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過去の日記一覧


この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。
■ フランス生活カテゴリー

カテゴリ「フランス生活」に投稿されたすべてのエントリのアーカイブのページが、新しい順番に並んでいます。
一つ前のカテゴリーは、「ネットワーク」です。 次のカテゴリーは、「フランス語」です。

1995年11月28日

 フランスでの生活って、ニッポンの昭和40年代を思い出させるものがある。うちでも風呂の排水は年中詰まっていたけど、原因はワタシの長髪でした。カミさんよかおれのほうが長いしね。で、排水が悪くなると栓をば抜いて、針金ハンガーをバラしてこさえた棒でもってほじくりだす。ただ、管そのものは髪の毛以外でも詰まるので、定期的にアルカリ溶剤で手入れしなきゃならない。


1995年10月04日

 巴里市内のアパートの古いあたらしいは、戦前の建築か戦後のかで区別することが多い。ただし、戦前・戦後というのは第一次大戦のことですが。うちは戦後間もなくの建物で、比較的あたらしい物件にはいります。築70年ぐらいです。
 もちろん、最近は築 100年ぐらいのをぶちこわして、Tout neuf として売り出す物件もすくなくない。ただ外観がややのっぺりぎみで、ちゃちい感じがしなくもありません。新築物件は巴里市内よりも Peripheric 近辺、あるいは La Defence、Cergy あたりのほうが人気があるみたい。建物があたらしいだけでなく、街そのものがあたらしいですから。こういうところには Euromarche や Carrefour があるので、買い物も安くあがります。
 日本の場合は気候の問題があるから、なかなか築 100年というわけにはいかないのでしょうね。伊勢神宮を意識するわけではないけど、一定期間でリニューアルするというほうが、日本人のメンタリティにはあうのかも。知り合いの建築家の話だと、現代のビルだって法隆寺ぐらいの寿命は十分に持たせることができるんですって。ただ、商業建築にそんなことしたら、コスト的にまったくあわないとか。


1995年10月03日

 賃貸が得か、購入が得かは、試算すると相当複雑なパラメータがからんでくるようです。単純に家賃やローンの積算だけじゃないみたい。税金の問題はもちろんのこと、なにか借金するときの担保としての価値とか。賃貸なら制約もありますよね。
 持ち家なら財産になるけど、借家だと自分にならないって指摘もあるけど、相続税まで考えたらどうなんでしょうね。それにマンションだって償却があるわけだから、大枚払ってもなんも残らんって結果になりゃせんかな。
 フランスは借家でもかなり自由度が高い。だから巴里は借家(アパート)がおおいのかな、なんて気もします。住宅ローン金利も日本と違って高いし。たとえばペットを飼うのは完全に自由だし、壁に鋲をさすのもお構いなし。ドリルで穴をあけるのも問題なしなんだそうです。「壁をぶち抜くのだけは許可がいる」そうですけど(笑)。
 現在我が家の家賃は 5,020 Frs(管理費込み)です。間取りは 2DK、広さはだいたい 45平米です。値上げ率も契約でちゃんと決められている。INSEE の発表するなにかの指数に対してどうのとか。賃貸契約書のひな型は国の作成したものが市販されていますから、どのアパートも条件は一緒でしょう。
 売買物件となると、地区と建物の質で決まるそうですが、うちあたりだとだいたい 15,000 Frs/m^2 が最低ラインじゃないか、ということです。平米あたり約30万円程度だから、なんだかすごく安く感じてしまう。買い取りでだいたい 70万 Frs といったところ。
 フランス人のわりと平均的なサラリーマンの年収は 25万 Frs ぐらいだったと思うから、だいたい年収の3倍程度ってところでしょうか。前に見かけた統計だと、たしか年収の 2.5倍ぐらいだったと思う。うちのあたりは相場の高い地区なので、だいたいこんな線なのでしょうね。
 東京近辺がバブル前で年収の6倍でしたっけ? 生活を考えると、3倍程度がせいぜいじゃないっすかね。


1995年09月30日

 Avenue McMahon 在住の大家さんは、あちこちに不動産を所有する資産家らしい。自宅のすぐ近くにオフィスがあるみたい。仕事といえば、ほとんどが不動産管理のようで。
 6区に住んでいる知人のアパートは、いかにもインテリの住むところという感じでした。110平米ある 5LDK なんですが、ここもリビングが広くて快適です。バルコンもあって、初夏には鉢がいっぱい並べられていて。
 この人はDauphine 付属の研究所で副理事をやっています。6区となるとおなじような職業、地位の人が多いみたいです。あと、おもしろいのが Renne大学や Strasbourg 大学といった、わりと「名門」といわれる大学の教授が、案外と巴里、それも6区あたりに住んでいる例が多い。コミュニケーション論で有名な MATTELARD教授夫妻も所属は Renne大学で、住居は巴里5区です。こういう場合、博士論文登録は Renneで、だけど研究活動は巴里で、なんてこともできるんですね。


1995年09月23日

 イギリスから小杉のおいちゃん夫妻が遊びに来てくれたので巴里の「名所」案内をする。まずはアラブ世界センターに。ここの屋上からのシテ島方面の眺望は、知る人ぞ知る絶景である。また、ここは建物自体もキッチュでおもしろいのだが、とりわけ何もない地下の規則的に並ぶ柱がけっこう壮観だ。なんとなく映画『シャレード』を思い出してしまうが。
 おなじく眺望がすばらしいのがポンピドーセンターである。建物自体は高層建築ではないが、巴里のアパートはだいたい7階建てなので、ポンピドーセンターみたいにちょっとだけ高いだけでも、えらく見晴らしがいいのである。
 パレロワイヤル広場ではパフォーマンス中の芸人が何人かいた。この人、写真を撮ったあと、おもむろに立ち上がって大きく伸びをしたのだが、ちょうど休憩タイムに入ったところのようだ。  夜はムフタールのギリシャ料理店La Creteでプチ宴会。この通り沿いには何軒もギリシャ料理屋が並ぶが、いろいろと試した結果、この店がベストだとの結論に達した。ギャルソンがとにかく陽気で、油断しているとすぐに踊りに誘われてしまうのである(女性限定)。

1995年09月18日

 このアパートというかGobelinsという街、近くに中華街があるわ、ムフタールの常設市場があるわで、消費生活には本当に便利な場所である。たしかにムフタールは市場としては観光化が進み、ほかの常設市場に比べれば値段は高いかもしれないが、それでもスーパーの品揃えよりははるかにいいし、あのごみごみした通りの雰囲気は、下町育ちの人間にはとてもなつかしい感じがするのだ。写真に写っているチーズ専門店、Pantheon-Sorbonneに通学していたころは、帰りによく立ち寄っていろいろなチーズを買ったものである。
 坂を下ってムフタール広場に出たところ、やたら人垣ができていたので何事かと思ったら、映画のロケをやっていた。若奥さんが市場で買い物をする場面である。店員役の人が口パクで演技をしていたのが印象的であった。

 デジカメのサンプル画像を撮影するためにムフタール近辺を歩き回っていたら、ローマ時代の遺跡でペタンクをやっている光景を観ることができた。ペタンクとは広場で鉄の玉を投げてぶつける遊びで、フランスではわりと大人の男性に人気がある。それにしても、ローマ時代の円形競技場がいまだに現役の遊び場として使えるのだから、うらやましいというか、やっぱり土地は使うものだと再認識したというか。

1995年09月17日

 巴里に住んでいて絶対に得をしたと思うのは、ちょっとした散歩コースが無数にあること。まあ、出不精なので、あまり得をしたと思う機会は多くないのだけど(笑)。

1995年09月15日

 巴里の「左岸の植物園」—— Jardin des Plantes は、最近の散歩コースです。うちから徒歩15分ほど。最寄り駅は Jussieu ですが、Censier-Daubenton からも遠くない。
 むかしのお城がでーんと構えていて、その正面に広大な花壇が連なる。その両脇は並木道です。さらに、恐竜の化石もある博物館、熱帯植物園、動物園もあって、ちょうど手軽なコースですね。
 並木道の脇にはしゃれた薔薇園もあります。満開の時期になると、屋外なのにむせかえるような香りに満ちています。タダでこういうコースを満喫できるのだから、やっぱり巴里は贅沢な街なのかもしれない。
 ほとんどのひとがアパルトマン住まいだから、こういう庭園が「自分の庭」になっているんですね。ほとんどのひとは、ベンチでごろ寝したり、本を読んで過ごしています。


1995年09月03日

 ぼくはいつも27番のバスを使うのだけど、これだとサンラザールからルーブルまで95番とおなじルートを通るんだよね……といっても、Avenue d'Opera 一本ってわけだけど。95番と27番は、巴里の隠れた「観光バス」として有名です。
 今年は恒例の RATP 値上げが、かえってぼくにはうれしかった。というのは、チケットの単価は上がったけれども、巴里市内のバスのゾーンが廃止されたから。これまではいちいち二枚きらなきゃいけなかったのが、いまはぜーんぶ1枚になった。バス愛用者にとっては実質的な値下げですね。もちろん Coupon 利用者にはそのまま値上げになったわけだけど。


1995年06月29日

 きのうメトロに乗っていたら、むかいのサドルに座っていたにーちゃんが、「天地無用」の文字入りTシャツを着ていました。さすがに衣類だけあって、反対ということはなかった。
 うちの近くの古書店で取材させてもらったとき(このときの内容は、丸善ライブラリー『世界の古書店2』に収録されています)、カリグラフィーの色紙を謹呈したんです。何日か後にいったら、やっぱりさかさまに置かれていました。


1995年06月22日

 巴里で夏至といえば、fete de la musique……これが毎年楽しみです。今年で3度目、巴里のちょっとしゃれたカフェには生バンドが入って、そこらでダンスするひともいれば、酒盛りに励むひともいます。
 うちの近くの Brasserie de Port Royalでも、毎年バンドを入れてます。去年は規模の小さめのオケが入っていたかな。ことしはジャズ・バンドです。さっき眺めてきたけど、テラスの正面に、スピーカーやドラムを置いてカルテットが演奏してました。去年だと交差点にロックバンドが出ていたな。
 これを書いている時間が午後7時半。まだ太陽は見上げるような高さです。日没は10時過ぎ。おそらくそのころまで、巴里のあちこちでバンドが出ているでしょう。コンサートをやっている広場もあります。
 fete de la musiqueに日になると、夏が来るなーと感じます。そして2週間後のフランスGPで、いよいよ夏だなーと感じます。14 Juilletでその真っ盛りを感じ、そして昇天祭で夏のおわりをしのぶんですね。
 今年はずいぶんと fete de la musique が盛り上がっています。Brasserie de Port Royal に夜食をとりにいったのだけど、生でグレン・ミラーを聴きながら、という、なかなか贅沢なひとときでした。夜10時半、空はまだ薄明がたっぷりでした。
 昨年、交差点に出ていたロック・バンドは、今年、まったくはす向かいのカフェの前で、パープルやらなにやらで盛り上がっていました。バンドのまわりは3重の人垣で、空き缶に石をいれてリズムをあわせる者、手拍子をとる者、ひたすら踊りまくる者、ぼけーっと眺める者、それぞれです。このバンドがやがて移動を始め、ホコテンでもないのに道のまんなかに出て、しばし車をさえぎって騒いでおりました。もう信号なんてあってないような状態です。
 イタリー広場にのぼる Avenue des Gobelins はちゃんとホコテンにしておりました。坂のなかほどにあるカフェの前では、グランド・ピアノを何台も置いてあった。なにか野外演奏会があったみたい。くそ、気がつかなかった。
 今日は部屋をにわかディスコにして、徹夜で騒ぐひとたちもいるはず。去年のうちの上階がそうだった。
 Brasserie で夜食をくっているとき、大渋滞の道路の彼方から、とつぜん嬌声が聞こえてきました。見れば、ローラースケートはいた連中が百人あまり、のろのろ運転の車をぬって行進しておりました。あやつら、巴里一周でもやっとるんか。
 この fete de la musique が来ると、また1年、巴里に滞在したくなってしまう。11月ごろはぜったい日本が恋しいものですが。


1995年06月09日

 わがアパートの隣の隣の一階には映画館が入っているのだが、なぜかそこは映画の撮影に使われることが多い。今日も小さいロケ隊がなにやら撮影をしていた。

1995年05月19日

 巴里でも livraisonが増えてきた。定番のピザだけでなく、中華料理、レバノン料理、印度料理なんかのケータリングがある。それに、巴里市内はもともとあちこちに総菜屋さんがある。
 きょうの晩飯は Pizza Hatに頼みました。ここは一度注文すると、住所も code も登録されるんで、二度目以降は電話番号を告げるだけです。いやほんまに楽だわ。注文ったって、ものの5秒で終わりだし。


1995年05月11日

 去年、在仏日本大使館に免許証の法定翻訳を依頼にいった。前回は在仏日本人会でやったけど、大使館の方が安いとわかった。
 あたしゃ原付以外は「眼鏡等」なんすね。で、免許証の写真にも法定翻訳添付の写真にも、メガネしとらんやつを使ってます。そしたらこれにクレームがついた。

領事部「あの、メガネなしの写真でないと困るんですが」
わし 「は?」
領事部「撮り直してきていただけますか?」
わし 「えっ! わざわざそのためだけに?」
領事部「でないと『眼鏡』という訳を入れることができないもので」
わし 「でも、在仏日本人会では問題なくやってくれましたよ」
領事部「えっ? どういうふうになってました?」
わし 「ほら。『メガネまたはコンタクト』ってことで」
領事部「うーん、うちのところでは、そういう訳文は使用していないんです」
わし 「使用していないったって、タイプするだけでしょ?」
領事部「それはそうなんですが……」
わし 「追加するだけじゃないですか」
領事部「そしたら、『コンタクト』ということにしましょう」
わし 「はあ……」
領事部「万一警察でとがめられたら、コンタクトをなくしてメガネに変えた、とうことにしてください」
わし 「はあ……(すでに、どーでもよかった)」

 外務省ってやつはもう(笑)。


1995年04月21日

 今年は4月なのにやたらと greve と manif が多い。なんか世情が不安定だ。95年ってのは日本の厄年ってだけじゃなくて、世界の厄年なのかいな。


1995年04月15日

 先週、モロッコ人の友人宅に行った。そこに彼の友人がふたり遊びに来ていて、ひとりはレンヌに住むモロッコ人であった。彼がレンヌに住む日本人の話題を出すので、「ひとり知ってるひとがいた。ダンナがキヤノンに勤めているんだけど」というと、「レンヌに住んでる日本人なら、たいていキャノン関係者だよ」と笑っていた。
 と、彼は「そうだ、女性でひとり、Concervatoire で教えている日本人がいる。彼女は有名なジャズマンの前の奥さんだった」と言い足した。
 かなり有名なジャズマンだそうだ。CDのコレクションをあさり、このひとだ、と示した。それは坂本龍一だった。
 疑問一。坂本龍一はジャズマンなのだろうか?
 疑問二。坂本龍一に「前の奥さん」っていたのだろうか?


1995年04月06日

 最初の年はちゃんと見に行く努力はした。でも、Metro 1 がパレードの前後は Palais Royal から Argentine まで駅が閉鎖されちゃう。そんで Palais Royal から必死に歩いたのだけど、人垣と通行止めに阻まれて、Roosevelt 広場に着いた頃には終わっていたのだ。だから、14 juillet見物は朝の早い時間からいかないとダメ。
 Place de la Bastilleの前夜祭はかなり怖い。治安がどうこうっていうんじゃなくて、爆竹の雨が降ってくる。滞在最初の年にいったのだけど、駅の階段を上る時点から、はやくも上から爆竹が降ってきて、足下でいきなりどかーんとくる(汗)。
 2年目はあっさりと寝過ごし、3年目は天気が悪かった。テレビを見たら「Merde! Il pleut.」ってペイントした傘をさしてたやつがおった(笑)。


 最初の年はちゃんと見に行く努力はした。でも、Metro 1 がパレードの前後は Palais Royal から Argentine まで駅が閉鎖されちゃう。そんで Palais Royal から必死に歩いたのだけど、人垣と通行止めに阻まれて、Roosevelt 広場に着いた頃には終わっていたのだ。だから、14 juillet見物は朝の早い時間からいかないとダメ。
 Place de la Bastilleの前夜祭はかなり怖い。治安がどうこうっていうんじゃなくて、爆竹の雨が降ってくる。滞在最初の年にいったのだけど、駅の階段を上る時点から、はやくも上から爆竹が降ってきて、足下でいきなりどかーんとくる(汗)。
 2年目はあっさりと寝過ごし、3年目は天気が悪かった。テレビを見たら「Merde! Il pleut.」ってペイントした傘をさしてたやつがおった(笑)。


1995年04月05日

 巴里の治安はQuartier 単位で異なる。だいたい二百メートル四方ぐらいのブロックが安全地帯と危険地帯のユニットになっていて、これがモザイクのように入り交じっている。とくに Les Halles 近辺はこの混在がすごいので、旅行者にはちょっと危ない。ある程度住んでいると、雰囲気で「この
道から先は危ない」っていうのがわかるんだけど。
 だから、Les Hallesでも場所によってはすごく便利でいい。ただ、実際に経験したことなんですが、ビジネス街にある EDFの事務所に料金を払いにいこうと思ってちょっとショートカットしたら、突然雰囲気が一変して、街角のそこここには妖しげなおねーさんたちがうつろな表情で立っていた、なんてことがありました。


1995年03月27日

 cafe のコーヒーは当たりはずれがすくない。ただ、場末の brasserie だと、たまにとんでもない大スカがある。あと、レストランの食後 cafe でも、えらく焦げ臭いのが出てくることがあります。
 しかし、ヨーロッパに住んで最初に好みがかわるのはコーヒーです。かつてアメリカンを水がわりに飲むのが好きだったけど、いまはもいう濃いいやつに限ると思っちゃってます。


1995年03月22日

 Boulevard de Port Royal をうちからモンパルナス方面にバス停三つ分ほどいくと、畳屋さんがある。畳屋さっていうよりも、「日本寝具店」といったほうが正確ですが。フランス人の一部には畳がベッドとして好評らしい。ふつーのベッドの上に畳を置いて、その上に寝るんですね。BHVにもあったかも。畳は tapis de tatami といってたと思う。


 巴里でアパートを探し始めたとき、在巴里十年という日本人女性がいろいろ相談に乗ってくれました。彼女は「巴里に住むなら絶対に便利なところに住むべき」と強調していました。予算ギリギリまで高望みしたほうがいい、っていうわけなんです。いろいろと物件も紹介してくれたんですが、すべて5区・6区か、8区の中心部(凱旋門の近くね)ばかりでした。
 で、やっぱこれは事実だと思いました。ちょっと買い物にムフタールへ、なんて気分は、本当に絵に描いたような la vie parisienne です。たしかに巴里の中心部に住むためには、いくつか犠牲にせねばならんことがある。当然ながら日当たり良好なんて望めない。大通り沿いは車の騒音がうるさいし、排ガスがかなり臭い。安めのアパルトマンはエレなしなんで、上の階だとのぼり降りがたいへん。郊外なら Carrefourみたいな安い Grande surface があるけど、巴里中心部だと物価が高い。
 とはいいながら、高円寺あたりの家賃で原宿に住める感覚があるわけで、こりゃやっぱ応えられません。たぶん、いまのところを離れたら一生こんな贅沢な環境には住めないでしょう。


1995年03月20日

 水道代はたいてい家賃にはいっている(固定料金)はずなので、実感としては「水はタダ」って感覚です。電気代は銀行の口座引き落としを利用する場合、毎月固定金額を支払って、年に一回、精算する。固定金額は、最初の年は家の広さに応じたモデル料金体系で仮設定され、二年目からは前年度実績にもとづいて算出されます。うちの場合、月々500フランぐらい。まあ、ガス代がはいっていないことを考えれば、光熱費は日本より多少安いぐらいってとこ。
 うちのアパートでも、ガスをいれてないところが多いみたいです。日本と違って、個別に入れる入れないと決めているんですね。でもたしかプロパンだったんじゃないかな。まあ、揚げ物とかやるには、やっぱガスがあったほうがいい。でも、巴里市民は外食の機会がおおいから、案外とガスなしでも不自由しないみたいだけど。
 暖房は温水を循環させるか、個別に電熱パネルでやるか。給湯も集中的にやるか、個別に Chaud-eauっていう温水器を入れるか、ですね。ちなみにフランスの標準産業分類には、「温水供給業」というのがあります。もっとも、細分類に「エールフランス」ってのを見つけたときにはぶっとんでしまった。エアフラって産業分類かよ(笑)。


1995年03月18日

 フランス人のケチぶりは、なかなか複雑(capricieux)です。だって、照明はぜんぶ白熱電灯かハロゲンだから、すごい消費電力なのね。たとえばうちが夜消費している電気は、居間のハロゲンが500W、寝室、廊下、台所の電球が各75W、これがつけっぱなしでトータル725Wです。節電しようと思ったら、蛍光灯に限ります。ただ、フランス人はこの光線が嫌いみたいね。
 うちには60Aきてるんだけど、230Vだから、日本でいえば140A来ているのと同じ。これは小さな工場の水準ですね。
 ミニュットリは、はっきりいって不便でしかも無駄だと思う。要するに、こまめに消す習慣がないってだけ、きっと。たしか国民一人当たりのエネルギー消費量は、日本の7割増しとかぐらいなんじゃないのかな。省エネに関しては、やっぱ日本は頑張ってる。アメリカなんかひでーらしい。


1995年01月30日

 きのう、カミさんの元上司が出張でパリまでやってきたので、ムフタールにある馴染みのギリ飯屋にいったのでした。そしたら、これまた顔馴染みのギャルソンのひとりが、こんなことを話していた。

ギャ:ぼくの奥さん、JAL の hotesse d'airなんだよ。
わし:ほほー、んじゃあ、パリと成田を往復してるの?
ギャ:ううん、オーザカのあたらしい空港のほうさ。
わし:あ、カンサイの新空港ね。
ギャ:そうそう。んでさー、このあいだ seisme があったでしょう?
わし:うん。被害がすごかった。
ギャ:そのとき、ぼくの奥さんもカンサイにいたんだよ。
わし:ええ、まじ?
ギャ:フランスのテレビにもインタビューで出ていたの。
わし:あ、みたかもしれない!
ギャ:何度も放送されてたからね。
わし:被害とかはどうだったの?
ギャ:ぜんぜんなかった。

 ……というわけでした。世の中やっぱり狭い。


1995年01月02日

 あけましておめでとうございます。パリで迎える新年はこれで四年連続ですが、あいかわらず家でゴロゴロでした。新年の瞬間は、大掃除の最中に過ぎてしまいました。あわてて新年 RT をやりにアクセスしたのですが、システムがトラブってて入れませんでした。
 個人的には 94 年はかなり激動の年でした。十一年籍を置いた会社を退職してフリーとなったわけですが、人間関係が完全に変化しました。これが一番エキサイティングな出来事です。
 年末には二度目の滞在許可更新がすみ、今年の11月末までは合法的に住む権利ができました。二年目は正直言って惰性で暮らしていたような気がします。一年目みたいな緊張感がなくなったし、大学は授業時間が短いので、話す機会がどっと減ったんですね。会話能力は確実に下がったでしょう。


