」の一言で切り捨て御免。
 否定で応える者はほとんど「だめ!」。
 最後の方の順番がまわってきた。
「Monsieur, vous ne buvez pas de bierre? Nonで応えて」
 ちぇっ、否定疑問で否定の回答かよ!
 そして、思わず応えてしまった。
「Non, je ne bois pas du bierre.」
「だめ!
 部分冠詞をわかっていない!」
 deと言うつもりだったのに。でも、順番が終わってほっとした。
 初日の授業で覚えているのは、このエピソードだけだ。
 小村先生には結局秋学期だけお世話になった。厳しい先生だったが、質問には丁寧に応えてくれたし、意地悪なことはしなかった。
 残念ながら、彼女はレベル1、2を常時受け持っているので、レベル3に進むと他の講師を選ばなければならなかった。
「ルールム先生って、どんな方ですか」
 これが小村先生にした最後の質問。ルールム先生というのは、次のレベル3で受けようと思った講師の名前だ。フランス人講師の授業となると、その人のクセなどが気になる。
「とても紳士的な方よ。怒鳴ったりすることはないし」
 小村さんのお墨つきで、安心して継続する気分になった。



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