1994年12月27日

 OLTJ誌は先週の金曜、見本刷りが届きました。写真は思ったよりも鮮明に印刷されてますねー。一応、全員の顔は識別可能でっせ。シャッターを押したのはギャルソンさんです。だから、当日の参加者は全員写ってます。
 この写真はロンドンから東京宛、パリ宛にたしか同時に送られたはずなのに、同じ日(時差を考えれば東京は一日遅れ)に到着しました。いったいロン・パリの郵便事情はどーなっとるんやろかー、と一時期某所話題になりました。
 レストランは「Caveau des Arches.」といいます。ボーヌの外周道路沿いで、街の北北西にあります。このレストランはN野さんがたしか決めたと思ったけど、ほんまにええとこでした。
 この地方のレストランにしては、「適量」でした。料金も安いから通常の胃袋のひとには最適です。以前M田さんたちと行った店は「Dame」といいまして、ここも味よし値段安いの文句なし……といいたいところだけど、量がとんでもなく多かった。泣く泣く残さにゃならんっちゅう苦行が待っております(;_;)。


1994年12月26日

 うちのアパートの例ですが、外が冷え込んでも中はそんなに寒くはならないんですね。だいたい十六〜十八度ぐらいをコンスタントに維持しています。これ、やっぱり造りが石だからかな。
 それ以外に、500Wのハロゲン、100Wの裸電球を照明に使っている点も。これだけで立派な電気ストーブですから。
 いまはほとんど PowerBookを使っていますが、それまではパソコンのモニターもけっこう熱源となっていました。
 ぼくは多少寒がりのほうではありますが、寒いのが好きって面があります。トイレが近くなるのはうっとーしいけど。普段は日本から持参した綿いれ(どてら)を着てます。近くの買い物だと、どてら着て裸足にビーチサンダルっちゅうアンバランスなファッションであります。まあ、パリだと誰も気にしやしませんけどね、そんな格好でも。


1994年12月25日

 パリもきのう、きょうは冷え込みました。最低気温はマイナス3度ぐらいだったかな。うちでもはじめてヒーターを使いました。
 これが四年連続のパリのクリスマス、だけど多分最後になるだろうと思ったので、イブはシャンゼリゼにおのぼりさんをしにいこうと思ったんですね。でも、予想通り寝坊して、そのまま生ゴミとなってしまった。外は車の通りも少なく、近くのカフェははやばやと閉店です。
 クリスマスはきれいだけど、わりとあっけない感じです。年末はすごいですよ。ストラスブールくらいの大きさの街だと、ほとんど革命騒ぎだそうですから。広場でキス無礼講となるはずゆえ、リップクリームで唇の手入れをお忘れなく。


1994年12月03日

 プラグの変換アダプタは、フランス国内で簡単に買えます。電話機なんかを販売している事務機器店に行けば、たいてい売っています。ファックスを置いてあれば、まず間違いなくあるでしょう。値段は20〜30フランぐらいです。
 一番簡単な方法は、Hotel de Villeの向かいにある BHVの地下売場ですね。ここはまあ、アキバのラジオ・デパートをもう少し小さくしたようなところで、部品関係はたいていここで手に入ります。


1994年11月17日

 NAPという言い方はあったと思います。アテネ時代、ペレ師に習ったような気がする。もっとも、ペレ師によれば、これは同時に「Non Academique Peuple.」なんだそうです。


1994年11月12日

 ユネスコ本部は、メトロ6番 Cambronneから歩いて5分ほどのところにあります。パリ在住の学生は、みんな最低二度はこのユネスコ本部の前を通っていることでありましょう。滞在許可申請の窓口 Centre d'Etudiantが、このユネスコ本部の隣りにありますから。ぼくはこの2年半で合計8回は行ってます。今月もまた行かないと(;_;)。


1994年11月11日

 じつはこの秋から、ぼくはストラスブールに住む可能性が高かったんですよ。一時はほとんど決めかけていました。というのは、ストラスブール第二大学にコミュニケーション研究で有名な先生がいたんですね。まあ、この分野ですと、パリ第三、レンヌ第二、ストラスブール第二あたりが有名どころなのですけれど。で、まっさきにその先生に相談したんです。
 まあ、結果的にそのひとが教授ではなくCNRS研究員であるために、学生の指導資格がないということで頓挫したのですが。いまでも未練たらたらだったりします。フィリップ・ブルトンというひとで、いまの授業でもそのひとの本が参考文献になっています。
 ストラスブール・オフっていうのもいいなあ。前にもはなしたと思うけど、かつてのフランス語会議室常連の奥さんが住んでらっしゃるんですよね。パリでお目にかかったとき、秋頃ストラスブールで会いましょうと約束もしてたし。


1994年10月31日

 Bourgogne オフから帰ってきました。総勢11人という規模であります。二年前は二人だけだったのにねー、とT岡のにいちゃんとしみぢみ視線を交わしてしまったのでした。
 黄金の丘はややピークをすぎたとはいえ、紅葉がとりまいていました。こういう光景を見ると、温帯にあるんやなーと実感します。
 でもほんと、フランスの田舎でやるオフもええわあ。


1994年10月29日

に行ってきます。在パリ3名、O合さんご夫妻、リヨンのM村さん、それとえげれすからN野さんともう一家族参加であります。総勢十人以上だっけかな。残念ながら Hotel des Rempartは予約できませんでした。フランスは月曜が旗日で三連休なんで、きっといっぱいだったんでしょう。


1994年10月25日

 在欧のおっさんたちのあいだ(一部だけど)では、
  Chatelet = 大手町
  Montparnasse = 赤坂見附
  メトロ1番  = 銀座線
 と呼んでいます。
 メトロ1番は午後6時前後、めっちゃ混むんですよね。ヘタすると5本ぐらいは見送らにゃなりまへん。ルーズベルトでどかっと人が乗ってくるのね。地方またはイギリスからパリにくることは「上京」といいます。


1994年10月18日

 正確にいうと、Carte Orangeは身分証明書です。日本のガイドブックもほとんどすべて不正確にしか書いてないみたい(最近のは違うんかなー)。定期として使うのは、Coupon Orange (月)、Coupon Jaune(週)です。ブツは切符と同じ。最近は自動発行機から出てくるので、色は水色(回数券と同じ)であります。2年前はたしかにオレンジ、黄色だった。
 改札口で「かると・おらんじゅ下せいまし〜」とゆーても、身分証明用のぽんとくれるだけ。これはロハなんで、「ええ、お金はらわないでいいのぉ?」と戸惑うかもしれまへんね。Carte Orangeには写真を貼り、裏にサインをしときます。んでもって、各カルトに記載されている番号を、必ず Coupon に記入せにゃなりません。これをしとかんと、検察のとき無賃乗車扱いとなります。
 RATPの検察はきわめて機械的で、たとえ写真入りカルトを持っていて、買ったばかりだから番号を記入していない、いまここで記入するからええやろ、と抗弁しても却下されることがあるそーです。


1994年09月14日

 PowerBook の購入では、このバカンス遅れに助けられました。アメリカの業者がうっかりパリに送ってしまったのですが、業務の滞りのおかげで(笑)、通関前に返品することができたんですわ。もし通関させとったら、日本よりもケタ違いに高い関税&間接税が待っていた。
 その店に昨日別件でファックスを送ったら、
 I recall the terrible trouble you had to go through.
 なんて書いてありました。


1994年09月08日

 ついさっき、南仏小旅行から帰ってきたのである。
 予定は二転・三転したけれど、細かいはなしは後日旅行記をアップするまでお待ちあれ。
 今回、一番印象に残っているのは、モンテ・カルロの Monte de Beau Rivage 頂きから眺めたハーバーであった。


1994年09月04日

 たいていのガイドブックには、「端数を払っても理解してもらえない」と書いてることが多いと思います。ぼくもかつてコラムに同じようなことを書いてしまった。でも、おつりの渡しかたは、どうやらかなり変化しているみたいです。

例1:46,60Frsの買い物をした場合
 スーパーであれば、ほぼ確実に端数分の小銭を要求されるでしょう。また、要求されなくても、サンチーム部分は客のほうから出す場合が圧倒的に多いように思われます。
 レジを使わない一般商店の場合、サンチーム部分は要求される可能性が高いし、客も進んで払う場合が多いと思う。ただ、単純に 100,60Frs とか 106,60Frs 払った場合は、店のひとをとまどわせるかもしれない。

 例2:52Frs の買い物をした場合
 駅などでは端数を要求する可能性が高い。現にきょう、ぼくは駅で Carnet を買ったけど(41 Frs)、「1フランないか?」と聞かれました。

 で、日本式に端数を払うための方法というかコツがあります。最初に「○○フラン△△(←端数分)あるよ」と宣言しちゃうんですね。こうすれば、たいていの店でも希望通り(?)の釣り銭がもらえると思います。
 例1であれば、こんな感じになります。

- Ca fait 46 francs 60, Monsieur.
- Euh... J'ai 6 francs 60
- Tres bien.
- Voila 6 francs 60...et ...cent francs.
(このとき、6,60Frsをまず出して、少し間をあけてから 100Frs 札を出す)
- Dix et cinquante, qui font cent francs!
(相手は、おそらく 60Frs と品物を添えて「100Frs」というはず)

 彼らの内的計算を推測するに、106.60 - 46.60 = 60 とはやっていないと思います。6,60Frs を確認して、まず 46.60 - 0.60 = 40 とする。だから、この段階で、彼らの脳裏には「40Frs のブツを売る」という変換が行われるんじゃないだろうか。で、店は「40Frs のブツ+60Frs の現金」とぼくの 100Frs を「交換」する、と。


1994年08月31日

 ちょっと説明すると、ビンについては専用の回収ボックスが、街のあちらこちらに置かれています。何種類かの大きさがあるみたいだけど、うちの近くにあるのは、直径が1メートルくらい。小さめですね。
 緑色で、角のビンを突っ込む口がぐるりとついており、そこからワインの空き瓶を突っ込むようになっています。でも、元旦翌日とか革命記念日翌日なんかは、たいてい、その周囲に入りきれなかったビンが溢れているんですよね。モンマルトルとかサン・ミッシェル、バスティーユあたりだと、破片が溢れていますが。


1994年08月26日

 ええ、このメッセージはパリから書いています。きょう、25日はパリ開放50周年記念日でした。F2の生放送(これは衛星で中継されるかな?)では、ミッテランの演説やら記念式典やらを行っています。空港からはリッチにタクシーを使ったのですが、うちの近辺はパレードのため、そこいらじゅうが通行止めで、結局、近くの交差点から荷物を抱えて帰ることになりました。
 約一ヶ月の日本滞在のあいだ、24回の宴会・飲茶と15回の会議・打ち合わせをこなしました。てなわけで、出発の日、25日朝はいつものごとく完徹……って、自慢にならんわな。まあ、YCATでリムジンに乗ったときなどは、完全なゾンビ状態です。首都高横羽線に乗ったところまでは覚えているけど、意識が戻ったときには成田の第一ターミナルまで来ていた。うんたらしているうちに搭乗、そしてまたまた爆睡。とりあえずメシを食らうときだけしっかり目覚めたのだけど、食い終わってからは再びゾンビ状態。意識が戻ったときには二本目の映画がおわりかけ、飛行機はすでにモスクワ近辺に達していました。
 コペンでは3時間半待ち。が、しかし、うだうだとは過ごせない。日本で書き終えることのできなかった原稿を、持参の PB520を使って作成。まあ、なんとか一時間半で終了。次いで、名刺の整理とかをやっていたら、再び睡魔が襲ってきた。荷物を枕にして仮眠状態。気が付いたら、飛行機の出発30分前になっていたのでした。


1994年08月08日

 サングラス、フランスの夏には必需品です。なんといっても日照時間が長い。おまけに10時の西日なんてのがあるんで、5〜8月はこれがないと辛い。
 フランスで買えばいいんだろうけど、日本人の骨格には日本製のほうがいいみたいね。安物を買うとコーティングがしていなかったりするんで、それなりのを買うといい。


1994年08月06日

 ファクシミリは会社やホテルにはかなり普及しましたね。むかしは仕事のアポをとるにしても、テレックスを泣く泣く使っていたけど、最近はほとんどファックスで用が足りてしまう。
 ぼくはプライベートの旅行でも、ファックスでホテルの予約を取っていました。そんなことがあるんで、旅行ガイドに載っているホテルの連絡先にも、電話番号だけじゃなくて、ファックス番号もほしいと思ったりします。二つ星クラスでもわりと入れているところが多いみたいだし。
 フランスでもこの2年でかなり機械は安くなりました。ぼくは2年前に買ったのだけど、当時で 3.600FTTCが底値。いまは機種によっては 3.000FTTCを切っていたと思います。
 感熱紙は thermo なんちゃらっていうのだけど、当然、A4サイズしかござらぬ。これに見慣れると、日本の B4 幅感熱紙が妙に不格好に見えてしまう。はよう、役所でB判使うのやめてくれんかな。


1994年07月28日

 いま、フランス時間28日0時20分ですが、あと11時間後にストックホルム経由で日本に向かいます。その間、アクセス不能になります。コメントその他は遅くなりますゆえ、ご了承ください。
 パソコンの調達でちょっとしたトラブルがありました。アメリカに発注したのですが、業者の手違いでパリ宛に送られてしまったのです。再度日本に向けて出荷してもらったのですが、その分、通信のセッティングが遅れることになります。順調にいって、次のアクセスは8月2日になると思います。


1994年07月25日

「ここに決めちゃったらどうですか?」
 Salem の煙をふっとゆらめかせながら、Mさんが言った。
 ぼくもそうしたいと思う。見せてもらった部屋は、広さも充分だし、中も綺麗だった。家賃も手頃で、しかも Gobelins あたりの環境は抜群によかった。ムフタール市場も近く、買い物の便も文句なしだ。
「でも——」
 ぼくはコーラの残りをひといきに飲み干した。ポール・ロワイヤル大通り交差点のカフェは、午後の太陽に熱をまともに浴びていた。パラソルは気休めにもならない。
「——九月からじゃないとだめだ、というのがね……」
 これだけが唯一の問題なのだ。これさえなんとかクリアできれば、いますぐにでも契約したいくらいだ。
「それなんですけど……」
 Mさんが煙草を灰皿にこすりつける。
「主人とも話したんですが、とりあえずウチに滞在しているという証明書をおつくりすれば、滞在許可申請はできるんじゃないですか?」
 え?
 そんな……。
 初対面と大差ないというのに、そこまで……と思った。
「せっかくフランスに住むんですから、こういういいところに住んだようがいいですよ」
 ぼくにはもちろん異存はなかった。
「七、八月なら短期のアパートやウィークリー・マンションで過ごせますでしょう?」
 そうすれば、九月から晴れてこの快適な地区にすめるのだ。
「うーん、でも、ご迷惑をおかけすることは……」
「書類を作るだけなら、明日にでもできるでしょう」
 願ったりかなったりだった。夏の間だけなら、住む場所はいくらでもある。滞在許可申請さえなんとかなれば、問題はなにもないといってもよかった。
「では……恐縮ですけど、そうして頂ければ本当に助かります」
「お互いさまですよ」
 Mさんが女神さまに見えた。
 こうして、ぼくは書類上、定住先を見つけることができた。
 夏の間に住むところは、JUNKU でアノンスをいくつかチェックした。そのひとつ、一番便利そうで、しかも家賃の安かったステュディオに電話をしてみる。
 明日にでも部屋をご覧になりますか、という返事だった。
 場所はポンピドー・センターのすぐ近くだ。なんだか話しがトントン拍子に決まっていくような気がしてきた。


1994年07月15日

 反射率の高いガラスの照り返しが厳しかった。
 夏至からまだ一週間しかたっていない太陽は、午後の三時近くになっても全然落ちる気配がなかった。気流がメキシコ湾流の湿気を運んできたのだろう。パリにしては蒸し暑い日が続く。
 イタリー広場の大きなロータリーを半周する。ちょうど周回を始めるあたりに、まるで青山の草月会館を思わせるような建物があった。天気がいい日にその反射率の高いガラスを見ると、まるで鏡を貼っているようにも見える。屋上部分には、何か変わったオブジェがあるようだ。
 正面を眺めてみる。
「パリで一番大きなスクリーン」
 ここには大きな映画館がいくつか入っている。そして、後からわかったことだが、建物は丹下健三の設計なのだそうだ。
 もちろん、このときはそんなことはつゆも知らず、石畳の巨大なロータリーを、汗をかきかき歩いただけだった。
 この日、部屋を見せてもらい約束のはしごをした。
 場所が Tolbiac と Gobelins——メトロの同じ線で、しかも二駅しか違わない。さすがに五日もあれこれ歩き回っていると、ただでさえ仕事の疲れが残っている体調にこたえる。まだ観光なら楽しむゆとりもあるのだろうが……。
 イタリー広場から Gobelins 通りはゆるい下り坂になっていた。ずっと先の方には、とんがったドームの建物が見える。多分、パンテオンだろう。
 広場から Gobelins まではメトロひと駅分あるのだが、街の雰囲気を知りたかったので、歩いてみることにした。
 ここのアパルトマンはどうせ九月からでないと入れないので、ほとんど参考程度に見るつもりだった。だから、街の雰囲気の良し悪しは特に問題ではないのだけど。それに、場所が13区だということなら、それほど大きな期待はなかった。
 変形五差路へ斜めにささる通りが、目指すポール・ロワイヤル通りだった。建物の番地表示を見ながら、待ち合わせの場所に向かった。三時にアパルトマンの前。
 一番地のところには、レストラン兼用のカフェがあった。
 その雰囲気は、シャンゼリゼやサン・ジェルマンのカフェと、何ら変わりがなかった。変な言い方だが、印象にあるパリのカフェそのものだった。
 テラスの白いテーブル、きゃしゃな椅子、黒いユニフォームのギャルソン——雰囲気のいいカフェのある街は、それだけでしゃれた感じがするものだ。大通りの街路樹もまぶしかった。
 あまり期待がなかっただけに、街の雰囲気がいっそう心地よく感じた。それを差し引いても、こんなところに住めればいいな、と思った。
(つづく)


1994年07月13日

 TGV のターミナルは、リヨン、オステルリッツ、モンパルナスの3つに、おととしの秋から北駅が加わりましたね。方角によってターミナルが違う。リヨン方面だとリヨン駅です。東京の感覚だと、東海道線、東北線、中央本線などのターミナルってとこじゃないでせうか。要するに山手線や中央線がないってことですね。
 TGV の食堂車は、ある便もあれば、ない便もあったんじゃなかったかな。
 N.S.F.3 には、TGV は TMVだなんて皮肉が載っていたんじゃないかな。


1994年07月12日

 きょう、日本に一時帰国する航空便の予約に行ってきました。1年オープンの帰りの便が残っているのだけど、この円高だと、それをうっちゃって別途欧日便を予約したほうが経済的なんですよね。
 安いチケットといえば、まずは大韓航空かAOMが浮かぶんじゃないだろうか? が、フランス発券だと、いま一番安いのはサベナ・ベルギーなんですよね(ダントツに安いアエロフロートを除く)。夏のピーク料金でもパリ東京往復(プリュッセル経由)は6200フランです。いまの為替だと11万5千円ぐらいですね。安いシーズンはもう千フランくらい安くなったんじゃないかな。
 当然ながらサベナ・ベルギーで予約しようと思ったのだけど、生憎と帰りの便が取れない。で、二番目に安いスカンジナビアを頼みました。これはコペン経由だけど、一番安いクラスで往復6300フランです。この日はHISで予約を頼んだのだけど、そのクラスの予約を確定できるのが、出発の10日前からなんだそうです。それで、とりあえずリクエストだけ入れてもらいました。
 ただ、万一予約が埋まってしまったときのために、押さえで予約したのがAOM便です。これが6700フランですから、SNより500フラン、一万円近くも高いことになる。この期間の大韓航空便は6995フラン、日航、全日空、エアフラはいずれも8000フラン超です。まあ、8000フラン超といっても、お盆のピーク時で往復十六万以下です。
 日本発料金で考えると8000フランてのは安く感じるけど、ヨーロッパ発で考えると、日本行きはダントツで高いですね。なにしろアメリカ西海岸往復が、エアフラ便で4000フランですから。


 あの機械は Bilingue なんです。ユニオン・ジャックを選ぶと英語画面になる。で、およっと思ったのが、英語画面にすると、入力用のキーボードもちゃんと QWERTYになる。芸が細かいなあと思いました。
 SNCFのシステムについては、前にポリテクニシャンの特集番組でもエリート支配の「悪い例」の一つとして出てきました。
 えげれすとドイツの自販機は、新札移行とともにお札を使えるものが増えているんです。偽札防止用に織り込まれている金属ストライプに、札の額面が記録されているんですね。札の画像認識は日本でしかできなかったのだけど、ストライプのおかげで、ポンドやマルクでも、読み込みができるようになったわけです。星の王子さまの新札が登場したとき、ひそかにこれを期待してたんですね。札に金属ストライプが織り込まれるというので。
 でも、フランは額面が刻印されていない。だから、自販機はあいかわらずコイン・オンリーでござる。
 まあ、治安とかを考えたら札は使えなくて当たり前なんだろうけど、自販機慣れした日本人には、やっぱり不便を感じるんじゃないかと思いました。


1994年07月11日

「Allo?」
「あ、あの、先日お手紙を書きました江下ですが……」
「あら、江下さん?」
「ども、お久しぶりです」
「4年前だったかしら」
「そうですねえ。今回はまた突然お手紙なんか出してしまって」
「ご遠慮なく。外国の生活はたいへんですから」
「それで、きょう、物件をひとつ見てきたんです」
「アノンスか何かに出ていたんですか?」
「OVNIに出てました。場所が Chateau d'Eauなんです」
「ええっと、10区だったかしら」
「そう、メトロ4番ですね。で、このあたりの環境なんですが……」
「ちょっと待ってくださいね。マーク!……」《なんだい!》《ムッシュ江下から電話で、Chateau d'Eau あたりの環境はどうかって》《Chateau d'Eau?
 庶民的なところだね、パリのなかでは》《治安とかはどうなの?》《ちょっと先にセックス・ショップがあるから、夜はどうかな……》《危険という意味?》《犯罪頻発という意味ではないけど、雰囲気は怖いと思うかもね》《初めて住むところとしてはどうかしら?》《フランス人にはわりと人気のあるところだけどね。買い物が便利だから。でも、日本人で初めて住むには、かなり慣れが必要だろうなあ……》
「聞こえました?」
「はあ、なんとか。まだちょっとディクテは怪しいですけど」
「彼が言うには、フランスに住み慣れてれば便利でいいところだけど、初めて住むにはどうかなってことなんですよ」
「実はきょう行ってみて、なんとなく街の雰囲気が重かったんですね」
「奥様もご一緒に住むのでしょう?
 だったら、どうかしらね……」
「ただ、滞在許可申請と家族VISA申請の問題があるんで、早めに決めないとまずいんです」
「あ、それはそうね。他に候補はあるんですか?」
「学校のある Cergyに一件。あとは9月以降なら Gobelins にも一件あるんです。でも、9月以降ってのだと、書類申請に使えません」
「Gobelinsならいいところよ」
「一応、見に行くだけはしようと思っているんですけどね」
「それ、いつですの?」
「あさっての午後です」
「あさっての午後……。わたしも同行しましょうか?
 お手紙を頂いたあと、いくつか調べてみた物件もお知らせしたいし」
「ええ、でもご迷惑じゃないですか??」
「あさっては時間がありますから。ご遠慮なく」
「うーん、じゃあ、申し訳ないですが、お言葉に甘えさせていただきます。なにしろツテがなくて困ってたんですよ」
「そうでしょうね。外国人でお一人じゃ……」
「では、申し訳ないですけど、あさって、お願いします」
「住所と待ち合わせ場所はどうします?」
「先方とは家の前で待ち合わせてますので、そこでいかがでしょう?」
「では、そこに……」
「午後の三時です」
「十五時ね……はい、わかりました」
「それでは、どうも夜分失礼致しました」
 電話の相手は、その4年前に一度、仕事で三日ほどアテンドをしてくれたひとだった。が、その後、二度ほどクリスマス・カードを送っただけで、特に親しく連絡をとっていた、というわけではなかったのだった。


1994年07月08日

 同僚とその先輩ってのは、山岳部出身である。それも学術登山なので、ヒマラヤ遠征などをおこなうときもある。現にこの同僚は、イン・パ国境の未踏峰七千メートル級に初登頂したことがある。が、精悍な山男のおもかげははなく、四歳になる娘にビール腹をつかまれる体型と化してしまった。
 先輩のほうは40歳という実年齢よりもだいぶ若くみえる。山岳部時代は途中から幽霊部員と化したそうだが、むしろ同僚よりも山男の雰囲気が残っている。この差はビールの消費量の差だろう。
 雑談の合間にも、客が次々と案内されてくる。
 ほとんどが日本人の団体や小グループだった。われわれが入場したころは、日本人の客が「多いな」ぐらいだった。もはや「ほとんど」になりそうな勢いだ。
 それにしても、20人以上のおじさん集団というのは、それはそれで迫力があるものだ。
 生バンドが幕にかくれ、半透明のカーテンがさっとかかる。ドラムがなり、カーテンに「LIDO」のロゴがレーザー光線で照射された。フランス語、そして英語でショータイムが告げられる。
 テーブルのわきは、下段との仕切となるように、ほぼ肩の高さの「長城」がめぐらされていた。そして各テーブルの位置には、茎のながい花のかたちをデザインした照明が置かれている。
 ショータイムのアナウンスが入ると、その照明が自動的に降りていった。したに吸い込まれるにつれて、花の茎のかたちがすぼんでいく。ついついそっちを見ている間、舞台には踊り子さんたちが登場していた。


「あらぁ〜、お待たせしちゃったかしらぁ?」
 頭の上から聞こえるような声……ではあったが、間違いなく目の前の女性から発せられたフォネティックであった。
 白黒の横ストライプのTシャツ、ミニのキュロットという姿。えらくほがらなか感じは、電話の声そのものだった。
「ええっと、早めにきてこのあたりをブラブラみていたんで」
 とかなんとか話しをしながら、われわれはアパルトマンの2階に向かった。
「部屋がね、とってもちらかっているみたいなの。でも、ちゃんと引っ越しのときは片づけてもらうから」
 本当に遠慮容赦なくちらかっていた。足の踏み場がなかった。正確にいえば、洗濯物や雑誌の間に、けもの道のような隙間があるだけだった。
 ドアからはいってすぐ左が台所だった。
 ここでも皿がアルプス状態だった。なにやら赤い残存物がこびりついている。南米の住民だそうだから、チリソースかなにかだろう。
 横幅はせまく、奥行きがそれにくらべてかなりあるという、フランスでは普通の台所だった。流しは掃除すればなんとかきれいになるだろう。
 ガス台はなく、調理器具はすべて電気だった。腰の高さまでの冷蔵庫、そしてコインランドリーにあるような洗濯機が置いてあった。
 右側にドッグレッグの形で部屋がつながる。われわれはけもの道を進んだ。
 居間にあたるスペースがほぼ六畳といったところだろう。突き当たりには窓、その左側に、寝室へとつながる入り口がある。
 寝室は五畳ほどの広さだった。ただ、小さな窓しかないのでえらく暑い。これじゃ、夏はたまらんだろう。
 寝室の隣の位置に、それよりもやは広い部屋がひとつ仕切られている。ただし、居間とその部屋は大きな木組の仕切があるだけで、ほぼシースルーの状態だった。
 部屋は片づければ、かなりゆったりとしていそうな雰囲気だった。家具付きで借りれるので、すぐにでも生活を始められる。ちゃんとして賃貸契約書を交わすことも確認してあるので、滞在許可申請でも問題はなかった。
 ただ、街の雰囲気がいまひとつひっかかったのだ。
 なんだかけだるい雰囲気がある。物騒というのではないのだが、どこか活気がない。いかにも場末というおもむきなのだ。
 あちこちに所在なげなひとの小グループがある。カフェの椅子がぼろい。
 街の雰囲気を知るにはカフェを見るのが一番なのだが、何軒かあるカフェは、どこも「ここの常連になろう」という気がおこらなかった。
 いろいろな店がおおいのは、確かに便利だと思った。パリでは珍しいという魚屋までが、アパルトマンの近くだけで三軒もあった。
 それにしても……なのだ。夏の日照時間の長いうちならともかく、冬になったら結構神経をつかう街なんじゃないか、という気がしてきた。
 でも、この街がどういう感じのところなのか、結局は自分の感覚でしか判断できない。誰か、パリ滞在の長いひとの意見を聞いてみたい。
 ……というところで、次回に続いてしまうのであった。


1994年06月08日

 パリ・メトロの終電は、終着駅に1時到着っていうのが目安ね。だから、始発駅を0時半ごろ出発って感じでしょう。
 RER でも同じぐらいだと思います。始発駅が0時頃かな。


 駅の出口のところでは、なにやら所在なげな酔っぱらいが4人ほどたむろしていた。階段には、物乞いとおぼしき老人が腰をおろし、顔をうつむけたまま、右手をずっと差し出していた。
 メトロ4番がレ・アールを過ぎ、さらに東駅を越えると、乗客の雰囲気が明らかに変化する。
 4番の停車駅といえば、左岸であれば、サンミッシェル、オデオン、サンジェルマンなどだ。花の5区、6区をつっきる。車内にはお洒落な雰囲気のひとが多い。
 ところが、レ・アールより北になると、浮浪者風の「乗客」が増える。その多くは、駅と車内を寝床にしているひとたちだ。酔っぱらいも多い。
 別に彼らが乗客に危害を加えるわけではないのだが、オデオンあたりから乗ると、雰囲気の変化に正直いって戸惑ってしまう。
 Chateau d'Eau の駅を出る。酔っぱらいたちの「とぐろ」を無視する。
 なんだか街がほこりっぽく感じる。そこかしこに、所在なげなひとたちがたむろする。カフェは場末のような雰囲気で、昼から「できあがっている」ひとたちが多かった。
 待ち合わせの場所は、アパルトマンの入り口だ。建物の位置は詳細な地図で確かめておいた。
 まずは、そこに向かう。
 駅からアパルトマンまで、ほんの2、3分の距離だった。狭い通りを50メートルほど進むと突き当たり。そこを右に曲がってまもなくの場所だ。
 あとでわかったことだが、この突き当たりの通りは、パリでも有名な食材店が密集するところだった。たしかに初めて訪れたこのときも、肉屋、八百屋、魚屋が多いことに気がついた。アパルトマンと反対の方向に向かえば、店の数はもっと多く、そして雑多だった。
 暑い。陽射しがしみる。
 小さなスーパーに入り、よく冷えた7UPをひと缶買った。一気に飲み干す。炭酸は気分がよかったものの、甘みがくちに残った。
 アパルトマンの場所はすぐに確認できた。
「庶民的」ということばを思い出した。
 近くには店がたくさんあり、いかにも庶民的な商店街のまっただなか、という雰囲気だった。それはそれで、生活の便はいいだろう。
 そこかしこにたむろする、所在なげなひとたちが気になる。別に彼らがなにをする、というのではない。が、パリ生活初心者には、正直言って、どことなく不安感を抱かせる光景だ。
 待ち合わせの場所にもどる。ランデブー時間の約2分前。
 ほぼ時間ジャストに、大家さんの日本人女性が到着した。


1994年06月07日

 フランスで銀行口座を開くのは、それなりの社会的信用が必要だ。住所確認がかなりうるさく、きちんと居住事実を証明しないと、口座開設はできない。
 自分宛の EDF/GDF、またはフランス・テレコムの請求書があれば、話しは一番手っ取り早い……どころか、身分証明書を提示しても、これらの書類の提示を求められるのが普通だ。
 さて、この時点でぼくは滞在許可証をまだ申請していなかった。ポンピドーのアパルトマンはバカンス貸し。要するに「もぐり」だ。この住所では、口座開設はおろか滞在許可申請さえできない。
 そんなことは最初からわかっていた。
 じゃあ、なぜそれを承知でそこを借りたのか?
 じつは「女神さま」がいたのだ。
 たまたまパリ市内に知り合いが一人だけいた。知り合いといっても、6年前に仕事でアテンドを頼んだだけだ。面識はあとにもさきにもその一度だけ。日本を発つ直前に、何年かぶりで手紙の往復をしただけだ。
 そのひとは、8年前からパリに住む日本人女性で、ご主人はCNRS付属研究所の理事を務めている。そのご主人にも、6年前の研究で少しお世話になった。
 でも、たったそれだけだった。
 パリに到着した3日後、彼女に電話で連絡をとった。オヴニーなどで見つけた物件をリストアップしたのはいいものの、立地条件がさっぱりわからない。周辺環境でも聞ければいいかな、と思って連絡したのだ。
 受話器を取ったのは彼女だった。名を告げると、手紙の往復もあったので、すぐにぼくだとわかってくれた。住処の相談にも親切に応じてくれた。
 この時点で、ぼくは10区 Chateau d'Eauにあるアパルトマンに、ほぼ決めかけていた。もう一軒、13区の Les Gobelins の物件もいいと思っていたが、電話をした時点で、すでにバカンス貸しが入っていた。9月以降ならば、ということだった。
 契約が9月になってしまうと、滞在許可の申請ができない。見るだけ見てみますかと言われたので、まあ、話しのタネ程度にと思い、とりあえずアポだけはとった。
 とにかく、住所を確定させないことには、滞在許可が申請できない。それどころか、カミさんの家族ビザの申請さえできないのだ。
 ひたすら即決優先だ。
 ほぼ8割がた、Chateau d'Eau に住むつもりでいた。大家さんはご主人がフランス人技師だという日本人女性で、電話で話していて、とてもほがらかな感じのするひとだった。とにかくことばに不安がある以上、ついつい日本人の大家さんをアテにしてしまう。
 件の知り合いに相談したところ、Chateau d'Eau は「庶民的な」カルチエだという。いまひとつニュアンスが分からなかったが、便利なところであることは間違いないそうだ。
 彼女に電話をしたあと、再度その大家さんに連絡した。部屋を見せてもらう約束を取り付ける。
 ほかにどうしても借りたいという日本人留学生がいるそうだ。
 大家さんは「できればご夫婦にお貸ししたい」と言ってはくれるものの、そこはやはり早い者勝ちだろう。見て気に入ったら、即、決める必要があると思った。
 念のため、カミさんに国際電話を入れる。状況を一通り話し、即決の了解をとりつける。カミさんのほうは、ぼく以上に状況がわからない。だから、結局「あなたにお任せ」するしかないのだ。
 部屋を見せてもらう当日、約束の時間より30分早く現地に行った。ホテルのあるオデオンから Chateau d'Eauまではメトロで一本だ。
 この日、やたらと蒸し暑かった。
 パリにしては、異様に湿気が多かった。普段はひんやりとしたメトロの駅も、朝からむんむんする空気だった。スラックスが、汗で足にへばりつく。ベルトでしめているあたりが、すこしかゆくなるような陽気だった。
 メトロ4番に乗って、Chatelet、Les Hallesと過ぎる。パリを何度も訪れたひとならわかると思うが、メトロ4番はレ・アールを境にして、車内の雰囲気が相当変化する。
 さてさて、いったい何が変わるのか?
 そして、街の雰囲気はどうだったのか?
 部屋は借りれたのか?
 あるいはライバルに一歩先行されたのか?
 状況はいよいよ緊迫……でも、話しは銀行口座からどんどん逸れる。
 が、大詰めは近いぞ。待たれる次回!


1994年06月04日

 Carte Bleueは……来なかった。二週間どころか、三週間たっても来なかった。
 その間の運転資金は、別に持っていたフランのTCで間にあったが、まとまった現金をいつも持ち歩くのがうっとうしかった。
 一ヶ月待った。
 まだ来ない。
 が、8月にはいってすぐ、7月分の取引明細が届いた。
 ちゃんと入金されている。ひと安心。
 残高、約24,500フラン。
 あれ、3万フラン送金したんじゃなかったの?
 と疑問におもうあなた。あなたの記憶はすばらしい。
 からくりは……というほど大袈裟なものではないけれど、こんなことがあったのだ。
 まず、五千フランだけはキャッシュで持ち帰った。なにも知らない外国の生活、現金は危険物であると同時に、お守りのようなものだ。
 これで残り25,000フラン。
 百フランは定期預金口座にまわした。これもちゃんと記録されている。
 残り24,900フラン。
 で、差し引き四百フランほどは、再送金手数料として天引きされていたのだ。
 シリーズの最初に書いた通り、一度フランスに送金された3万フランは、一度東京に送り返され、再びフランスに呼び戻されたのだ。最初の送金分については日本で手数料を払っているが、この呼び戻しについては、送金のなかから手数料を天引きされたのだ。
 ちょっと待った。勝手に送り返したのはクレディ・リヨネの方だろうが。なのに呼び戻しで手数料を取るのは変だろう?
 と思うあなた。江下もまったく同感であった。
 で、さっそくクレームをつけようと思った。
 しかし、どこにクレームをつけたらいいんだろう?
 心情的に、セルジー支店とやりあうのはいやだった。なにしろことばが出てこない。ことばの続かないクレームほど、さまにならないものはない。
 考えてみると、二度にわたって手数料を取ったのは、東京支店のほうだ。ここなら日本語で文句を言える。よし、攻撃目標設定。
 結論から言うと、クレディ・リヨネ東京支店はこっちの主張を認めてくれた。手数料の一方は、後日、日本の銀行口座に円換算して振り込まれた。
 はなしを戻す。
 とりあえず、一サンチームも欠けることなく、虎の子は口座に残った。
 が、カードなしではまったく使えない。当座預金だから、利息だってぜんぜんつかない。
 さすがにここまで事務が滞るのも変だと思い、セルジー支店の担当者に電話をかけることにした。事前に和仏辞典その他を調べ、想定問答を作成する。
 電話がなかなかつながらない。あとからわかったことだが、フランス人はちいさなことでもすぐに電話で確認をいれる。ひとつひとつの電話がこれまた長い。だから、銀行に電話をしても、すぐにつながるのはマレだ。
 この日も十回ほどトライして、ようやくつながった。
「メレさんをお願いします」
「私がメレです」
「あ、その、わたくし、あなたの日本人顧客、江下と申します」
「はい?」
「それで、クレームがひとつあります」
「それはなんですか?」
「申し込んだところのCBが届きません。ひとは申し込み後、二週間以内に届くと言っていました」
 ……という、まるで清水義範のようなやりとりを経て、なんとか要件は伝えたつもりであった。
 でも、心配だったので、同じ内容をファックスでも送った。
 さてさて、今度こそカードは届いたでしょうか?
 それは次回のお楽しみ。


 電車は Nuit St.George あたりを通過したようだ。
 隣のコンパートメントには、にぎやかなグループがいるらしい。なにかで大騒ぎしている振動が、背中越しに伝わってくる。
 菜の花畑のじゅうたんの間には、まだ伸びはじめたばかりのぶどうを連ねた畑がひろがる。線路の東側は、どこまでも平坦な畑だった。
 おそらくほとんど直線に進んでいるであろう線路にそって、道路が平行してはしっている。コンパートメントの反対側なので、車の流れはほとんど見えない。どうせほとんどまばらだろう。
 ほんの三時間ほどまえ、小杉さんを送るためにディジョンまで行ってきたばかりだった。ロンドンに帰る小杉さんは、ディジョンからパリまで一足先にもどったのだ。
 われわれは小杉さんを送ったあと、車を返すためもあってボーヌに引き返した。乗り捨てで借りておけば、こんな面倒なことはしないですんだ。借りるときは、そこまで頭がまわらなかったのだ。
 もっとも、ボーヌなら引き返すだけの魅力は十分にある。
 でも、いまははやくパリに帰って、ごろりと横になりたい気分だった。胃の方はあいかわらずもたれている。

 * *

 ときおり小雨がふるなか、ディジョンの市街にはほとんど留まらず、ボーヌ方面に向かった。別れた小杉さんにかわって、町田さんが運転する。
 町田さん、左ハンドルはひさしぶりだそうだ。それでも、田舎の幹線道路なので、いちど動いてしまえばあとはスムーズにいったようだ。
 途中、Clo de Vougeotに寄る。
 前日訪れたときは、すでに見学時間が過ぎたあとだった。管理人が門のところにいて、明日の朝にでもいらっしゃいと告げていた。建物や畑の写真は撮らせてもらったが。
 この日は再挑戦というわけだ。
 ディジョンに向かう途中で寄れば、小杉さんもいっしょに見ることができた。
「それは次の楽しみにとっておくよ」
 小杉さんも仕事と遠足の連続で、ちょっと疲れ気味だった。
 畑の間のせまい道を抜け、城の門の前にたどりつく。車がすれ違えるくらいの幅の出入口を、団体客がぞろぞろと通過する。なまりの強いフランス語だったから、南仏あたりのバスツアーだろうか。門の前には観光バスがとまっていた。
 彼らが全員通過したあと、町田さんが車を動かし、われわれは城の前にある駐車場に向かった。
「だめだよ、ついてないな」
 思わずこぼしてしまった。
「え、閉まってるの?」
 町田さんが少しがっかりしたような声でいった。
「いま昼休みですよ」
 入り口の案内をみたら、ちょうど5分前から昼休みにはいったところだった。次の見学時間は2時間後。これではレンタカーを返せない。
「引き返しますか」
 カミさんとふたりでうなずく。
 この Clo de Vougeot のすぐさきには、試飲のできるシャトーがあった。とりえず車でそこに向かう。せっかくブルゴーニュまで来たのだから、試飲ぐらいはしてみようということで意見が一致したのだった。
「ああ、いまちょうど満員なの。入れないわ」
 駐車場に車をとめた直後に、シャトーのなかから女性が告げた。
「待ってても無理?」
「お客さんたち、いま入ったばかりだからね」
 彼女がシュラッグした。
 多分、Clo de Vougeotで入れ違いになった団体客が、ここでワインの試飲をしているのだろう。
「仕方ないか」
 またしても三人でうなずきあう。
 彼女に向かって手をあげ、ひところ礼をいい、すごすごと車に戻った。


1994年06月03日

 ——疲れた……
 寝たらあかんと思いながら、RER の揺れが睡魔を繰り返し呼び寄せた。シャトレに着いた頃には、ほとんど眠りかけていた。
 レ・アールの地下階から長いエスカレータを乗り継いで、ようやく地上に出た。午後7時を過ぎたというのに、まだ日が高い。夏至を二週間前に過ぎたばかりだ、日没まで、あと二時間はあるだろう。
 出口のかいわいに大道芸が二グループほど。四重の人垣が取り囲む。
 疲れた足どりで、その横を無関心に通り過ぎる。噴水のある広場を正面にすえて左に向かう。マクドナルドには行列ができていた。石畳の歩道の先に、ポンピドーセンターが姿をあらわす。
 バカンス貸しで見つけたアパルトマンが、駅のすぐ近くで助かった。ポンピドーセンターまでは徒歩一分というこの新しい住みかまで、観光客にまじって向かう。バーガーキングのところで、狭い一方通行の路地を左に向かう。
 コード番号を入力して玄関を開け、郵便物をチェックする。それから鍵をつかって内扉をあける。「内側」に入ってからは、階段を五階分登らにゃならん。気が重い。
 ようやく部屋の前にたどりついてから、真ん中の鍵、上の鍵、下の鍵と、みっつのロックを解除する。下の鍵が引っかかるので、それだけではなかなかドアは開いてくれない。
 この日も、ドアはきちんとしまったままだった。
 下の鍵のあたりをけっ飛ばす。ドアが内に開くと、それが空気を吸い込むような勢いを生じさせ、なかの部屋を仕切るドアまで空けてくれる。仕事がひとつ減った。
 カナッペのうえでまずは横になる。そして、書類入れからクレディ・リヨネの口座開設契約書をながめる。
 この書類にサインするまで、およそ一時間はかかっただろうか。おれがこれだけ疲れたのだから、係員はもっと疲れただろうな、と思った。
 多分、同じことを五度は繰り返し説明してもらっただろう。なにせカネがらみなので、あいまいな返事はできない。
 係員は、ぜんぜん嫌そうな顔もみせず、何度も説明してくれた。これでクレディ・リヨネがなんとなく好きになった。
 どうやら、当座預金口座は無事に開けたらしい。おまけに、非居住者では開設できないはずの定期預金口座まで開けたらしい。そして、どうやら Carte Bleueも申し込めたらしい。
 全部「らしい」なのは、契約書にサインしたあとでも、確信が持てなかったからだ。
 日本とシステムが違いすぎる。
 ハンコがないっていうのは当たり前だ。しかし、預金通帳までないっていうのは意外だった。残高は毎月取引明細を郵送してくれるっていうけど、むしろカネの出入りの都度わかった方がありがたいと思うのだ。行員は自動窓口で確認できるとはいうが、これはカードがなければ話しにならない。
 ということで、契約はかわしたけれど、カードを手にするまでは、実感が湧いてこないのだ。
 現金は敵の手中にある。カードはまだない。二週間以内に届くとはいうけれど、なにしろフランス人のやる仕事だ。届いてみなければわかったもんじゃない。
 さてさて、果たしてカードは無事に届いたでしょうか?
 それは次回のお楽しみ。


1994年05月24日

 教室に試験問題が残っていたので、その一部をご紹介:

Universite de Paris I Pantheon-Sorbonne
Maitrise d'Econometrie et Magistere d'Economie
Cours de Microeconomie et Calcul Economique-Annee 1993-1994

Interrogation
 Exercice 1

 Une entreprise publique de telecommunications en situation de monopole sert deux categories d'usagers. Les fonctions de demande de chaque categorie s'ecrivent :
   Y1 = 3/2 - p
   Y2 = 1 - p
 ou p represente le prix unitaire des communications telephoniques et Y1, Y2 designent le nombre de communications de chaque categorie. La fonction de cout total s'ecrit :

   CT(Y) = 1/4 y + 3/8
 ou Y = Y1 + Y2 represente le nombre total de communications.

1) a) Determinez en fonction de p :
    le surplus total de chaque categorie d'usagers
    le profit de l'entreprise
    le surplus collectif.
  b) Comment varie le surplus collectif avec p?
  c) Calculez le surplus de chaque categorie d'usagers ainsi que le profit de l'entreprise lorsque le prix des communications est choisi de maniere a maximiser le surplus collectif.
(以下省略)

 Maitriseの試験だから、経済学部4年生が対象ですね。


1994年05月18日

 困った。
 なにしろ困った。
 このままでは、3万フランのキャッシュを「お持ち帰り」になりそうだ。しかも、口座がないと、日本からの送金にも困る。
 なんて交渉したらいいんだろう。
 と、ディレクター——前回の「おっさん」はお偉いさんだったのだ——の方からはなしかけてきた。
「うちで口座を開けなくても、トーキョー銀行ならできるんじゃないの?」
 たしかに。
「ええ、でも、学校がここの近くだから……」
 このひとこと、ディレクターにちょっとしたインパクトを与えたようだ。
「学校?
 大学?」
「大学っていうか、ESSEC ですけど……」
 おっさんの態度が手のひらを返した。
「なんだ、ESSEC の学生なのか。じゃあ、口座を開けるよ」
 ええ?
 だって、まだ滞在許可を持っていないのに……。
「担当は……えっと、メレ君だったね?
 きみ、案内してさしあげて」
 こっちがきょとんとしているあいだに、手近の行員に支持していた。
「あのお、口座を開ける……?」
「当然さ。今後ともよろしくお願いしますよ」
 握手までされてしまった。
 あとからわかったことだが、フランスでは銀行口座を持つこと自体が、ひとつの社会的信用なのだ。だから、口座開設を断られたり、開設できてもいろいろな制約を設けられることが少なくない。
 大学キャンパス近くの大銀行の支店だと、たいていは、そこの学生専用の担当者がいるらしい。とくに ESSECのようなグランゼコールのひとつになると、専用担当者が学費ローンや財テクの相談にまで応じているのだ。
 このあたり、フランスでは客をはっきりと「区別」している。
 日本人は「金持ち」という印象を持たれているおかげで、パリ市内ならわりあい簡単に口座を持てるらしい。クレディ・リヨネのパリ中央支店には、日本人顧客の専用担当者までいるくらいだ。はじめからこのことを知っていれば、ぼくはここに送金し、口座を申し込んでいたのだが。
 ふたたび上のフロアに戻る。
 担当のメレ氏はバカンス中だった。ディレクターの指令があったのか、メレ氏の代理がぼくの口座開設事務をしてくれることになった。
 待ち行列五人をおしのけ、いきなり椅子をすすめられる。十個の冷たい視線は気にしないことにしよう。C'est pas de ma faute.である。
 銀行にやってきてから、すでに一時間は経っただろうか。
 でも、カネを回収し——現金はまだ窓口にある——、口座開設の手続きまでたどりついた。
 しかし、このときのぼくの語学力は、ほんとうにあやういものだった。なにしろ来仏まだ一週間。その以前は、ほぼ半年のブランクがあった。
 いざ事務手続きにはいっても、あいての言うことがほとんど理解できない。おまけに、申込書に書いてあるもろもろの用語もわからん。伝票の virement って単語だって、知らなかったくらいだ。
 しかもこの当時、パソコン通信で口座開設の苦労談を聞かせてくれるひともいなかった。要するに、なーんもわからん状態だった。
 さてさて、簡単に口座は開けたでしょうか。それは次回のお楽しみ。


1994年05月16日

 翌、7月2日、こんどはショッピング・センターの窓口に向かった。
 フランス名物の長蛇の列だ。メモに書かれた女性の名札を探したが、どこにも見あたらない。しょーがねーな、と思いつつ、列のひとつに並んだ。
 ひとつ注意すると、日本みたいなカウンターは、現金取り扱い窓口しかない。あとの細かい「ご相談」は、すべて行員と机をはさんで交渉する。その机の前に、行列ができるのだ。
 待つこと三十分、ようやく自分の順番がきた。
 メモを見せる。
「あ、彼女なら、下のフロアーだよ」
 あっさりひとこと。
 あんたじゃだめなの?
「これ、ぼくの担当じゃないから。……はい、次のひと」
 三十分は一瞬で消えた。
 下のフロアーに降りる。
 メモの女性はほどなく見つかった。ツボにはまったときのフランス人の仕事は早い。彼女は部下の行員にてきぱきと命令し、二十分ほどで、ぼくは3万フランを回収することができた。
 が、ここではたと考えた。
 窓口の向こうで、500フラン札の束を行員が数えている。
 いくらなんでも、そんなキャッシュの山を持って帰るのはたまらん。
 札束をいままさにわたさんとす、という体勢の行員を制した。
「あのお、そのまま口座を開いて預けられますかあ?」
 一瞬彼は、え?
 というような表情を浮かべた。
「うん、もちろん。ちょっと待っててね」
 担当者に要件を告げにいったのだろう。
 ほどなく彼はもどってきた。ずいぶんと貫禄のあるおっさんと一緒に。
 交渉は、このおっさんが引き継ぐことになった。
「ええっと、うちの支店で口座を開きたいとか?」
 いっておくが、この交渉は、窓口の行列のあいだ、たちっぱなしでおこなわれたのだ。
「はい、どうせ口座が必要だから」
「きみは外国人のようだけど、滞在身分は?」
「学生です。長期ビザも持っていますよ」
「パスポートを見せてもらえますかな」
 どうぞ、と言って、長期ビザを貼ったページを見せた。実はこの時点で、まだ滞在許可証は申請すらしていなかったのだ。
「まだ、滞在一年経っていないね」
「先週着いたばかりですから」
「ふうむ、そうなると、口座を開くわけには参りませんね」
 げげ。あのキャッシュを持ってかえらにゃならんの??
 おまけに、銀行口座なしで暮らせというのか?
 でも、たしか「地球の歩き方」には、非居住扱いで口座が開けると書いてあった……。
「でも、たしか non residentielで口座を開けるはずでしょう?」
「非居住で?
 いいや、うちでは認めていないよ」
 形勢があやうい。
 こっちにも滞在許可を持っていないという弱みがある。
 やはり3万フランはお持ち帰りテイク・アウトになってしまうのか?
 一年間、銀行口座なしで暮らさなければいけないのか?
 さてさて、おっさんとの交渉はどうなる。待たれる、次回——


1994年05月14日

 二年前のこと。
 日本から支店どめ送金した3万フランを受け取りに、セルジーまで行った。
 カネを手にするまで、ひと波乱もふた波乱あった。
 そもそもクレディ・リヨネ東京支店で送金する際、セルジーに支店が三つあった。どれが駅のちかくで、どれがショッピング・センター内かなんて、てんでわからん。
 取りあえず、適当なのに送った。
 これが序幕。
 さてさて、「6月末ころ、本人が受け取り」という条件で送金したんだけど、ぼくは7月1日にセルジーまで行った。
 住所をみても、わけわからん。
 ためしに、パリで泊まっていたホテル近く、サン・ジェルマン支店で尋ねた。
「セルジーこの支店にはどう行くの?」
 けんもほろろの扱い。
「なんでそんな支店のこと、あたしが説明しなきゃいけないのよ!」
 で、なにはともあれセルジーまで行って、駅とか通行人とかに尋ねまくり、ようやく支店までたどりついたのであった。
「サムライ・ビル」という建物だった。
 が、市街地からちょっとはずれたその建物、いわゆる銀行の雰囲気ゼロ。窓口もなければ、客の姿も見えない。客の姿どころが、建物に入るにも、インタフォンで要件を告げにゃならん。
 いくらなんでも、こりゃ、変だ。でも、3万フラン——当時のレートで75万円を回収せにゃ……。
 インタフォンで要件を告げると、親切な行員がひとり出てきた。それから、個室になっている、映画なんかでもお馴染みの事務室に案内される。
 まあ、彼は親切だった。それに、ぼくが会社の名刺を出すと、親切な態度は、一層、丁重さを増した。名刺に刷ってあった、三菱マークのおかげだった。なんでも、三菱グループがクレディ・リヨネの主要顧客なのだそうだ。
 このあたり、フランス人は顧客をはっきり「区別」する態度をとる。
 伝票を見せて、「お金ちょうだい」と言うと、彼は困ったような顔をした。
「だって、ここ、現金を扱ってないよ。なんでトーキョーは、こんなとこに個人の送金をしたんだろうねえ?」
 げげ。おれの3万フランはどーなる??
 わしゃ、ひきつった。ありったけの表現で訴えた。で、彼も親切だった。
 なにやら秘書に命じ、秘書が端末をしばしたたいていた。
 彼がにっこり。
 なんでも、ショッピング・センターの方にそのまま転送したんだそうだ。だから、そっちの窓口で引き取れる。
 ほっ……としたのも束の間で、秘書が「Attendez!」とひとこと。
 えらい早口で彼になにやら説明している。
 彼が表情を少し曇らせ、彼女の説明を繰り返してくれた。
「そのお金、きのう、トーキョーに返しちゃったんだって」
 愕然。
 その横で、彼女がふたたび端末をたたく。そして、紙になにやらメモり、今度は電話で誰かと交渉を始めた。
 一連のやりとりは1分ほどだっただろう。きっと。
 結局、彼女のすばやい対応で、前日トーキョーに帰国した3万フランは、翌日、あらためてフランスに再上陸できることになった。そして、ショッピング・センターの支店の担当者に連絡し、彼女にこのメモをみせれば、万事OKというようにしてくれたのだった。
 めでたしめでたし。
 さてさて、江下は無事3万フランを手にできたでしょうか。それは次回のおたのしみ。


1994年05月13日

 郵便局を使ってフランス在住の人に支払う方法は、

(1)銀行の口座振替と同じ方法
(2)郵便為替(Mandat)を使う方法(一種の送金小切手でっせ)

 この二つがあったと思います。ただし、日本の郵便局がフラン建てMandatを扱っているかどうかは知らない。多分、扱っていないんじゃないだろうか。
 フランスから何か直接購入する場合、支払いの方法は次の三つのどれかになるんじゃないかな。

(1)指定口座への送金(銀行または郵便局)
(2)送金小切手の郵送(フラン建て送金小切手を作成)
(3)国際クレジット・カードの利用

 方法1だと、当然ながら相手の口座番号を教えてもらい、外為取扱い銀行に行って、フラン建て送金または円建て送金を頼む。円建て送金をすると、相手側口座に入金される際に、フランへ換金されるはず。まあ、普通はフラン建てで送金するでしょう。方法2だと、クレディ・リヨネとかインド・スエズなど、フランス系の銀行に行って、送金小切手の作成を申し込む。その場で作ってくれます。
 学校などへの前払い金などは、この送金小切手を使うことが多いんじゃないかな。ただ、手数料が高い。だから、少額だととてもとても損をした気分になる。確か、二千〜四千円くらいしたんじゃないかな。


1994年04月26日

 在パリ約二年が経過、メトロの切符は出口でぽい、焼き栗は殻をすてながらむしゃむしゃ、さくらんぼの種はそこらにぺっぺ、赤信号はもとよりしらんぷり……シンガポールには滞在できないと覚悟するこのごろ。


1994年04月23日

 うちのカミさんは、もっぱら「Info Matin」を愛読(?)しています。ぼくもこれが一番気に入ってます。FIGARO や Le Mondeも面白いと思いますが、読みやすさの点ではこれが一番じゃないかな。
「Info Matin」は去年創刊されたばかりの新しい新聞です。ほかの新聞よりも安うおまっせ。


1994年04月09日

 以前、ドイツに出張で行ったときのことでした。季節は5月上旬、夏至の一ヶ月半前で、日の長い季節です。ニックスドルフの本社を訪問したのですけれど、対応してくれた部長の話では、サマータイム中、就業時間は午後四時半までにしているそうです。サマータイムでただでさえ日が長いのに、就業時間がこれですから、仕事が終わってもまだお天道さまが空高いんですね。社員たちはサッカーやラグビーで一汗流し、それから冷えたビールをくいっと干す。その頃ようやく日が西の空低くに傾くといった案配なんだそうです。こりゃ、風俗営業の入る余地の少ない健全さ(それがいいか悪いかは別問題ね)だと思ってしまった。
 フランスだと、六月の頃ともなると、天気は安定しているし、風はひたすら心地よい。カフェのテラスで午後十時の夕日(!)を浴びながら、時間を忘れて雑談ですね。この倦怠感がたまらんのですわ。去年書いたと思うけど、六月に河原でやった Mechouiは「暗くなるまでね」と知らされていた。暗くなったのは、夜中の一二時だった。
 ひるがえってわがニッポンを考えると、仕事が終わったらもう空は暗い。梅雨時ともなれば、暗いそらにじっとりした湿気。こりゃ、やっぱりガード下か屋上か。
 ぼくは星空を望遠鏡で眺めるのが長らく趣味だったので、夜の長い季節の方が好きです。でも、巴里の六月の倦怠感は、ほんと、たまらん魅力ですね。


1994年04月07日

 今年もフランスは異常気象ですね。このあいだは雹を伴う雷雨があったかと思うと、最低気温が一気に1度までさがりました。その前日にはセーヌ川でトップレスのひなたぼっこ姿もあったのに。
 先週の水曜、17区にある ORYX Micro という店に行きました。途中、八重桜が咲いていましたねえ。ウチのアパート近くの街路樹に巣をつくったカササギ(だと思う)が、いよいよ巣作りに本腰をいれたようです。
 すでにサマータイムなので、午後9時でもまだ薄明が残る巴里でござる。


1994年03月31日

 郵便局から、国際料金表をもらってきました。フランスから Zone 5 (アジア全域がここに属する)向けの郵便料金は以下の通りです。

Poids jusqu'aService PrioritaireService EconimiqueNota Bene




20 g4,70 F--葉書はここに含まれる
40 g8,70 F---
60 g14,00 F---
80 g15,00 F---
100 g16,00 F10,50 F-
200 g30,00 F18,50 F-
300 g47,00 F27,00 F-
400 g52,00 F30,00 F-
500 g57,00 F33,00 F-
750 g91,00 F56,00 F-
1.000 g103,00 F63,00 F-
1.250 g138,00 F83,00 F-
1.500 g150,00 F90,00 F-
1.750 g163,00 F98,00 F-
2.000 g175,00 F105,00 F-
2〜30kg は窓口にて尋ねる

 Service Prioritaire とは通常の航空便のことです。Econimique は窓口の説明によると、航空便、船便、鉄道便を組み合わせたサービスだそうです。たしか、日本発でもシベリア鉄道便を使う欧州向け国際郵便サービスがありませんでしたっけ?
 料金はご覧の通りです。Econimique だと約4割安くなります。
 パリ発東京着の所用日数は次の通り。パリ以外発・東京以外着の場合は、国内郵送の日数が加算されるはずです。

 Service Prioritaire:原則として5日間
 Service Economique :原則として13日間

 ぼくの経験だと、Service Economique でもすいている時期なら、Prioritaire 並みの期間で到着したことがあったように記憶しています。ただし、フランス国内で鉄道のストなどがありますと、Service Econimique の扱い優先順位は低いので、日本まで一ヶ月もかかった、なんてケースもまれにあるそうです。
 なお、割安料金としては「印刷物扱い」(Objet Imprime.)があったと思いますが、貰ったパンフレットに記載はありませんでした。ただし、ぼくの記憶では、100 g 以上は Service Prioritaire と同じ料金だったと思います。
 残念ながら、船便の料金表はなかった。そういや、SAL の Sの字もなかったな。

1994年03月28日

 ワープロの魅力は、なんといってもカスタマイズされたところ、パソコンの魅力は何にでも使えるところですね。最近はどっちも安くなってきたので、もはやどっちがいいという時代ではなく、TPOによってどう使い分けるか、という時代だと思うんですよ。
 ワープロの旨みは、スイッチを入れるだけで文書作成を始められる、プリンタもくっついていることが多いこと。完結した一つのパッケージですね。モデム内蔵が増えているので、携帯用には最高です。日本語処理も本当に洗練されてきた。
 一方、パソコンは日本語WPも使えれば、英語WP、フランス語WP、何にでも使える。だから、あれを使ってこれを使って、という人にはほんとうに重宝します。
 ぼくが思ったのは、パソコンでもワープロでも、便利だと思ったらさっさとかっちまえばいいと思う。もちろん、懐具合と相談しなければいけないけど、二者択一的に考えるのではなく、どっちを選んでも絶対にメリットはあるって考えるのが正解だと思うんですね。中古を利用するのも一つの選択肢だな。
 ということで、機種に対する思い入れはしばしば「宗教戦争」に例えられますが、ぼくは「神さまを信じれば、宗教なんて関係ないさ」と考える次第であります。ははは、無節操なのだ。


1994年03月27日

 フランスにある程度長く住むつもりならトランスは必需品ですね。220/240→100V のトランスは帰国売りで入手できます。フランスの店でももちろん買えます。ぼくは 1200Wの大型トランスを日本から持ち込み、先住者の使っていた小型トランスを1個そのまま譲ってもらいました。
 小型トランスはシェイバーの充電用、大型のほうは常時固定して、モデム、ラジカセ(これも日本から持参)、ときにはホットプレート(これも日本から輸送)、NiCd電池充電などに使っています。あ、だから日本から電源のふたまたと延長コードだけは忘れずもってこなきゃだめ。こればっかりは、フランスでは手に入らない。
 ぼくに限らず日本から電化製品を持ち込む人は案外と多い。帰国売りで 100V 対応のミニコンポとかNTSCテレビなんかもあるし。
 アパートなどに住むのであれば、電話線の接続も全然心配いりません。ミニテルが出回っているおかげで、どの家でもたいていフランス・テレコムのジャックになっていますから。モジュラージャックとのアダプタは簡単に買えます。ホテルはまずだめだけどね。ぼくは結局公衆電話からポケットダックでつなぎました。まあ、アパートに住むまでのことだから、その間は我慢すりゃいいんだし。


1994年03月26日

 例文を提供いたします。この手紙を送って実際に引き落としがされているので、多分、意図するところは通じたのだと思います。
 ほかにも何かあったんじゃないかな。探してみます。


Paris, le 7 janvier 1994
ESHITA Masayuki
 (l'adresse de client)
 No.de compte : ******
CREDIT LYONNAIS
(nom d'agence)
(l'adresse d'agence)
Monsietur,
 Je sollicite, par ce courrier, l'autorisation d'utiliser mon compte a executer le prelevement automatique du loyer pour une periode de onze mois : a partir du mois fevrier jusqu'au decembre de l'annee 1994.

Les presentations qui seront faites au credit sur mon compte vont etre les suivantes :

le montant *.*** Frs./mois
  nom de crediteur Monsieur (nom de proprietaire)

Mon compte sera debite comme chaque mois, le premier jour du mois.
 Vous trouverez ci-joint un R.I.B du crediteur.

Je vous prie d'agreer, Monsieur, l'expression de mes sentiments distingues.
 
ESHITA Masayuki (signature)

 N.B : R.I.B = Releve d'Identite Banciare(口座証明書)

1994年03月23日

 ぼくは口座開設2週間後に、小切手もインターナショナル・タイプのCBも発行してもらえました。ちょっと郵送の手違いはあったけど。ついでながら、本当ならレジデンシャルでないと開設できない定期預金口座まで作ってくれたのだった。まあ、フランスだから(笑)。
 フランスの銀行では、クレディ・リヨネが日本人顧客獲得に熱心です。パリ中央支店には日本人専用の担当者がいます。


1994年01月14日

 舌禍事件をおこしてしまった。
 加害者も被害者も自分自身。
 だけど、深く傷ついてしまった。
 食べるものも、満足に喉を通らない。
 後から悔やんでも仕方がないが、
 朝飯くらいゆっくりかんで食えばよかった。
 そうすりゃ、舌をかまずにすんだのに……


1994年01月03日

 今日(3日)から早くも講義が始まってしまうのだ。
 Pantheon-Sorbonne の授業は来週からなのに、Orsay が早々に始まってしまう。
 くそ。去年の方が休みは長かった……。考えてみれば、会社に入ってからも4日までは必ず休みだった。もしかすると、1月3日から否応なく平常活動に戻るなんて、34年間で初めての経験かもしれない。
 あ、そういや何か夢をみたはずなのに、すっかり内容を忘れていた。年末のあわただしさがないものだから、初夢なんてことを思いつきもしなかった。


1993年12月26日

 おととい、ミッシェル宅で Jean-Luc に会ってきました。なかなかに剽軽で、はっきりとした口調のしゃべり方。年齢27才。いやー、面白い男だった。盛んにミッシェルをからかうんですよね。仕事の上では、一応、ミッシェルが上司ってことらしいけど。
 特に二人ともジャズが好きなんだけど、Jean-Lucは盛んに「ミッシェルの趣味はボクの父親の世代と同じだ」ってからかう。それでミッシェルが、「じゃあ、これ聴いてみろよぉ」ってムキになって別のディスクをかけると、Jean-Lucは手をひらひらさせて、「Pas mal...」。絶対に誉めようとしないのがおかしい。
 アルコールが入ると、Jean-Lucはミッシェルの酔っぱらったときのチョンボを次々と暴露し始めました。


1993年12月23日

 フナックはファミコンやらメガ・ドライブが山積みになっています。6年前にゲーム・マシン市場を調査に来たとき、フランス人のアナリストは口を揃えて「あんな高いおもちゃがヨーロッパで売れるものか」と自信満々に語っていたことを思い出します。ファミコン山を見て、江下はほくそえんでしまった。いまや「ニンテンドー」はホンダ、ソニーをしのぐ知名度ですからねぇ。友人に「ニンテンドー」と「シセイドー」の「ドー」は同じ意味だと教えたら、とてもとても不思議そうにしていました。


1993年11月30日

 フランス・ニュースダイジェスト no.198 に家庭ゴミ処理の問題が挙げられとった。データが出てましたので、ご紹介致します。

焼却埋立推肥リサイクル





スイス5912722
ドイツ3646216
スペイン6651713
フランス4245103
イギリス89002

 ドイツ、スイスはリサイクルで頑張っていますが、ドイツは再処理をフランスなどに委託しているそうだ。フランスの場合、焼却による熱エネルギー利用が重視されとるらしい。これはこれで合理性があるかもしれない。イギリスも焼却派だということ。

1993年11月28日

 ぼくが住んでいる場所は Les Gobelins ですから、Censier Daubentontの隣り駅です。通っている場所は Pantheon の正面向かって左手前と、Sorbonneの端っこ、リセ Louis le Grand の並びの一角です。
 当初はバスで往復していました。Gay Lusac で下車し、St.Jacques通りをリセ Louis le Grand まで下って行きました。
 三週間前からバスをやめて徒歩にしました。歩いても20分足らずだということに気づいたのです。当初は Port Royal通り から Claude Bernard 通りに出て、Gay Lusac 通りとぶつかるところで ULM通りに入る。Ecole Normale Sup-rieureや Institu de Curie の横を通るというルートでした。先週からはそれを変更、Mouffetardを突っ切ってリセ Henri IV の横に出て、これを回り込むように左折すると Pantheon の正面左側に出る、というルートです。Henri IVの手前で右折すれば、Place de Mongeに出ます。
 まるで Sans Frontier 1に出てきそうなルート(笑)
 ムフタールも季節柄か、七面鳥の姿が目立つようです。寒くなれば寒いほど、牡蛎が旨そうに見える。ぐびり。細切れ肉はウチでも時々買いますが、安いのはスジが多くって。徹底的に煮込まないと、歯がクタクタになってしまいます。
 現在所属する Paris Iは本当は法科大学なのに、なぜか UFR mathematique et informatique があります。クラスの構成は Jussieu出身者がメジャーですね。尤もぼくも Paris I にするか Paris IVにするか、ちょっと考えました。


1993年11月22日

 分別回収なんてのは全然しとりませんねん。
 最初はとまどいましたね。流しではついつい習慣で、燃えるゴミと燃えないゴミとに分別したのですけど、結局関係なかった。
 アパートでのゴミ回収方法はシンプルです。中庭か RDCのすみっこに、緑色の高さ 1.2メートル、50センチ四方くらいのポリ容器が置いてあります。住民はその中に燃えるゴミも燃えないゴミ(除く瓶)を随時入れる。大抵、朝か夕方でしょうか。
 回収時間になると、gardien はその容器を表に出します。容器の下には車輪が二つついており、管理人は容器を少し傾けるだけで、簡単に移動させることができる。回収車は日本のタイプとちょっと異なり、巨大なマジックハンドのようなもので容器を持ち上げ、荷台の上でクルっと回転させてゴミを回収する、ってタイプだったかな。一日に何度も回収車は巡回し、一番遅い時間で夜十時くらいだったんじゃないかなあ。
 瓶の回収ボックスは同じく緑色をしておりまして、1.2 メートル四方位の大きさです。随所に台所の配水口みたいな投入口がついていますが、すぐに満杯になるらしく、容器の周囲にはいつも空き瓶が放置されています。この回収ボックス自体、そんな大量にあるわけではない。ウチの最寄りのボックスは、百メートルほどモンパルナスに向った所にあって、捨てに行くのが結構面倒。
 粗大ゴミ置場はさすがにあります。ウチの近くにはないけど、以前、6区で見かけた。古紙回収は行っていない。ついでながら車の排ガス対策も日本ほど進んでいない。ウチのアパートなんて、下手に表の新鮮な空気を入れようなんてすると、排ガスのツンとした臭いで気分が悪くなるときもある。青梅街道沿いの方が、空気はきれいだったと断言できる。
 東京都のゴミ処理システムは世界的に高い評価を受けておりまして、パリからも何度か使節団が訪れているはずですね。ほんと、分別回収くらいすりゃあいいと思うのだが、連中が素直に従うとは思えないよなあ。でも政府が決めちゃえば、有無を言わせないのもフランスだ。


1993年11月20日

 缶ジュースの自動販売機は大きな駅とか学校、大きな雑居ビルにはたいてい置いてありますよ。街中にも数は少ないけれども、あることはある。世界標準からすれば、日本が多すぎるといえましょう。ただし、ドイツとイギリスでは、電車の切符販売機などがある程度増加する可能性もあります。新札には金属ストライプが織り込まれるようになって、そこに OCR用の文字が刻印されています。件のサンテグジュペリ札にも金属ストライプは織り込まれていましたが、これは単に偽造防止用で、数字は刻まれていないようです。


1993年11月10日

 先日、カミさんがお釣りで貰って参りました。まだとくと観察していないので、続報はまた後ほど。サイズは五百フラン札を左右に半分ずつちぎった感じです。ですから、縦横比が1に近く、札にしてはずんぐりした印象を与えます。札には金属ストライプが折り込まれています。フランの場合は単なる偽造防止ですが、マルクやポンドでは自動販売機の読み取り用に用いられています。表の肖像画はサンテグジュペリ。でも、デッサンはちょっとちゃちい。あとはヨーロッパ=アフリカの地図、単発機の絵柄。透かしの上には象を飲み込んだバオバブ、下の方には乳剤で羊のデッサン。


1993年11月04日

 モロッコで買い物をするときは、絶対に日本人だと言ってはいけない、中国人だと言え、とモロッコ人アブデルがアドバイスしておりました。日本人向け価格は中国人向けの何倍もするそうで、どんだけ値切っても中国価格より高いのだそうです。
 来年あたり、実はモロッコとアルジェリアには行ってみたいと思っている。


1993年10月16日

 一ヶ月は本当にあっという間でした。明日の朝早くの出発なので、今晩中に成田のホテル入りします。これがラスト・アクセスでせう。
 今日はアキバで144Kのファックス・モデムを買ってきました。先ほど早速R3にアクセスしましたが、やっぱり文字のスクロールは目で追えない(当たり前か)、ファイルのダウンロードはあっという間とあって、これは病みつきになりそう。ただ、実際のスループットはアクセスした時間では6Kでしたから、一度オフピーク時に試してみたい。
 次のアクセスは日本時間の月曜早朝の予定。


1993年09月18日

 先日、バスが混んでいたので打刻できませんでした。まあいいか、って思ったら、水色の制服を来た女性が二人途中から乗り込んできた。一瞬ドキっとしたけれど、よくよく考えたら、あの制服は今は駐車違反のコントローラだけでした。でも、動揺のあまり次のバス停で降りてしまった。


1993年09月14日

 キオスクで立ち読みしていると、確かに文句言われます。町中にある雑誌専門の本屋も同様。大きめの本屋で雑誌も本も扱っているようなところが郊外にはよくあるけれど、そういう所は多少寛大みたい。
 JUNKUで雑誌の立ち読みが出来なくなったら、客の数は4分の1になるでしょうね(笑)。私はといふと、毎週雑誌の入荷される木曜、2時間かけて週刊誌(漫画を含む)15冊を一気に読んでします。その後は腰がだるくって....。20代前半の頃は、7、8時間の立ち読みも苦でなかったと思うと、やはり歳と運度不足を痛感してしまう。


1993年09月10日

 賃貸契約書によると、家賃は毎年9月1日に値上げということになっています。値上げ幅はINSEE発表が発表する第3四半期の平均賃貸料対前年同期比に応ずるとなっています。
 それで、8月末に連絡したら、まず第一声が「えっ、値上げ? そうかそうか、すっかり忘れていた」
 薮蛇となってしまった。そして今日、新家賃が通知されてきました。大ボケをかましてくれた割に、なかなか几帳面な大屋さんで、手紙にはちゃんと算出根拠から計算過程まで載っていました。で、いくら上がったかというと、結局22Frsでした。
 無論、去年の今ごろの為替レートを考えれば、円ベースでは1年で大幅な低下であることに変わりありません。


 毎週木曜になると、速読が特技でよかった、とシミジミ思うのです。本日は恒例の「立ち読みの日」でございました。
 いつもより1時間ほど早い午後2時に日本書店「JUNKU 」に到着しました。先々週、ちょっと出遅れたばかりに、「スピリッツ」が売り切れてしまうという悲劇に遭遇したのです。必ず3時には着くよう、万全の体制を整えたのでした。おかげで今日はまだ人垣ができる前、2時間半かけて、漫画週刊誌6誌、週刊誌7誌、月刊誌3誌を一気に読んでしまった。


1993年09月01日

 映画「タンポポ」の中で、マナー講座を行っているそばで、スパゲティをずーずーすすりながら食べるイタリア人が映るシーンがありました。それを見てマナー教室に参加していた生徒たちも、一斉にずーずー始めるというやつ....。
 毎年INALCOなどの主催で「日本語スピーチコンテスト」が開かれます。昨年は覗いてみたのですが、確か入賞したイタリア系フランス人の女の子が、この話をしておりました。
 最近箸なれしたアメリカ人は増えているようですが、フランス人はまだまだ不慣れな人が多いらしい。アブデルが慣れない箸(baguettes)を使って冷奴と格闘している様は、なかなかの苦悩ぶりでした。私の友人ではトマが結構うまい。バンドでドラムをやっていたから、棒に慣れていたのだらふか。


1993年08月22日

 先日、姉夫婦とカフェで交わした会話。

 愚妻:「めっきり日が落ちるのが早くなったわね」
 私メ:「ほんと、もう暗いよ」
 義兄:「(時計を見て)だって夜の9時半だぜ....」
 姉 :「....」

 それにしても、このところ暑い日が続き、秋と勘違いして紅葉を始めた街路樹の悲鳴が聞こえてきそうです。道の水たまりで鳩が水浴びするという夏の光景もすっかりと復活しています。
 ああ、暑い....


1993年08月20日

 一昨日、姉夫婦が免税品店で買い物をしていたら、小柳ルミ子夫妻と遭遇したとか。「ウェストは確かに細かったが、背が低くて足が短かった」とは、やはり*が短い我が姉のコメントである。
 マレ地区に住んでいるはずの岸恵子には、一度も遭遇していない。実に21年前、私は横浜市某所で偶然岸恵子に隣あわせたことがある。残念なことに、当時私は「岸恵子」といふ存在を認識していなかった。
 最後に芸能人と遭遇したのは3年前の富士山6合目付近。ロケ帰りの宮崎美子とすれ違った。ところが、その時も私は全く気付かず、1ジグザグ登ってから同じグループの者が「あれはやっぱ宮崎美子だったんでは....」。下を見ると、まだそれらしい女性がいたので、私は早速天体観測用の双眼鏡で確認した。手を振ったらちゃんと応えてくれたうえ、「頑張ってね!」と激励してくれたのが嬉しかった。
 そふいえば、宮沢*えが貴ノ*と婚約破棄になったとき、パリに住むといふ噂があった。密かに期待していたのだが、その後うやむやになってしまったのだらふか。尤もカルチエラタンに住んでいたのでは、遭遇のチャンスなどまず巡ってこないだらふ。


 カミさんがすりばちを買って来ました。プランタンで売っていたそうです。ただし、買ってきたものは木をくり抜いて作ったもので、予算の関係でかなりこぶりです。大きいものは200Frsくらいするのだそうです。
 陶器のすりばちも京子食品や大丸で売っているらしい。個人輸入するよりは安いかもしれませんね。


1993年08月16日

 ベルンから4時間かけて、ようやくパリに戻って参りました。今日はとにかく明日締め切りの原稿を書かねば。


1993年08月12日

 今日、姉夫婦が東京より遊びにやって来ました。今、私の横でいびきをこいて寝ているところです。
 何しろお盆の高い時期。使った航空会社は一番料金の安いAOMです。ですから、到着はオルリー空港となります。それで、我々もオルリー空港に迎えに行きました。18時30分の到着予定だったので、19時を目標に行ったのです。まあ、RERの駅から新交通システムが出来ていたのに驚きつつも、予定通り19時に到着しました。
 ところが、タイムテーブルに到着便が全然出ていないのです。不審に思い、インフォメーションで聞いてみたら、何やら端末を捜査したおじさん曰く、
 Oh la la! Il est arrive 2 heure en avance!!
 なあんと、16時半に到着してしまったのでした。ターミナルをあちこち探しまわって、30分後にようやく姉夫妻と遭遇。どないしたんや、と聞いたら、本当はモスクワでワンストップするはずだったのが、向かい風が弱かったとかで、そのままパリまで直行してしまったのだとか。乗客も乗務員も、みいーんなパリではなくって、モスクワに到着したのだと思ったのだそうです。モスクワにしては、町並みがパリに似ていると言っていた人もいたとか。
 DC10も頑張って飛んだもんだ!


1993年08月10日

 8月12日から15日まで姉夫婦と同伴でスイスのベルンに旅行してきます。この間はアクセス出来なくなると思います。
 なんと、渡仏後これが2回目の旅行なんて金も甲斐性もない亭主をさらけ出している。しかも毎回無銭旅行。
 ベルンには姉が演劇やっていたころの友人が住んでおりまして、そこに姉、弟しかも夫婦2組でころがり込むのです。でも、ベルンはドイツ語圏だし何もないと言われているので、今から何をしようか考えあぐねています。どうも初めてのスイスで、フォンデュを食って腹を壊して以来、スイスには良いイメージを持っていない。
 パソコンを持っていって、一日中テトリスでもしていやうか。


1993年08月08日

 前に電子蚊取りマットはありそうでない、と書いてしまいましたが、これは存在しておりました。フランスニュースダイジェストにしっかり載っておりましたゆえ、ここで訂正。
 そういえば、パリではほとんど野良犬、野良猫を目撃した記憶がないけれど、これは存在するのだらうか? のうのうとはびこる鳩を見ると、実は存在しないのではないかと言う気もする。そういえばカラスも見かけませんね。
 そうなると、未確認ながら、

 いそうでいないもの:
 野良犬
 野良猫
 野良カラス

 となるのだろうか。


1993年08月05日

 小銭入れですけど、これは確かに存在しております。道端の露天でアポロキャップなどと一緒に売っているのをよく見かけます。ブランド品ではどうだったかな???見たような気もするけど。形は日本で見かけるものと大差なかったと記憶しております。
 フランですと5フラン硬貨がバカでかくてやっかいですね。以前は10フラン硬貨が役立たずだったのでいやいや持っていましたが、今では5フランが一番邪魔です。因みに私は小銭入れを使う習慣が身に付かず、結局いつもポケットマネーになってしまいます。
 硬貨よりもフランの場合は札のチャチさが情けない。多分、今ヨーロッパで一番みすぼらしいデザイン/材質でしょう。ドイツマルクと比べると、その落差に愕然とします。これでは為替が暴落しても仕方ない?
 小切手やCBを持つようになってから、常時持参しているのは100Frs紙幣2〜3枚です。あのバカでかい500Frs紙幣は、入国直後にほんの束の間持っていただけでした。


1993年08月03日

 今日は久々に天気が良かったので、シャンゼリゼにある書店まで散歩がてら行ってきました。目的の本はなかったのですが、折角ここまで来たので、在仏日本人会事務所まで足を運びました。カミさんと共に新聞などを読んでいたら、呼びかけたのがなんとM村さんでした。リヨンの方は連日天気が良いそうで、我々とは比較にならない健康的な肌つやでございました。


1993年08月02日

 多分、フランスは建前のやかましい国であるゆえ、酒類及び煙草の自販機は法律で禁止されているのではないだらふか?
 そういえば、日本でもビールの自販機が撤去されるっていうのは本当?
 ありそでななくって本当に腹が立つのはTeleCarteですねぇ。何しろカードがなければ電話をかけられないくせに自販機がない。ところが販売しているはずのタバコ屋が街によってはどこにもなかったり、あっても土日休みとか、夏のこの時期だとバカンス閉店。どーやって電話せいと言うの?と叫びたくなる時がありません? まったく、システムを作りながら運営がなおざりにされる、どこかスッポリ抜けているというフランス人気質をここに見るような気がしました。まあ、こんな文句言ったって、どうせ「いつも持っていれば問題ないじゃん」と言われそうで、一層腹が立ってしまう。
 SNCFのシステムは「ソクラテス」だったのでない? これ、本当ーーに評判悪いですね。
 なお、イギリス、ドイツで紙幣利用可能な自販機があるのは、ポンド、マルクの新紙幣のおかげです。新札をお持ちの方は一度とくとご覧あれ。読み取り用の金属ストライプが札に折り込まれておりますから。日本の自販機は札を直接読み取っているのですが、ヨーロッパにはかようなハイテクがないため、札に工夫したのですね。


1993年07月31日

 私メの髪は、昨年の6月から鋏みが入ってござらぬ。1年以上も伸ばしっぱなし。抜け毛だけを見ると、それがカミさんのか私のかは分かりませんね。
 どうも70年代スノッブを未だに気取ってしまうところがあり、私はどうしても短い髪が好きになれないのです。最近は幸いなことに、パリでもだらしない長髪をむぞうさに束ねる男どもが増えつつあるようなので、私も安心して(?)マリーピエールに貰った「シュシュ」で頭をチョンマゲにしています。
 でも、東京でその格好を続ける自信はさすがにないですねぇ。これはパリだから気にしないですむけど。それに、10月はカミさんの実家で法事もあるし、それまでには髪を落とさなければならないだろうな....と思うのでした。


1993年07月30日

 ちょっと苦しいのもあったりして。そう言えば、CDシングルなんてあったっけ?

★ありそうでないもの
 ポット(代わりに湯沸かし器を使います
 札の使える自動販売機(ドイツやイギリスならあるす)
 挽肉(あいびき)(中華街にもないのですね)
 カートリッジ式カセットコンロ(キャンプ用ならありますが...)
 油をためる缶(業務用や小さなポットのようなのはあります)

★なさそうであるもの
 俎板(でも、肉切りにしか使わないやうですねぇ)
 つま楊枝(あって当たり前か)
 パンパース(まあ、アメリカブランドですから)

「こんなものは絶対にないだろう」といふものがありましたら、是非ともアップして下さいませ。カミさんともども意地になって?探してみますから。ただし、日本でもどマイナーなものはパス。


 今日、私も在仏日本人会で運転免許証の法定翻訳を申し込んで来ました。料金は会員だと80Frsです。通常ですと金曜締めの火曜仕上がり、火曜締めの金曜仕上がりなのですが、現在は法定翻訳官がバカンス中だとかで、来週の金曜仕上がりとなるそうです。
 ここでは大学、高校の卒業証明書、成績証明書の翻訳等も受け付けておりまして、会員料金は確実に日本の機関よりも安いはずです。緊急の書類以外は日本語の原文を持参し、パリで法定翻訳を依頼する方が経済的でしょう。
 この会には当然パリ以外の在住者でも入会できますし、翻訳の依頼や受取等も郵送で行って貰えます。入会はシャンゼリゼのジョルジュV、カフェ・フーケの隣にあるアパルトマン5階の事務所にて行えます。
 それにしても、今日は久々の夏であった....


 またまた思い付いてしまったので、懲りずにアップします。

★ありそうでないもの
 麦茶の容器(みんなビンに水を入れてるのだらう)
 アイスマット(町田さん、その節はお世話になりました)
 タオルケット(夏用の薄掛を使っているようですね)
 防虫マット(日本から持参しました)

★なさそうであるもの
 たくあん(中華街で売っているんですねぇ)
 ハイブリッドのペン(最近輸入され始めたようです)


1993年07月29日

 既に昨夏の一時帰国の際、自ら持ち込んだのでした(笑)。従って、この1年間私は信州戸隠蕎麦の蕎麦がらの上で寝ているのでございます。あの時はタオルケット2枚、毛布1枚とそして枕でしたから、もし税関で荷物を開けさせられたら説明に困っていたでしょう。
 ところで、フランスでは通信機器を海外から輸入するには政府の許可が必要です。以前ミッシェルが話していましたが、コンピュサーブのEMALL でモデムを購入した際、「Computer Accessary」と明記するよう頼んだそうです。いろいろノウハウがあるわけですね。他方、コンピュータに関する本を頼んだとき、店がうっかりと「Computer Program」というレッテルを貼ってしまったそうです。郵便局で受け取る際25%だかの関税を請求され、「中身は本だよ! 嘘だと思うならここで開封してみようか?!」と主張したそうです。しかし、相手は「例え中身が本であろうと、プログラムと申告している以上、これはプログラムとして扱う。」という態度だったとか。結局、高い関税を払ったそうです。


1993年07月16日

「フランス人は、英語をわかっていても、フランス語で答える」というのは本当に神話化していますね。
 でも、住んでみて痛感しましたが、本っ当ーーーーーーーーに英語が分からないフランス人が多いのですよ。パリの住民の平均的英会話力は東京並みと考えていいような気がします。GE出のエリートともなればそこそこ喋れるでせうが、一般的にはまあ通じればめっけものくらいでせう。このあたりの事情はドイツや北欧とは大違い。
「英語をわかっていても」という神話で生まれたのは、私が思うに、相手が何を言っているのか分からなくても、適当にフランス語で応対するか、あるいは言っていることは分かっても、英語をうまく喋れないから母語でまくしたてる、そんな類だと思います。外国人馴れしているのは事実ですから。
 フランスは日本と並んで英語教育が貧弱なことで有名です。ミッシェルはえらく流暢でしたが。ある帰国子女曰く、「フランス人が英語を喋れると信ずるのは、ロンドンでうまいイギリス料理賞味できると信ずるのと同じだ」。


1993年07月15日

 結局今年も見そびれてしまった。起きたのが午後2時では....。ニュースでパレードの光景を見ましたが、生憎の雨。「Merde! Il pleut!」と書いた傘をさしていた人がいました。ニュースと言えば、北海道の地震の被害もTF1などで報道されていました。


 先日、カミさんがラファイエットで窓買い物をしていた時のこと、後ろで日本語で買い物をしていた人がいたらしい。ここまではパリのラファイエットなら別段変わりのない風景。ところが、日本語の後に必ずフランス語の応えが返って来るので、何事かと思わず見てしまったとか。そしたら日本人のご婦人がフランス人の店員にあれこれ日本語で質問し、店員がフランス語で応対していたという状況。不思議なことに、店員の方は決して日本語を理解していという感じではないのに、ちゃんと会話として成立していたとか。
 こういう状況だと、方や売る人、方や買う人なので、結構意志が通じてしまうのかもしれない。因みにラファイエットは対応が丁寧だと専らの評判です。嘘か本当か知りませんが、外国で相手に文句を言うときは大阪弁を使うと効果的だそうです。確かにあれは迫力がある....。


 ドイツの街だと6時で店が一斉に閉まってしまいますね。開いているのはレストランとカフェだけ。日曜ともなると開いているカフェもまばら。ヨーロッパを出張する日本人ビジネスマンにとって、「週末はパリ」というのがかつて鉄則でしたが今はどうなのだろう?
 フランスでも地方の街ともなると、昼から何やらけだるい静けさが漂っておりますゆえ、勉学にいそしむには手頃でせうか? でも、学校の近辺にはやはり古本屋と場末の喫茶店がほしいところではあるが....。
「リモージュ」を皿のブランドだと信じていたのは私です。


1993年07月13日

 明日、といふか日本時間の今日は皆さんご存じの革命記念日。昨年も軍事パレードを見に行ったは行ったのですが、地下鉄の駅閉鎖といたるところの通行止めに阻まれ、シャンゼリゼに着いた時にはパレードは終わっていたのでした。結局、パレードの模様は夕方のニュースで見るという、大ボケを演じてしまったのです。明日はこれを教訓に朝から行ってみようと思うのですが、何しろ最近は朝昼逆転生活、ほとんどアメリカ東部時間で生活しているようなものですから、果して起きれることか。
 今日は前夜祭があります。これは夜なので行けそう。尤もバクチクの雨あられでしょうが。


 昨年は7月上旬が一番暑かったのですが、今年はかなり様相が異なるようです。確かに6月から7月にかけては暑い日が続いたものの、フランスGP以降はまるで晩秋のような気候です。ウチでも3日前、しまっていた毛布を再び出して使っています。出歩く時は当然サマーセーターが必要です。
 ところがヨーロッパの気候のいやらしいところと言うか、過ごしやすいところと言うかはなんなのですが、歩いていると結構心地良い汗が出てきて、適度に暖かくなってしまう。無論、日陰に入った途端に肌ざむさを感じるのですから始末におえない。周囲を見ると、いつものパリらしくTシャツ1枚の人もいれば、革ジャンまで着ている人もいるしまつ。着るものの選択が難しい。


1993年07月11日

 ヘミングウェイでしたっけ、「青春時代をパリで過ごした者には、一生パリがついてまわる」とか何とか言っていたのは。ヘミングウェイの住んでいた家が小生のアパートの近くとかいふので、一度のぞいてみたいと思っているのですが。
 一生ついてまわる、というココロは青春時代を一昔以上前に過ぎてしまった私メにも、何となく感じることです。恐らく、極端にエキセントリックな存在が異様に古いモニュメントの中で自然に呼吸している、さういふ懐の深さが、その理由の一つではないか、と思うのです。ところが、悠久のパリもさすがに現代経済の洗礼の例外とはなりえず、一昨年あたりから古い建物が次々と立て変えられようとしているのです。ヨーロッパの都市と言えば、何年経っても変貌しないもの、というイメージを持っていましたが、今はそうも言ってられない時代なのかもしれない。


1993年07月09日

 8月はスイスに住む姉の友人宅で2、3日過ごす予定であるが、その打ち合わせで電話をした。3日前にも電話をして、今日の夕方7時に再度電話をすることとなった。
 彼女の旦那はスイス人で、日本語は全く話せない。住んでいる場所はベルンでドイツ語圏であるが、英語が通じるだろうと思って何の心配もなくかけた。ところが掛ける時間を間違えたため、彼女は留守で代わりに子供が出た。ドイツ語の東北弁と言われているスイス・ジャーマンで少年が何やら話している。もとより私はドイツ語を解さない。
 何度か英語でトライしたがラチがあかず、結局「後で掛け直す」と言った。彼もこれは理解したらしい。
 一時間後、今度は一発で彼女が出た。事の顛末を話したら、
「なによ、日本語で話してくれれば良かったのに(笑)。ウチの子には家では日本語を使うように言ってあるのよ!」
 でも、父と子の会話はどうしてもドイツ語だろうなぁ、と思うのであった。


1993年07月02日

 以下に滞在許可申請に要求される書類をパリ警察署発行のパンフレットから抜粋します。

POUR UNE PREMIERE DEMANDE
 (1) Passeport - voir dispositions communes .... A
 (2) Justification du domicile - voir dispositions communes .... C
 (3) Justification des etudes a suivre .... B
 (4) Visa de long sejour
 (5) Justification de ressources suffisantes (voir N.B.1)
 produire les pieces presentees pour obtenir le visa et visees par le consulat
 A defaut : suivant le cas, les documents mentionnes au .... D

A : PASSEPORT en cours de validite (original + photocopie des pages induquant l'etat-civil, la duree de validite du passeport et le visa)

B : ETUDES (originaux + photocopie)
 certificat de preinscription ou d'inscription ou carte d'etudiant
 * si l'enseignement suivi n'appartient pas a un cycle traditionnel se-condaire ou universitaire, le certificat doit presenter : la nature de l'enseignementCCS(N)> suivi, la duree d'inscription, l'honaire et le nombre d'heures de cours par semaine et attester le versement des frais de scolarite pour un trimestre.

C : DOMICILE personnel ou au nom de la personne qui heberge (original + photocopie)
 * derniere quittance de gaz ou d'electricite ou facture de telephone ou contrat d'assurance-habitation
 * hebergement par un particulier : produire egalement un certificat d'hebergement etabli par le logeur (modele dans les centre de rece- ption d'etrangers) et photocopie de sa carte d'identite ou de son titre de sejour

D : RESSOURCES
 * Boursier : une attestation de bourse precisant le montant, la duree de la bourse et la nature des etudes suivies, etablie sur papier a en-tete de l'organisme.
* Ressources assurees par des fonds en provenance de l'etranger :
 - cheque de voyage, bordereau de change ou tout document prouvant que vous recevez regulierement des fonds en provenance de l'etranger et presisant leur montant mensuel (originaux + photocopie)

N.B.1) Est considere comme ressources suffisantes le fait de disposer d'une somme egale a 70% de l'allocation mensuelle de base d'une bourse du gouvernement francais soit 2.400F par mois pour 91/92.
 N.B.2) Il vous appartient de faire, des a present, les demarches pour obtenir une couverture sociale. Vous devrez en presenter la justification lors du renouvellement de botre titre de sejour sous peine de refus.


 フランスでは滞在許可証保持者は国際免許を使えないそうですからご注意。日本の運転免許証の法定翻訳が必要なのだそうです。これも在仏日本人会で作成できます。ただ、フランス国外で運転する場合、仏文の法定翻訳が使えるのかどうか分からないので、この場合には国際免許が必要かもしれません。
 そうそう、法定翻訳と言っても、実際はひな形に固有名詞をタイプしてあるだけで、翻訳費なるものは殆ど法定翻訳官ののれん代のようなものです。領事館で承認が貰えるなら、絶対にその方が得策ですね。


1993年07月01日

 フランスに住んでみると、日本人の「便利さ」にかける執念のようなものを感じてしまいます。−登録完了−ほんと、パリでは生活に必要なものは何でも揃うのですが、これがあればちょっと便利、というものはことごとく高いか存在しないかのどとらかなのですね。この辺の傾向は消費モデルでも話題になったことがありまして、次の様な面白い傾向があります。

(1)日本人は便利なものをすべからくハードウェアにしてしまう。
(2)アメリカ人は便利なことをサービス業という商売にしてしまう。
(3)ヨーロッパ人は便利程度なら我慢する。ただし、大金持ちは全部人にやらせて自分では何もしない。

 といふわけで、シャーペンという便利なものはあまり流通していないらしく、0.5mm芯を探すのがかなり困難なようなのです。一般の学生はペンを使うことが多いし、それ以外は鉛筆です。シャーペンは製図用ですね。業務用の道具を一般消費者向けにデチューンするのは日本人の最も得意とする技です。
 あと、雑貨品につては種類といいデザインといい、日本が圧倒的に優れているように思います。文房CCS(N)>具も同様。パリで「をっ、これは」と思うのは結構日本製だったりしますから。とはいえ、色彩に関してはやはりさすが、という感じです。服にしても壁紙や包装紙にしても、本当に種類が豊富でしゃれています。
 パリに住始めの頃は、しばしばドアの前で立ちすくんでしまいました。ドアは自動的に開いて当たり前、という間隔がしみついていたようです。


1993年06月25日

 Mac のクロックは日本時間を示しておりまして、このメッセージを打っているのが6月24日の午前11時です。フランス時間で午前4時ですから、昼夜逆転しているのがばれてしまう。
 一年前のちょうどこのくらいの時間に、成田を発ってパリに向かったのでした。あの日は朝の5時まで会社で仕事に追われておりまして、完徹の状態で家にタクシー帰り。仮眠の時間もなく風呂にだけざぶんとつかり、1時間で荷物を何とか梱包するという有様でした。成田まではカミさんに車で送ってもらったのですが、途中から雨が結構強くなり、駐車場から荷物を運ぶのがえらくおっくうだったことを覚えています。
 しみじみと時間の経つ早さを感じてしまいます。ひょっとしたら9月で帰るかもしれないことを考えると、10年もするとこのパリ滞在が、きっと何かの夢のような非現実的出来事に感じるのではないかと思ってしまいます。まあ、逆に言えば、いろいろ考えてもあっと言う間に終わってしまう経験なのかもしれません。だから、いろいろ思案することも大切でしょうが、一度行きたいと思ったら、チャンスがある限り後はそれに従って行動してしまうのが、何よりも正解だと思うのです。
 語学力を気にしていたら留学はできない、と言ってしまうといかにも開き直りに聞こえるかもしれません。しかし、語学で苦労するのは自明なことであり、要は日本にいる間により多く苦労するか、フランスでより多く格闘するかの違いにすぎません。単に効率だけを考えれば、フランスで格闘した方が効果的と言えましょう。前にも書きましたが、実際に問題となるのは語学力と専門知識とのバランスです。場数を踏まねばどうしようもない問題も多々あるのです。
 多くの人が留学している現実を見れば、つまるところ多くの人がちゃんと解決しているということでしょう。結局何とかなっちゃっうみたいですね。まるで他人事のようですが。


1993年06月17日

 8月の中頃に3日ほど、下旬に2日ほど旅行するかもしれないだけで、あとはだいたいパリにいる予定です。ただ、9月は中旬か下旬に一時帰国する可能性があり、そうなった場合は10月末まで東京滞在となります。
 多少荷物になっても、タオルケットを持って行くといいみたいです。売っているところがえらく少ないみたいですから。私は最初の一時帰国の際に、蕎麦がらの枕とタオルケットを持ってきました。それとアイスマットも正解。麦茶を作りだめするプラスチックの容器も重宝します。


1993年06月12日

 そろそろFL(再)デビュー1年です。この一年、日本語を忘れることなく(?)、また精神を正常に保ちえたのも、やはり日本とのコミュニケーションを保てたことが大きいような気がします。また、日本にいろいろ伝えたくて、クラスの連中とのコミュニケーションが深まった一面も否定できません。Thomasと親しくなったきっかけが、何しろ例の「face d'huitre」ですから。今でもThomasと笑いあうことがあります。
 これからもニフティを通していろいろ試したいこともあるのですが、なにしろ来年度がどうなるか未だにわからない状態です。今はひたすら祈るのみです。


1993年06月05日

 先日、ロワシーからの帰りにROISSYBUSを初めて使ってみました。
 従来、ロワシー空港からパリ市内に向かう方法は、大体次の通りでした。

(1)Air Franceのリムジンを使う
(2)NavetteでRoissy駅に行き、RER B線に乗る
(3)タクシーを使う
(4)RATPの定期路線を使う

 一番安くすませる方法は(4)。回数券5枚か6枚ですから、カルネを買えば20Frs程度ですみます。ただ、この方法だと市内まで1時間以上かかります。
 会社の経費で落ちるなら(3)でしょう。チップ込みで220Frsくらいです。
 一般の人は(1)でしょうか。これですとエトワール広場まで40Frs弱ですし、所用時間も40分ほど。何より頻繁に出ているのが便利です。
 比較的パリ慣れした人は(2)が多いでしょうか。(1)よりも早くパリ市内に着くうえ、コストも安くすみます。私も専らこの方法でした。フランス人でもこの方法を利用するケースが多いようです。
 ROISSYBUSとは昨年12月から始まったRATP運営の直行バスです。オペラ座前から空港ターミナルまでノンストップ。運賃は30Frsです。15分置きに出ているので、リムジンとほぼ同じ間隔です。オペラ座乗り場は正確にはオペラ座裏、アメックスのパリ営業所の横です。空港ターミナルでの乗り場は、ターミナルIの場合ですと、28番出口付近にあります。切符は乗り場にある自動販売機で購入します。
 バスはゆったりしていて乗り心地が良く、何よりまだ知名度が低いのですいています。唯一の難点は30Frs分のコインがないと切符を買えないことだけです。まあ、これを差し引いてもお勧めできます。
 パリに旅行される方は要チェック。


 昨日、クレームをつけておいた会社から何やら郵便物が届いておりました。中を見たら佗び状が入っていました。んでもって、機械に食われた20Frs はどうなったのかと思ったら、封筒の中に2.50Frs切手が8枚入っていました。


1993年05月28日

 実は昨末時から恒例(?)のSNCFストがありました。たまたまというか、ほぼその時間に私メの両親がロンドンからパリに到着したのです。まあ、旅行でちょっと、というわけですが、我々も空港に迎えに行きました。
 到着予定時刻が19時35分、ところが8時を過ぎても表示版には「到着」とも「遅れ」とも出てこない。他の便は半分ほどが遅れ、残りは既に到着。ひょっとして、上空をぐるぐる回っているのかなどと思ってしまいました。
 カフェで時間を潰していると、何やら英語の会話が怒涛のように聞こえてきました。再び表示版を見に行ったのですが、相変らず何の表示もなし。時間は既に8時20分。これはおかしいと思い、インフォメーションでどうなっているのか尋ねたら、担当の女性曰く、
「あら? 表示するの忘れていたわ。もうとっくに到着していますわよ」
 約5分後、無事ゲートから出てきました。
 ところがやたら軽装なのです。荷物はどうしたのか尋ねたら、何でも空港職員のストがあって、荷物は外で受け取るように言われたそうです。指定場所は28番ゲート。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、ここは空港行シャトルの乗り場なのです。私の横にいたご婦人が、しきりに「La guerre!」と叫んでおりました。
 実はこの日、荷物を持って階段を昇降するのが面倒なので、昨年12月からスタートしたオペラ座直行のRoissybusというRATPのリムジンを利用しようと思ったのです。乗り場は同じ28番。ところが事前にここを下見したら、切符の販売は全て自動販売機、しかもコインしか受け付けやせん。インフォメーションで聞いたら、通常窓口はないとのこと。大量に買うときはどうするのか聞いたら、売店で両替してもらえだと。6人で180Frs、こんな量の両替は確実に拒否されてしまう。まったく折角便利なものがあるのに、こんなことで利用できないというのは、あまりにフランス的なので即パスすることにしました。
 ただ、個人や2人くらいで旅行される方や、パリから空港に向かう人には結構お勧めできる方法です。オペラから15分起きに出ています。


1993年05月27日

 ここ3日ほど、レポートや原稿の締め切りが集中し、さらに日没が9時近くなったことで疲労がつのってしまったやうであった。そのためか、昨日は朝から頭痛がひどく、昼過ぎから学部の専用教室の机で寝込んでしまった。それでも頭痛がおさまらないので、仕方なくセルジー駅近くの薬局まで行って、アスピリンを買ってきた。
 頭痛がひどいときは小さな文字を読むのが苦痛である。ましてやそれがフランス語となると、始めから読む気が起こらない。まあ、アスピリンなら服用の仕方に違いはあるまいと、説明書も読まずに飲もうとした。ところが、錠剤の大きさが尋常でない。アスピリンは錠剤としては大粒とはいえ、せいぜい小指の爪より一周り大きいだけであろう。ところが、買ってきたアスピリンは爪は爪でも足の親指の爪くらいあった。何かある、とは思ったものの、その時思考力はゼロである。ええい、飲み過ぎなければ死ぬことはない!と思い、錠剤を半分にしてコーラと一緒に飲み込んだ。
 後で説明書を読んでみたら、このアスピリンは水に溶かして飲むタイプであった。マリー・ピエールに聞いたら、錠剤として飲むタイプは別にあるとのこと。そちらの方の大きさは、確かに小指の爪より一周り大きいだけだとか...。


 今日は秋から進もうと考えているPantheon-Sorbonneの教授に書類を提出した。CVに貼るべき写真がなかったので、セルジーの駅にあるスピード写真で撮ろうとした。ところが、20Frs 入れても反応がないので、仕方なくリセットした。しかし、金が返ってこない。これはどこかに詰っているのかと思い、更に5Frs入れてみた。結果は同じで損害は25Frsに達した。
 キオスクで機械の責任者は誰かと聞いたら、C'est pas nous. こんなことを議論してもラチあかないので、もう一度機械に戻って電話番号を探した。すると、何とレンズの所に抗議用のフリーダイヤルの番号が載っていた(Numero vert)。これだとカードがなくても公衆電話から通話できる。
 早速近くの公衆電話から電話してみた。

- Allo?
- Bonjour, Madame. J'ai une reclamation sur le photomaton a la gare de Cergy-Prefecture.
- Oui, je vous ecoute.
- J'ai insere 20Frs, heu...comme d'habitude, mais le photomaton ne marchait pas....

 何と、事情を話たら何の疑いもなく、20Frs払い戻してくれると言うのだ。名前と住所を伝え、後は払戻しを送ります、とのこと。こういうところで信頼の原則が働いているというのが、何だか面白かった。
 払い戻しが簡単にできて良かった、と思ったら、後から追加した5Frsのことを言い忘れたことに気づいた。ああもう一度電話しなければ....と思ったら、電車が到着してしまった...。


1993年05月22日

 私メのシステムをお話し致します。

 HD:Quantum 40MB、Maxstor 210MB、外付Quantum 210MB
 Maxtor 210上:漢字Talk7.1、同バックアップ、System 6.0.7(英)
 Quantum 210上:漢字Talk7.1、System 6.0.7(日)、System 6.0.7(英)
 Quantum 40 上:System 6.0.2.4(日)、System 6.0.7(仏)

 Mac II内にはHDを2台設置し、1台はフロッピードライブ用のスペースに設置してあります。2基の210MBをそれぞれ4つの論理ドライブで区切ってあるので、画面上にはHDアイコンが合計9個表示されます。ブートしてあるのは内蔵Maxtorの1パーティションのみです。4パーティションのうち、1つはシステム専用、1つはアプリケーション用、1つはデータ用、残り1つがアーカイバルです。
 外付HDは事実上のミラーディスクです。また、システムが壊れると悲惨なので、当然フロッピーでもオリジナルとバックアップの2重保管しています。HDを細かく区切っているのは、クラッシュした時の備えとフラグメンテーション防止のためです。日本語システムを3バージョン備えているのは、まあ一種の保険でしょうか。DLスタッフでもありますし(笑)。
 使っているシステムは漢字Talk7.1のみになりました。以前は仏文ワープロ利用時に英語またはフランス語システムを用いていましたが、システム7ですとメニューの文字バケを解消できるので、いまでは専ら日本語システムです。ただし、システム7はオリジナルのMac IIには荷が重いため、DayStarでパワーアップしました。別に利用しているPowerBookとのデータ交換のため、私にはシステム7が不可欠なのです。単独で利用するだけなら6.0.7で十分ですね。
 Macの日本語システムを使う知人が周囲に居ればここまでものものしい装備は必要ないと思います。


 博物館の中にはラスコーの洞窟のレプリカの他に、原始人の足跡のレプリカもありました。昔「地球天文図鑑」でフランスのラスコーともう一つなんとか言う洞窟の話が載っておりまして、そこに原始人の足跡が残っていたと書いてありました。それを読んだ私はひょっとしてと思いながら、当時工業技術院の研究所敷地内にあった防空壕後を探検(?)に行ったのでした。今ではとてもとても懐かしい思い出です。今でも老後は遺跡掘りをして暮らしたいと思っているのですが。あの頃は、まさかレプリカとはいえフランスでその模型を見るなどと夢にも思いませんでした。をを...約30年前の思いで...。


 家があって家具があって、あと必要なものは? そうそう、まだ電気・ガス、電話の申込、銀行口座開設、それに保険がありました。
 電気・ガスはフランスではEDF/GDFが一括して扱っています。ここに申し込む一番てっとりばやい方法は、先住者と一緒に地区の営業所に赴いて、先住者が「私、引っ越します」、入居者が「私、入居します」と言って、その場で移転と新規の手続きをしてしまうことです。こうすれば、先住者の精算と新規契約を同時に済ますことができます。そうでない場合は、まず先住者に移転手続き及び精算をしてもらって、それから赴くことになります。
 電気は申し込むと1週間ほどあとに検針が行われます。検針の日時は営業所で申込の際に決めます。また、この際、料金の口座振替の申込用紙を頼んでおきましょう。
 電話も同様。申込の際に、ミニテル利用の有無、電話レンタル、電話帳等への番号公開の可否などを質問されます。なお、電話機は日本と同様に自分で購入することもできます。易い物は100Frs程度ですから、購入した方が徳でしょう。また、ファックスもPTT未認可品であれば3000Frs程度です。フランステレコムのジャックは特殊な形状をしておりますが、モジュラージャックとのアダプタはどこでも簡単に購入できます。日本から電話機やファックスを持ち込むという方法も考えられますが、通信機器は税関で見つかった場合にほぼ確実に没収されるはずです。また、通信規格、電圧の問題もありますから、やはりフランス国内で買った方が無難でしょう。ただし、モデムは日本で買ったものがそのまま使えます(製品には国内専用とありますが、実際は問題ありません)。
 案外と難関なのは銀行口座開設です。東京銀行パリ支店では比較的簡単に口座を開くことができます。しかし、便利なCarte Bleueが発効されない、滞在1年未満の非居住扱いだと小切手が発効されない、万事手数料が高い等、不利なことばかりです。ここは極力フランスの銀行で口座を開くべく努力すべきです。
 学生であれば、学校の近くにその学校専門の担当者がいる場合が多いので、その担当者に口座開設の「交渉」をしましょう。口座はフランス3大銀行で開設するのが何かと便利だと言われています(パリ国立銀行:BNP、クレディ・リヨネ:CL、ソシエテ・ジェネラル)。
 口座開設に当たっては、居住を証明する書類及び身分証明書が必要です。居住を証明する書類としては、賃貸契約書、電気や電話の領収書などが用いられます。居住間もなければ賃貸契約書を使うことになるでしょう。
 銀行口座開設は一つの契約ですので、交渉には1時間前後の時間がかかると考えて下さい。この間に、契約条項の一つ一つを文字通り確認するのです。私は送金のトラブルが若干あったため、実に2時間半かかりましたが、係員はあくまでも親切でした。この手続きの際に、Carte Bleueや小切手を申し込みます。フランスの生活で小切手は必需品ですから、忘れずに申し込んでおきましょう。また、契約の際に「サイン」が登録されますので、どのようなサインを用いるか事前に決めておく必要があります。私はいろいろ考えた末、漢字を大きくくずした字体を使いました。
 交渉が終わると、CBや小切手は2週間ほどで郵送されます。また、この時交渉に当たった担当者が今後申込者の担当となりますので、何か事がある場合は必ずこの人と交渉することになります。この制度はかなり徹底しており、ちょっとしたことを他の人に依頼しても、「私はあなたの担当ではありません」と断られることがありますので注意。


1993年05月19日

 土曜、散歩がてらちょこっと行って参りました。
 行き方は前にも書いた通り、RER A1線1本です。運賃はAuberから12Frsです。A1線はオフピーク時でもほぼ15分に1本の割合で出ています。
 Nanterreを過ぎて河を越えると、東京で言えば成城か田園調布を思わせるような高級住宅地が続きます。建物を眺めているだけで結構楽しめます。程なくトンネルに入ると終点St.German en Laye到着です。
 駅を出ると右手に教会、左手に城がすぐ目に入ります。城は1015年の建設で、今では国立古代博物館として利用されております。入場料は20Frs 、1時間半ほどで全て見学できます。展示物は旧石器時代の化石(人骨を含む)からローマ帝政初期のゴール人の装飾品まで。
 城の横には「Pavillon Henri IV」 なる建物があり、入り口のアーチには「NAQUIS LOUIS XVI」とありました。城そのものはルイ14世が愛人を囲っていたところとか。周囲の堀はとっくに涸れています。
 城の前庭は典型的フランス庭園です。運河等が既に道路や住宅地に造成されてしまったにも関わらず、かなり散歩しがいのある広さです。庭の端にある見晴らし台からは、デファンスの高層ビルや遥かエッフェル塔の頭を眺めることができます。
 教会の左手の小道を奥に進むと商店街です。なかなかシックな店の作りは、まさしく小京都的(?)と言えましょう。わざわざ観光に来るほどの面白さはないかも知れませんが、デファンスと組み合わせて「ちょっと散歩に」というのには手頃かもしれません。


1993年05月15日

 6ヶ月以上買った事を証明する領収書があれば、例え税関で引っ掛かっても大丈夫だと言われています。「私は学生であり、日本語のソフトを使う必要もある」など、留学生としての特殊事情を説明すれば完璧でしょう。
 私の場合、パソコンの持ち込みは次のように行いました。

(1)入国時に持参したもの(最初の入国)
 ・機内持込手荷物:PowerBook 100、大型トランス(1200W)
 ・預かり荷物
 ・外付HD、StyleWriter、モデム、フロッピー
 注:大型トランスは8Kgくらいします。

(2)別送品として送ったもの
 ・Macintosh II、モニター、キーボード
 ・電源延長ケーブル、二股、電源アダプタ

 全て課税対象となりうるものですが、前述の通り、6ヶ月前に買った証明があればOKです。この場合、保証書やユーザ登録書は証明となりませんので、買った店に頼んで、宛名だけローマ字の領収書を作って貰いませう。書式は日本のもので構いませんが、宛名だけはローマ字でないとまずいそうです。
 別送の場合もほぼ同じで、ヤマトとか日通のように、パリ事務所のある輸送業者であれば、申請書類を作成してくれます。この場合も、宛名ローマ字の領収書が必要になります。
 Mac IIはかなり古いものだったので、業者に頼んで再発行して貰いました。
 要は税金さえ払えば何でも持ち込めるのですが、ハイテク製品の場合、税率がほぼ100%だそうです。ビジネスマンがたまにワープロを持ち込んで課税されるそうです。私の知り合いで、5回入国して2回引っ掛かったとか(彼の会社では、輸送経費節約のため一時帰国の度に皆ワープロを買って帰るそうです。輸送費が高いから、2回課税されても十分元が取れたとか)。


「めぞん一刻」(Juliette, je t'aime)は私も結構見ていました。Julietteは無論、響子さん、五代君は何だったっけな?三鷹さんはFrancoisでした。主題歌まで「Jeliette je t'aime」でリフレインされました。今は「らんま1/2」を後番組としてやっています。
 アニメの放映は水曜と土曜の朝9時から11時まで。TF1 が日本のアニメを4本一気に流します。「ドラゴンボール」はどうだったっけな....。


1993年05月12日

 今日は久々のSNCFスト。行きは例のごとくサン・ラザールから直行できましたが、帰りは何と4時で電車全てストップとのこと。結局、車で通っている同級生の一人が、RER A1線終点のSt.German en Layeまで送ってくれたのでした。
 この街、当然初めてだったのですが、日本でならさしずめ「小京都」と言ったシックなところです。フランスですから小フォンテーヌブローでせうか。とにかく広い庭のある城、どっしりした造りの教会、そして古い町並みという3点セットが揃っているのです。
 帰ってから「地球の歩き方」を見たら、一応「イル・ド・フランス」の中で紹介されていました。エトワールから僅か20分、パリ滞在中にちょっと時間が余った時など絶対にお勧めです。


1993年05月11日

 今日は暑かった。久々に半袖の人が目だった。
 どうも日本から誰かが遊びに来ると、天気が悪くなるようである。4月末に会社の後輩が来たときは、やたらと雷雨が続き、M田さんの来仏後は気温が下がって風邪をひく人が続出。ところが週が明けた途端にまたまた汗ばむような日差しのもと、本当に暑いときた。
 まあ、この時期の天気などあまりアテにならないので、決して皆さんの日頃の行いが**というわけではないのだらうが。


1993年05月06日

 いざ「生活」してみると、東京の超便利さが心底恋しいですね。私は元来が雑踏育ちでございまして、パリの騒音が実に心地良いのですけれど、生活の場をどこに求めるかと訪ねられれば、やはり躊躇なく東京を選んでしまうでしょう。日本のマスメディアはやたら東京の「都市問題」ばかり強調していますけど、あれだけの機能と安全性を備えた都市は空前絶後という気がします。その意味で、OVNI No310に載っていた「分散というよりもかえって東京の分解を助長しているだけのよう」というコメントには、目から鱗が落ちるような思いがありました(Vivre a Tokyo:在日フランス人のジョバンさん談)。
 ただ、東京以外でとなれば私も断然パリですね。都市機能もヨーロッパの都市の中では群を抜いているようですし、何より職住混在の環境が良い。これは都市計画の専門家が一様に評価していることでもあり、実際に街に愛着を抱かせる最大の要素ですね。私なりに理解している「東京分解」の最大のポイントは職住分離だと思っています。今はまだ深夜残業や休日出勤の人のおかげで何とかなっておりますけれど。
 もう一つパリの魅力は懐の深さと言えるでしょう。変なモノ(人?)が普通に振る舞える(?)。また、ピンからキリまで実に選択幅の広い生活が可能である等々、東京には確かにない魅力が多々ありますね。
「長期滞在」となると温泉がほしい。


1993年05月02日

 昨日から今朝まで後輩夫婦が泊っていました。彼らは数年前ボストンに2年ほど住んでおりまして、今は東京で勤務しています。今回はアメリカまわりでヨーロッパに旅行、パリでは買い物を予定していたそうですが、あまりの物価高に躊躇してしまったとのことです。
 東京と言うと、世界で一番物価が高いように思われがちです。実際に、多くの統計がそのような推測を裏付けているようですが、生活実感としてそれに疑問を投げかける在仏日本人は少なくありません。要は生活習慣の違いが、統計には何ら配慮されていないことに問題があるのでしょう。また、東京の物価は日本人の消費動向にある程度適合されているはずなので、例えばフランス人がパリで展開しているような生活を東京でも実現しようとすれば、物価が高いと感じて当たり前でしょう。
 私なりに感じることは、パリでは生活必需品は全て手に入るし、これに関しては東京よりも安い傾向にあることです。例えば、食料品とか毛布とか。それに対し、「ちょっと便利」な財・サービスの類はとてつもなく高い。一般の消費者サービスからオーディオ機器の等、これは日本に比べてかなり高いと言えましょう。基本的にフランス人は「自分のことは自分で」を建前にしているようですから、サービス業が日米に比べて今一歩発達していない感じだし、必需品以外の消費には徹底的にケチです。
 アメリカのような典型的消費社会ではこの点バカバカ循環するので、何でも安くなる仕組みもあるのでしょう。特に最近の為替レートだとアメリカの物価が異様に安く、パリが結構高いという感想もうなずけます。


1993年04月30日

 ここ2〜3日、パリは日没頃になると雷雨に見舞われます。今日もさっきまで物凄い稲光でした。雨も一時期強かったので、道が水で溢れています。
 今頃の季節は気候が不安定なもの。特に先週辺りから日中は汗ばむような陽気ですので、雷くらいあっても不思議ではないでしょう。今週から私も半袖にしています。とはいえ、雷雨の後は気温が下がり、今日も雨が上がった後は息が白かったくらいです。


1993年04月24日

 春の天気はフランスも不安定なようです。昨日は朝は曇り、午後から晴れ渡り、夕方俄雨。おかげて8時の夜空(?)に壮大な虹が架かっていました。今日は朝から暑いくらいの陽気で、空は雲が3分の1ほど。午後から晴れ渡ったのですが、今になって(夜9時)突然の雷雨です。


1993年04月21日

 多分、今日のパリは今年一番の暑さでしょう。半袖姿でグラースをなめなめ歩く人の姿が突然目につくようになりました。日一日と日が長くなり、今は9時頃になってようやく暗くなります。日没は8時頃でしょう。
 学校のあるセルジーともなると土が多いため、そこいら中花で一杯です。花壇の花だけでなく、イヌフグリをはじめとする草花が一斉に咲き誇っています。そうそう、花壇のチューリップが今頃文字通り「満開」なんですよ。あのぼってりした花びらが全開がご開帳(?)ですからおかしなものです(何が?)。


1993年04月17日

 確か以前、「経済大国」はフランス語では何というか、ってご質問がありましたね。ようやく思い出しました。新聞などでは puissance economique 表現しているようです。ですから「世界第二位の経済大国」と言う場合は、 la deuxieme puissance economique mondiale となります。英語でも「大国」は「power」ですから、同じ構造ですね。最近は「経済超大国:economic superpower」という表現がTimeなどでは多いようですが、「superpuissance economique 」はまだ見たことがございません。


1993年04月15日

 ごく内々でスリの被害が発生しました(誰が被害に遭ったかは本人の名誉のため特に秘する。私メではございませんぞ、念のため)。場所は多分メトロの中か、メトロに入るときの入り口だとのことです。さすがに相手もプロとあって(?)、いつ被害に遭ったかははっきりとは分からなかったそうです。
 幸いにして被害は財布とクレジットカード1枚、現金200Fほどとテレホンカード2枚だけ、しかも保険に掛かっているので現金などは戻ってきます。これは不幸中の幸いというべきでしょう。
 クレジットカードは即24時間サービスに電話して利用ストップ、被害翌日には警察に届け出ることになります。無論、盗品が返ってくる可能性はゼロに等しいですが、カードのトラブルや保険のために届け出は必要です。以下にその手順をお知らせしますので、旅行中万一被害に遭遇したときの参考に。

(1)居住地区または被害場所の管轄警察署に行く。
(2)Declarationの係に赴く。
(3)自分の身元、被害状況等を述べる。
(4)被害届の写し(署名入り)を貰う。

 さすがにスリの多い所とあって、以上の手続きは機械的に行われます。(3)で申告する内容は次の通りです。

 3-1:被害者の氏名、年令、国籍、住所等(身分証明書提示)
 3-2:被害場所(メトロ何番のどことどこの間などと申告)
 3-3:被害の日時
 3-4:被害内容の詳細(サイフの色・材質、中身、金額など)
 3-4.bis:カードがある場合はカード名、カード番号も聞かれる。ただし、
      番号が不明の場合は「分からない」でも可。

 なお、「どこで被害にあった?」という質問では動詞「se produire」が使われたので、一瞬何を応えてよいのか分からなかった由。たしかに「生じる」という意味はあるが、どうも「se passer」でないとピンとこない。
 友人の話しによると、メトロ内のスリは最近とみに多く、バッグの口をしっかり閉じていても底をナイフで裂かれて盗まれるケースもあるそうです。従って、メトロの中ではバッグを自分の前側に置き、できれば底をかかえるようにして持っていた方が良いとのこと。


1993年04月08日

 明日から4泊の予定でブルターニュに旅行してまいります。パソコンの持ち込みはカミさんから厳禁されているので、この間はアクセス・ゼロとなります。友人夫婦の実家に泊めてもらうのですが、その友人曰く、「オレは雨男だから仕事を持ってきた方がええぞ」。その仕事もカミさんから持ち込みが禁じられている。雨が降ったら一日ゴロ寝と化すでせう。
 実を言うと、フランスには仕事でも旅行でも散々来ていながら、パリ以外に行くのはこれが初めてでございます。


1993年04月07日

 今日はほぼ完徹に近い状態で学校に向かったにもかかわらず、午後の授業がキャンセルされていた。夕方の授業まで3時間以上も待たねばならないうえ、内職がまだ終わっていないので、2時半頃帰ることにした。
 セルジー駅の手前でエジプト人級友のカリムに追い付いた。何やら駅の表示板を見上げているので何事かと尋ねたら、どうもセルジー駅の手前で事故があったらしく、パリ方面の電車が走っていないとのこと。一つパリ寄りのアッシェル駅で折り返し運転をしているとのことだった。
 私一人なら当然途方に暮れているところだが、7ヶ国語を自由に扱うこのカリムは早速そこいらじゅうに尋ねまくり、アッシェルまでバスでピストン輸送している事実を聞き出した。バスターミナルのはしっこの方に、確かに「Speciale何とか」と表示したバスが停っていた。ただ、中はまるでビジネスショー開催中の晴海行のバスのようなすしづめ状態であった。そこは重量挙げで鍛えたカリムの押しが効を奏し、何とかドアのタラップに乗り込むことが出来た。
 RERは案外と脆弱で割と頻繁にストップしてしまうことが多い。これまでの経験だとロワシー行が結構トラブルことが多いように思う(とは言えこれまででせいぜい3回程度だと思ったが)。フランス旅行で帰りにRERを利用される方はくれぐれもご用心。万が一ホームに着いて不通を知ったなら、そこはあせらず同じホーム反対側のA線に乗るように。次のオベールで降りればオペラ座まですぐなので、RATPが去年から運営しているロワシー直行バスに乗れる。


1993年04月06日

 これまでの経験によれば、RERでコントロールに遭遇する確立は2ヶ月に1回。時間帯はほぼオフピークに限られていた。今日は3時頃学校を出たのでそれに遭遇する確率は確かに高かった。
 ところがところが、コントロールは確かに行われていたのだが、電車の中ではなくって駅でやっていたのである。セルジーの駅は郊外の駅と同じで改札などないので、ホームに下るエスカレータの前にRATPの職員が10人ほど、それに加えて何と警官が10名ほどチェックに当たっていた。はじめに警官の集団が見えたので、てっきり爆弾テロの警戒だと思ったくらいである。
 このにはクリスチーヌという級友と帰宅したのだが、実は彼女いつもいつも無賃乗車。そんなわけで、「Merde!」を連発しながら切符を買いに行っていた。


1993年03月27日

 実に味気ない結果というか、結局RATPの引き落としがえらく悠長だったために、不渡りという事態には至らなかったのです。月初めに送られてくる取引明細(何しろ通帳という制度がないものですから)をつぶさに調べてみたら、あの時点ではなんと1月末にやはりRATPに支払った小切手の引き落としすら来ていなかったのでした。これ、3月10日に落ちてましたから、実に支払から1月のラグがあるということになります。従って、びくびくしていた3月1日使用の小切手は恐らく4月の引き落としとなるでせう。前にこの話をマリー・ピエールにしたところ、「マイナスが利くから大丈夫よ」と言われたのでした。もう少し詳しく聞いてみたら、不注意による不渡り予防のため、当座預金にはある程度マイナスが認められるそうです。サラリーマンで給与振込をしている人はだいたい月収相当額、学生の場合は3000F位を限度にそれが設定されているとか。
 パリの地下鉄でもうたたねは決して安全なはずはないのですが、路線によっては治安が良いせいか結構こっくりやっている人がいる。また、RERでは通勤距離が長いせいか、メトロ以上に舟を漕いでいる人がいるのです。我が親愛なるZoubidaは「パブロフの犬になった」といいながら、RERに乗ると即舟漕ぎでございます。


1993年03月26日

 今日はうっかりと別の方向のRER に乗ってしまった。ChateletからのRER A線は、セルジー方面の他に、ポワシー方面、デファンス止りの3系等が同じホームから出ている。このうち、最も本数の多いデファンス止りは車両が異なるので間違えようがない。残るセルジー、ポワシー行は同じ車両で、僅かに行く先コードが事なるだけである。それが、うっかりとポワシー方面に乗ってしまった。デファンスで終点のアナウンスがあるので、一応いつもこれを確認してからうたたねに入るのだが、
 Ce train est en direction de ... Poissy.というのを聞き、間違いにようやく気づいた次第である。
 本当ならここで下車すれば3分ほど待つだけでセルジー行に乗り換えることができる。しかし、折角座ったのだから行けるとこまで行っちまえと思い、3つさきの Maison de Laffite まで行った。これが大大墓穴。
 朝の通勤時間帯、セルジー方面行はなんとこの駅を通過してしまうのである。無論、この事実をしったのは学校に着いてからであった。結局この駅で待つこと35分、ようやくセルジーに到着したのは本来の到着時間の40分後であった。
 事の顛末を皆に説明すると、即座に出てきた言葉が、
 C'est pas vrai!!
(音としては、「せっぱーーぶれーー」。「ぱ」に強いアクセント)
 これ、日本式に表現すれば「うっそーー」とか「まじぃ?」だろうか...。


1993年03月20日

 久々(?)のアップになりました。今週は異常に忙しく、平均睡眠時間3時間、ニフティもメールと会議室のダウンのみに近い状態でした。しかし、3、4時間しか眠らないなんて東京では普通だったのに、パリでは致命的に応えてしまう。すっかり頭が鈍ったかもしれない。
 この柔道チャンピオンの死は大衆紙やスポーツ紙では結構大きく扱われていました。内容までは知らなかったのですが、そうですか、交通事故だったのですか。しかし、在留邦人初心者マークの私ですら、2月の一時帰国の際に、道の横断の際は信号など気にもとめずにまず右を見てから(!)横断しそうになったことがしばしばありました。
 信号を守る習慣と無視する習慣、どちらが見につき易いかと言えば、無視する習慣の方が身に付きやすい。車の走っていない田舎道ですら頑なに信号を守っていた私のカミさんですら、パリに住んでからは極く当たり前に「横断」しているくらいです。それに、パリとかニューヨークだと信号待ちで突っ立っているのって、歩行者の邪魔になるばかりか防犯上よろしくないこともある。歩行者の信号無視を正当化する気は毛頭ないのですが、柔道チャンピオンの話しは全く他人事ではないように感じました。


1993年03月15日

 一昨日は気温が17度まで上がり、すっかりと「冬が終わった!」という雰囲気になってきました。RERでデファンスを過ぎ住宅地のエリアに入ると、梅に似た花を満開にさせた並木道があります。セルジーの近くには桃に似た木も盛んに花を咲かせています。どちらもバラ科の植物だから、そのものでないにしても似たような種類の木なのでしょう。
 日の出も日没も7時頃ですから、朝7時に起きて夜11時に寝るとすると、活動時間の3分の2を日中の間に過ごすことになります。冬のヨーロッパしか知らないカミさんはこの劇的変化に驚くやら喜ぶやら。椅子を外に並べるカフェのおなじみの光景も3日ほど前から目につきます。昼間などは既に半袖のTシャツで過ごす人がおります。
 ところで、昨日気づいたのですが、セルジーの2駅手前のAchere Villeという駅の駐車場の脇に、「Espace Boris Vian」なる看板の建物があるのですが、あの Vian に関係あるのでせうかね?


 天気が良くてしかも授業のない日が続いたので、一昨日、3日前とお上りさんをしてきました。3日前はオペラ座通りを散歩して、遂にあの有名な Cafe de la Paix に入りました。いやー高かった。カフェが19FF、あとはみな26FF以上。同じ有名カフェでも Deux Magot の方が安いですね。
 一昨日はモンマルトルに行ってみました。天気の良い日の眺めはやはり絶品です。パリの平らな町並みの中でポンピドーセンターが浮いている光景も、天気が良いと一層クリアーです。ただ、広場の絵書きの「襲撃」が前にも増して激しくなったような気がします。広場に通じる通りに数人ずつ待ち構えていて、フランス語で始まって、英語、そしてさらには日本語で−登録完了−話し掛けて来ます。その日本語の内容が悲惨で、「コンニチハ」は兎も角として、「ウタマロ」だの「テンプラ」だの要は知っている単語を並べて気を引こうとしているだけ。
 ここでまた一つ要注意。最近連中は共同戦線を張っているようで、話しかけられて立ち止ったりすると、別の一人がそそくさとスケッチを始め、いつの間にやら1枚出来上がりとう事態になってしまうこともある由。無論、あくまで拒否すればよいのでしょうが、過剰防衛のためか、ついつい払ってしまうケースも多いようです。
 旅の思い出に1枚と思う人、立ちん坊でスケッチブックを持っている人は下手クソだとの専らの評判ですのでご用心。広場で構えて描いている人とは雲泥の差だとか。まあ、広場の方が相場は上でしょうけれど。


1993年03月11日

 都市は一般に「冷たい」と言われますが、昔からその都市に住み続けている人には親切な人が多い、というのが私の感想です。これは東京でもパリでも同じような気がするのです。東京でも月島とか中野・高円寺あたりの住民は驚くほど親切でございました。
 都市といえば膨張するもの。仮の宿とする人も多々ございましょう。まだどっしりと根を下ろしていないがゆえに、人との応対もどこかドライにせざるをえないところもありましょう。「都市が冷たい」という一般論は、どうもかような悲しい現実があるように思うのです。
 とはいえ長所と短所は裏表。都市のドライさ、冷たさが、同時にある意味での住み心地の良さを提供しているのも事実でありましょう。
 ヨーロッパで犬や猫などのペットがもてはやされているのは、都市の冷え切った人間関係の所産という説があるそうです。パリやロンドンで一番信用できるのは愛玩用の犬、次が赤ん坊だそうです(信用できるというのは、人に危害を加えないという意味です)。だから、犬や赤ん坊を連れて歩く人は、その恩恵を一緒に被ることができる。パリで犬や赤ん坊を連れていると、周囲の人はそれはそれはにこやかに話し掛けています。これ、私も実際見て確認済みでございます。


1993年03月10日

 昨日、今日と真青な空が広がっています。昨日はオペラからバスで帰宅したのですが、オペラ座通りやルーブル近辺は、すっかり日本人観光者でごった返しておりました。3月ですから学生さんの卒業旅行というやつでしょうか(あたしらの頃は、まだそんな習慣がありませんでしたが)。確かに学生とおぼしきグループが多数派のようです。
 実は2月に東京から帰るとき、飛行機の中で女子大生グループに囲まれることを密かに期待していたのは私です。でも、現実には前が韓国人のオジさん、横が身長190cm以上のスウェーデン人のあんちゃん、隣のブロックが日本人ビジネスマンと、すっかり期待がはずれてしまいました。
 感じた事を一つ。皆さん、歩くときに無防備過ぎますね。ポシェットやショルダーを無造作にたすきにかけ、両手ぶらぶら歩きなんてのでは、後ろから紐を切られてひったくられてしまう危険がある。バッグはいかなるときも手で確保しておかなければいけません。
 また、道の真ん中で地図を見るために立ち止るのも危険です。最近は3人位のグループでスリ、ひったくりを行う連中が多いので、これではあっさり取り囲まれてしまう。それと、歩く速度がやはり遅すぎます。
 これから旅行されるかたはご用心、ご用心。


1993年03月09日

 今日、明日、明後日と「CAMPUS」とやらで授業はなしである。この3日間にかやうなものがあるとは学校の年間予定で知っていたが、その意味するところは今日初めて知った次第である。
 要するに、学校ぐるみの集団会社説明会である。
 フランスの学生は3ヶ月も夏休みがあっていいなあ!などと思っていたら大間違い。その3ヶ月は企業研修の月なのである。特にグランゼコールでは最終学年で研修を義務づけているので、最終学年の学生は、この時期は受け入れ先企業探しに必死である。研修先がそのまま就職先となる可能性も高いし、何より研修歴がそのまま履歴書に載る経歴となるので、単なる「バイト感覚」では済まされないのである。1、2年生もキャリアを積んだり、あるいは最終学年での布石のため、夏にせっせと研修に励む学生が結構多いらしい。
 この日、各教室にはそれぞれ企業のリクルータのやうな人がやってきて、説明を求める学生に応対していた。普段はラフな格好の学生達も、今日は男も女もスーツである。この辺の光景は日本の就職シーズンと何ら代わりがない。私は今日レポートを提出に行っただけなのだが、前日友人から「ネクタイをしてないと浮くよ」と言われたので、一応、多少はそれっぽい格好をして行った。
 学生には事前にどの企業がどの教室で応対してくれるかを示したパンフレットが与えられている。そう言えば、私のレターボックスにも入っていた。内容の雰囲気は日本の大学祭のプログラムをイメージして頂ければよいと思う。また、友人に企業から配られる説明資料を一つ見せてもらったが、かなり金をかけて印刷した立派なパンフレットであった。企業側も優秀な人材確保のため、かなりこれには力を入れているようである。
 内容が学歴&資格社会のフランスらしい。職種別に研修期間、必要なディプロム、求人数等が示してある。さらに、具体的に学校名まで指定してある。日本の「暗黙の」指定校とは違い、はっきりと「こことここの学校」と明記してあるのである。
 一例。某社の一般管理部門。人事管理や組織管理といったレベルで職務が記され、学校欄には「HEC、ESSEC、ESP」等と指定してある。
 ここでもニッポン企業は大人気である。尤も、ニッポン企業というよりも、ソニーやキャノンといった多国籍かつブランド力のある企業の人気があると言った方が正確であろう。余談ながら、「日本」の紹介では盛んに「Nippon」だの「L'empire du Soleil levant」と表現されていた。私も「Japon」よりこれらの方が好きである。
 この学校ぐるみのリクルート活動、明日、明後日もあるのだが、私は家でしこしことレポート作業である。


 前でリクルートの話をしたが、たまたま教室ででくわした級友と収入について話をした。彼曰く「Massaはフランスで就職するの?」、我応えて曰く「その意志はないね。給料悪いから」。彼続けて曰く「でもこの学校のディプロムがあれば、年収**Fはいくよ。」
 彼の語った数字は2年前の私の年収の僅か3分の2であった。
 実際私はほぼ佐*急便の長距離トラック運転手並みの労働時間をこなしていたので、同年代の平均年収よりかなり稼いでいたのは事実である。しかし、彼が語った数字は1F=21円として換算すると、日本の33才大卒サラリーマンの年収として決して魅力ある数字でないことも確かである。人気職種のエリートでこの程度、と言っても決して事実には反しないだろう。
 改めて考えてみると、日本の国民一人当たりのPIB(GDP)は91年で3.5万ドルである。一方、ECでも上位に属するフランスは2.3万ドルである。因みにEC最強の旧西ドイツでさえ2.7万ドルである。労働分配率の差があるのでPIBだけでは比較できないものの、日本の労働者の平均年収はフランス人よりも4割程度高いのではないだろうか。彼が私に語った数字もこの差を考えれば何となく理解できる。(換算レートは1ドル=122円、1F=22円)
 換算レートに意義をとなえる人もいるかもしれない。実際、OCDEの購買力平価でみると、1ドル=175円、1F=27円程度である。このレートで換算すれば、彼の示した数字はほぼ私の年収に近いものとなる。
 しかし、購買力平価は確か旅行者のモデル出費を元に算出したものであり、これを所得水準の比較に用いるのは、かなり現実の生活実感からかけ離れた結果を招きかねない。私の実感では、1F=22円がだいたい購買力を反映した水準ではないかと思われる。ニューヨーク、ロンドン、パリ駐在の商社マン夫人を対象としたアンケートでもほぼ同様の結果が出たそうだ。
 生活コストや実労働時間を考慮しても、収入目当てに働くならやはり東京に限ると言ってよさそうだ。まあ、これはあくまで数字の上だけの話であって、通勤ラッシュや仕事の満足感などは念頭に置いていないが...。


1993年03月08日

 週末といえどもレポートの締め切りは待ってくれない。けふも級友の家にてレポートづくりであった。
 7時頃、帰路に着いた。彼の家からはメトロ5番でイタリー広場に向かい、そこで7番に乗り換える。
 イタリー広場の1駅手前の駅のことである。私は1番前の車両に乗っていた。駅のホームにかかったところで急に電車が止ったと思ったら、運転席からおじさんが一人出てきた。何やらにこやかに運転手に挨拶していた。どうやら運転手の友人らしい。かれはそのまま駅の階段に向かって去っていった。
 数瞬後、電車は再びゆるゆると動きだし、駅に停車した。見ると、進行方向一番前には出口の階段がない。どうやら運転手は自分の友人を階段近くでおろしてあげるために、突然変なところで停車したらしいことが分かった。
 全く持って友人にはやたら親切なフランス人の一面を見たやうな気がした。


1993年03月04日

 悪い事は本当に重なるものでございます。
 2月の日本滞在中に円高が進んだため、日本からの送金をペンディングさせました。ところが、ちょっとした勘違いが起こしまして、3月2日時点の残高が519.5Fになってしまったのです。
 帰国中、なぜか口座のある支店のコードに変更があったらしく、Carte Bleueの切り替え通知が届いていました。現CBはまだ1年使えるのですが、支店コード変更の影響で、引き出しはできても預け入れが出来ないのです。それを確認するのに試しに100F引き出したため、3月2日時点の残高が419.5Fとなってしまったのです。
 ところが、3月1日時点ではそれに気づかなかったため、クーポンを小切手を使って購入してしまいました。これが442F!小切手の引き落としは使ってから2、3日はかかるのですが、このままでは不渡りといふことになってしまう。げげ、22.5Fの不足で。(@_@)
 実は数日前から残高に不安を感じていたので、入金しようとはしていたのです。しかし、古いCBでは入金も取引明細の出力も出来ない。昨日窓口に受取に行ったら、「なかなかいらっしゃらないので、郵送しました」とのこと。だのに今日はまだ届いていない。


1993年02月27日

 相変らずグレーですが、私の日本滞在中、2度雪が降ったさふです。でも本当、日が長くなった。そういえば、昨日当たりまた三日月と宵の明星の組み合わせが見られましたね。12月に凱旋門の上から眺めたときよりも、金星が大分空高くかかっておりました。


1993年02月12日

 定刻より僅か15分遅れで無事到着しました。今日は旗日だったのですね。どうりで帰りのリムジンがすいていると思った。
 実家に着いてから一通りかたずけ物を済し、さあアクセスしようとしたら、恥しながらまったくアクセスが不能、モデムが接続されるところまではよいのだけれど、そこから先がウンともスンとも言わない。冷静になって考えてみたら、@PとかC NIF をせにゃならないことを思い出し、あわててオートパイロットを設定仕直した始末です。
 接続前には近くのロー*ンまで雑誌の立ち読みに行ったのですが、握り飯を思わず買ってしまった。機内食で満腹なのに。パリでは米こそ安く手に入るものの、梅干し、そして特に海苔は贅沢品でございます。ローソ*ズのパックおにぎりだけど、何やら久々に贅沢したような気分になってしまった。


1993年02月10日

 とうとうカミさんに風邪を移されてしまい、昨日今日と学校を休んで療養に励んでしまいました。12日のオフではフランス産のインフルエンザ持参となるやもしれまへんので、皆々様、くれぐれもご用心。成田で検疫に引っ掛かったらどうしやう。(;_;)
 帰国に際しては当然モデム内蔵PB持参ですので、11日夜には再びアクセス可能状態になると思います。久々にRTざんまいに浸れると今から変な楽しみにドキドキしております。


1993年02月09日

 最近、めっきりと日が長くなったと実感しています。確かに冬のパリは晴れの日が少ないとはいえ、明るい時間がかなり長くなったのは事実。1月は朝家を出るときは当然夜明け前、冬至のころなど、セルジーに着いた頃ようやく日が出始めたといった感じです。一度だけ、デファンスの新凱旋門の中に太陽がすっぽり収まった光景を目にしたこともあります。最近は家を出るとき既に夜がしらじらと明けている。
 私はパリには専ら5月とか8月に来ていました。だから今のように日々暗い季節でもあの太陽さんさんの日々を楽しみに待つことができるのですが、カミさんの方は初めてのパリが一昨年のクリスマス、そして2度目の今回が11月。太陽のない季節ばかり。そんなわけで、今はひたすらお天道さまが恋しいようであります。
 そういえば、古事記の天の岩戸伝説は、日蝕ではなく冬至の頃に太陽の再生を祈る習慣から来ているとか。更に余談ながら、昨夜たまたまTF1の「Cine Dimanche」なんぞを眺めていたら、ベッドで絡み合っていた男が突然立ち上がり、オ*ンチン丸出し。あれだけ堂々と映されると、かえっておかしくなってしまう。尤も私には同性のオブジェを眺める趣味はないのだが。


1993年02月07日

 たまたま学食でバレンタインデーの話題が出た。フランスでも恋人の日、ということで、恋人がプレゼントする習慣があるそうである。ただ、贈るのは必ずしも女の方からとは限らないと私の周囲は語っていた。ましてやプレゼントはチョコとは限らないとのこと。


1993年02月05日

 パリ出発まで一周間を切ったので、今日は飛行機の予約再確認をしました。学校から*韓航空のパリ事務所に電話をかけたのですが、...。
 こっち:Allo?
 あっち:Bonjour, Ko*ean Air, je vous ecoute.
 こっち:Reconfirmation de la reservation, S.V.P.
 あっち:Oui,..., la date du depart, S.V.P.
 こっち:Euh..., 10 fevrier,... de Paris a Tokyo.
 あっち:O-namae wo cho^dai dekimasu ka ?
 こっち:....Eshita to mo^shimasu...
 やはり*韓航空でパリに来る客は圧倒的に日本人が多いのかな、と改めて思ってしまった。


1993年02月04日

「困ったことがあったら駅に行け」
 ヨーロッパ放浪歴の長かったバイト先の上司が常々語っておりました。駅に行けば両替も出来る、いつでも食い物を売っている、インフォメーションがある等々。確かにそれは言えているかもしれないと思ったりしている。


 今朝のRERにてC.D.G-Etoileで私の前に座ったオジさん、実に表面に現われていた毛がことごとく金髪であった。もともと金髪は北欧系民族であるから、パリ市内は案外と金髪の人が少ない。この人も顔だちは冬季オリンピックのノルディック競技に出てきそうな感じであったから、やはり北欧産だと思う。
 頭髪だけでなく、髭はおろか眉毛、睫、手の甲を覆っている毛もオール金髪。特に睫までたわわに実った麦畑のような金髪だったので、私は一瞬ほこりが積もっているかと思ってしまった。いかに人種のるつぼとはいえ、ここまで徹底した総金髪の人には初めて出会ったやうに思う。
 パリに住み始めた当初は人の顔の雑多さに驚かされたものであった。ところがそれに見慣れてしまうと、今度はオペラ座界隈で見かける日本人の顔が確かに同じに見えてしまう。在仏僅か8ヶ月の私にしてかような感覚を抱いてしまうのだから、日本を初めて訪れるパリやNYの市民がしばしば語る「日本人、皆同じに見える」という気持ちが分からないでもないような気がしてきた。


1993年02月03日

 パレロワイヤルにある日本書店「JUNKU」が移転し、1月30日から新装開店となりました。新しい場所は旧店舗から歩いて3分ほどのところにあり、最寄り駅はメトロ7番ピラミッドになるのではないかと思われます。
 たまたま学校を早く出ることができたので、今日早速行ってみました。売り場面積は旧店舗に比べてかなり広くなっています。地階、地下と2層になり、総面積は6倍くらいになったのではないでしょうか。地下はコミック及び日本製ビデオ及び漫画専門コーナです。コミックの充実ぶりは驚くほどで、東京の割と大きな書店でもあそこまで豊富な品揃えの所は少ないでしょう。コミックファンの私には目の毒です。現に今日は「ガラスの仮面(39)」が出ているのを発見し、あと8日待てば日本で安く帰るのが分かっているのに、結局買ってしまいました。
 因みに値段の方は40.50FF、新装開店割引価格で36.25FFです。日本価格が390円ですから、ほぼ倍といったところ。尤も在庫期間と輸送費を考えたら安いと言って良いでしょう。これだけコミックを集めたということは、フランスでもコミック需要が大きいということでしょう。実際、日・仏のがきんちょ達がけっこうたむろしておりました。


1993年02月01日

 って、本当に何も見るべきものがない、と言ったらちと言い過ぎかもしれません。でも、これって私の偽らざる本音。
 私はかつて天文学者を目指していたこともあるので、星空なるものはそれこそ何千回となく眺めております。そんなわけで、北半球の空はすっかり見慣れてしまい、パリで目にする星座も東京と変わりありません。見える星の数も東京と大差ない(空気はパリの方が汚染されているでしょうが、ネオンの数が東京より少ないので、トータル公害・光害度は同程度と思われる)。
 やはり印象的な星空は、北半球住民にとってはオーストラリアなど南の方のものでしょうか。ただ、星を見慣れている人ほど南半球ではとまどうのも事実。まず星の動きが逆。北半球では、天の極(天の北極。北極星付近)を中心に反時計回り。南半球では反対に極を中心として時計回り。だから、私のやうに夜ドラでは星を目印にしているような者にとって、星の動きが全く逆なので困ってしまう。あと、見慣れた星座が皆逆さまになってしまう。オリオン座なども見事に頭が下を向いております。
 ここ2週間ほど最高気温が12度前後あったパリも今日は妙に冷え込みます。東京だと今頃は寒くても青空が広がっているのでしょう。どんよりした日々に身を置いていると、東京の冬がたまらなく恋しくなります。


1993年01月29日

 セルジーのニュータウンは小生が現在通っている学校の所在地であります。RER A3線の Cergy Prefecture で下車致します。終点 Cergy St.Christopheは本当になにもない街ですが、巨大な学生専用ステュディオがあるので、そこだけはひときわ賑やかです。
 RER A線はChatelet-Les Halles、Charle de Gaule-Etoile、Auber-Opera、Nation、La Defance等で乗車できるため、メトロとの接続がすこぶる良い。ただし、La Defance から先が3方向に分れているため、Cergy St.Christophe行きであることを要確認。通常30分間隔、ラッシュ時10分間隔。ほぼ横須賀線と同じ頻度であります。
 他の有名なニュータウンとして、Evryなんてのもございます。これは旧SF1に出てきたので、ちょうどそのころ仕事でフランスに来たとき、思わず見に行ってしまいました。行方はGare de LyonからSNCF近郊線。


 実はちょっとカマ*トぶった感じの女性教授達も、息を吸いながら「Oui 」と言っていたやうな気がします。Marie-Pierreも時々そうする。
 あと、パリの女の子がちょっと気取って喋るときのイントネーションっちゅうのもありまして、マルセーユ出身のThomas COINTOTがしばしばわざとらしく真似して周囲の笑を買っています。さすがにそれをここで説明するのは困難でありますので、オフにてご紹介しませう。
 だいーぶ前の話だけれど、「フランス語なんてブタのくしゃみぢゃないか」と主張していた教師が私の高校にいた。


1993年01月19日

 私のイメージ、実は灰色がかった白ってイメージなんです。白っぽい灰色と言うべきか。これはユトリロの絵に引きずられたためかもしれません。結果的に町田さんのイメージに近いかもしれない。
 初めてパリを訪れたのは仕事のためだったのですが、少ない自由時間、とにかくユトリロが描いた街を見たかった。だから2度3度とモンマルトルに行きました。観光化されたとはいえ、そこには確かにユトリロのイメージが残されており、未だにその印象を引きずっております。時期は5月という最高の季節で、他にも様々な印象を持ったはずなのですが、実はパリの次の訪問地がニューヨークで、パンナムビルを見た瞬間に他の印象が消し飛んでしまったようです。そんなわけで、パリに居住するに至った今に至るまで、パリの事をイメージするとどうしても灰白色のベールがかかったようになるのです。
 住んでみるとパリの色よりパリの匂い(臭い)というものが意識されるようになっただに思ふ。オレンジ色の夜という言葉を見て新宿をイメージする私はまぎれもない俗物であらう。
 HITOTAさん、パリを訪れて帰郷したような心地好さを感じる人は案外多いようですね。私は雑踏育ちで所謂「故郷」を持たないので完全には理解できないかもしれませんが、何となく「昔と変わらぬものへの哀愁」なのかな、なんて勝手に想像しております。と当時に、私は変わらぬものの倦怠感も感じてしまうのです。時を楽しみながら暮らすにはパリはやはりはまり役だと思うし、仕事を思うと東京やニューヨークのダイナミズムがたまらなく懐かしくなります。


 夏の間レ・アールの屋根裏部屋に住んでいたころ、向かいのアパートの屋根の上を散歩している連中を時々見かけたことがあります。
 パリの地下ツアー(下水道めぐり)はオルセー美術館の近くで行われているそうです。いつか行ってみやうと思っておりますゆえ、いずれレポートしたいと思います。


1993年01月18日

 我がアパートにも地下にカーブがありまして、私も1区画貸して貰っています。パリのアパルトマンのカーブはトリュフォの「終電車」にも出てくるように、ナチ占領下ではユダヤ人をかくまうために使われていたところも多かったとか。私の所のカーブも「終電車」に出てくるのと同じくむき出しの石ブロックで囲まれ、随所に誇りがうず高く積もり、ドアも無造作な木戸であります。暫くはがらくたすらも置く気になれませんでした。こんな所で毎日死の恐怖に脅えながら隠れ住むなんてことは、まず普通の人にはできないでしょう。私なら多分3日ともたないと思う。
 なお、カーブには何代か前の住人が放置したマットレスがあるので、ご宿泊をご希望される方には場を提供しますぞ。


1993年01月17日

 日本語のスピーチコンテストなどに行ったものだから、どうしても日本食を食いたくなってしまった。ならばとばかり、例のごとく6区の「やまに」に向かった。
 度々紹介した通り、この店は6区のアパート街の中にあるため日本人観光客は極めて少なく、今日もほぼ満員を占めていた客の構成は半分がフランス人、そして残りが観光客にはちと見えない日本人であった。ご主人が北海道出身ということもあってジンギスカン鍋がメニューにあるため、それをつっ突くグループが2、3あった。
 我々の隣にはフランス人家族であった。大人達はジンギスカン鍋を頼み、1人いた子供は刺身を注文したようである。鍋が来ると彼らはまず食べ方を店員に教えて貰っていた。その間、子供は一人で無造作につかんだ箸を使ったり、あるいは時々手掴みで生魚と格闘していた。
 数分後、子供が突然奇声を発して飛び上がり、そのまま店の中を走りまわりはじめた。ところがテーブルの大人たちは大爆笑である。何があったのかと覗き込んだら、どうやらわさびを刺身の一種と勘違いして、まともに一塊食ってしまったようである。
 状況が周囲に伝わりだすと、まわりもつられて爆笑を始めた。少年はようやく席に戻って水とコーラを交互に飲んでいた。


1993年01月15日

 信号の止まった交差点での行動...
 同じラテン民族のフランス人の行動から類推するに、イタリア人なら完全に麻痺状態の交差点で運転手がてんでに降りてきて、早速口喧嘩をおっぱじめるのではないか、などと考えてしまった。
 先月見かけた別の風景。サン・ミッシェル広場前の交差点にて。
 おまわりさんが道の真ん中で交通整理をしておりました。信号はちゃんと作動しておりました、念のため。赤信号待ちしていた車の最前列の1台から、運転手が突然降りて交差点を斜につっきり、そのおまわりさんに近付きました。一体どうしたのかな、と思ったら何やら道を尋ねている様子。おまわりさんも交通整理を中断して、かの運転手に身振り手振りを交えて教えておりました。その途中、信号が代わったので、運転手はあわてて....いゑいゑ、結構悠然と車に戻っておりました。おまわりさんも思い出したやうに交通整理を再開していたりしたし。


1993年01月14日

朝...
 交差点の信号は相変らず作動していなかった。これで3日連続である。幸いお巡りさんが交通整理をしていたので、車の流れは平常通りであるが、歩行者は命懸けの横断である。といっても、いつも信号など皆無視しているから、これも平常通りといへば平常通りであった。

昼...
 最近PowerBookをノート代わりに使っている。今日は朝から夜までの授業だったので、予備バッテリーを2本持参した。これだけあるとさすがに重い。このPB、故障のため11月にマザーボードを交換したのだが、それ以来えらくシステムが不安定で困る。特に休止状態のHDが再起動する際に爆弾がよく出てくる。今日も一通り入力が終わり、今のうちに保存しようと思った瞬間やられてしまった。思わず「Merde!!」を発した。日頃から「フランスにハイテクはない」と馬鹿にしているものだから、ここぞとばかり「ハイテクに頼るからそうなるんだ。紙と鉛筆を使え!」と言われてしまった。
 注1:「爆弾が出る」=システムエラーが生じたこと。画面に爆弾が出てくる
 のでかやふに表現する。通常リスタートを強いられる。Mac用語。

夜...
 交差点の信号はついに丸3日作動しなかったことになる。夜8時、お巡りさんの姿はなかった。交差点は完璧に4つ巴の凄まじい絡みあいとクラクションの嵐である。信号も交通整理もないとどうなるか、という貴重な実例を見させてもらったわけである。
 アパートの門をくぐっていつものごとく郵便物を取ろうとした。ところが、どこか違う。よくよく見たら、鍵を突っ込むべき鍵穴が丸ごと消失し、本当の穴と化していた。当然、鍵などなしで明けることができる。管理人は不在であった。中に郵便物が詰まっていたので、ひょっとして管理人が気をきかせて鍵をはずしたのだらうか?


 私もサインは漢字を崩したものを使っています。理由は、未だに安定したローマ字サインができないからです。まあ、漢字のサインも一応それなりにデザインして練習しましたが。
 漢字のサインは案外危険です。私が以前聞いた話では、中国人や日本人のバイトを雇ってサインの偽造を行っていたケースもあったとか。こうなると、ただでさえローマ字圏の人は違いが分からないのですから、完全にお手上げですね。
 トラベラーズチェックは要注意です。通常の両替所はパスポートのチェックもしているので一応2重チェックが効いていますが、アメックスのパリオフィスは目の前でTCをサインするだけです。これって、もしTCを落として拾った人が悪意の日本人だったりしたら、どうしようもありませんね。
 何にせよ、漢字でサインする時も、相当気合いを入れて崩す必要があるのではないかと思います。そうなると、ローマ字だろうが何だろうが関係なかったりして。
 宛名が漢字だけの郵便物がちゃんと届きます。郵便受けには当然ローマ字しか表示していないので、これはミステリーよ言うべきか、PTT の職人意識と評価すべきか...。


1993年01月12日

 朝、メトロの駅までにある唯一の信号を横断しようとしたら、全く点っていなかった。それも歩行者用だけでなく、車の方もである。おまわりさんの姿もないし、一体どうするのだろうと思いながら横断した。
 夜、駅から帰ってくると、未だに信号は点っていなかった。車の方も同様であった。この交差点、変形5叉路だから、昼間はさぞやクラクションの嵐であったろうと、まるで他人事のように(事実そうだが)思ってしまった。


1993年01月10日

 カミさんの滞在許可申請の際、ふむといふ経験がありました。警察に電話をして諸手続きを質問したのですが、まず最初に「あなたの国籍は?」と問われた。「日本人です」と応えると、即座に「それでは奥さんの国籍は?」と問い返してきた。
 自分が日本人であると応えた時点で、不覚にもカミさんも日本人であるとのデフォルト値が設定されてしまったため、相手の問い返しに一瞬返答を躊躇してしまった。考えてみれば、パリなら旦那とカミさんの国籍が違うことなど当たり前、当方が完全にうかつであったわけであります。
 フランスでは現在政治亡命以外の永住を認めていないので、事実上フランス人=フランス国籍保有者。ただし、フランスで生まれれば両親の国籍に関係なくフランス国籍を有する権利が生ずるはず。その点、確かに日本は至極閉鎖的であり、1985年の国籍法改正でようやく母親が日本人なら日本国籍を取得できるようになったそうです。まさしく日本は「日本人の日本人による日本人のための国」であるわけです。まあ「国際化」という意味でこれは多くの批判を招くようでありますが、外国で暮らしてみると、むしろその恩恵の大きさに目が行ってしまうのも事実でしょうか。


 先週辺りから妙にドイツ人が多くなったと思ったら、彼らも買い出しなのださふです。毎年恒例の現象とか。少なくとも3ヶ日明けは、あの(!)オペラ座界隈でさえ日本人よりドイツ人の方が多かったし、あの(!!)モンマルトルでさえ、アメリカ人並みの群れがあったやうに思う。
 因みに、わたしは今回が最後のボーナスでの買い物でした。


1993年01月09日

 クリスマスデコレーションがすっかり姿を消して、代わりに街を彩っているのは「Solde」とか「liquidation」の札である。12月、1月はセールの季節と言われているが、今週に入ってから一斉に「Solde」という感じが強い。
 今日は一人2,500Fの予算で「買い出し」に出かけた。目指したのは一番コストパフォーマンスの良いぶてぃっく・チェーン(?)と言われているCELIO である。ここはMarie-PierreやThomasもしきりに勧めてくれた店である。パリ市内だけでも何箇所かにあるが、モノが一番ありそうなLes Hallesに行ってみた。
 実際、本当に安かった。私が買ったのはコーデュロイのズボン2本、ウールのセータ1枚であるが、これでトータル547F、約123,00円である。
 ついでにANDRE という安い靴屋チェーンでスウェードの靴を一足買った。私は以前からスウェード靴のファンで、日本にいるときも淡路町の平和堂でいつも気にいったものを買っていたが、ANDRE で似た靴があったので思わず買ってしまった。これも245F、約5500円である。日本では通常9000円くらいだし、しかもイタリー製だったので妙に得をした気分になったしまった。
 ここまでで買いたいと思ったものはあらかた買ったのだが、実にまだ予算の半分にも満たない。これはまだ革のブルゾンかパーカーを買えるな、と思っていた矢先に、Oliver Grantという英国調紳士服店のショーウィンドゥになかなかのパーカーが1,800FでSolde されていた。元値が4,500Fとなっていたように、かなりchicな感じであった。ううむ、といふ感じで店の中を覗き込んでいるうち、ここぞとばかり
 店員:Est-ce que je peux vous aider, Monsieur?
 と声をかけられてしまった。どうしやうかな、と思っているうち、思わず
 私 :Ouais...je peux essayer ce par-kar la?
 と応えてしまったから、後は敵のペースといふ訳ではないが、既に完全に買う気になってしまった。確かにモノはすこぶる良かったのだが、始めに試着したサイズが何とXXL 、店員は少し(!)大きめだがおかしくないといふ。それより小さいサイズはショーウィンドゥにあったXLのみとのことで、それも試着したが、ポケットに手を入れた時、腕を伸ばしても先まで届かないときている。それでも店員はしきりに勧めるし、カミさんもなかなかに良ひのでは、と云ふので結局、je prendsとあいなってしまった。
 というわけで、ズボン2本、セータ1枚、靴1足、パーカー1枚でトータル2,592Fであった。少々予算超過はしたものの、Solde 期間外の価格で換算すると6,000Fである。亭主満足、今から夏のSoldeが心待ちである。


1993年01月03日

 ふっと思い至って、夕方モンマルトルまで行ってみた。今日はこの冬一番のとやらで、最高気温がマイナス3度、最低気温が同8度である由、ほぼ札幌並みであらうか。道は部分的に凍結していた。
 サクレクール寺院に着いたのはちょうど日没時であった。パリの街はすっかり薄もやで覆われていた。朝一番の中央本線で勝沼トンネルを抜けた後の、甲府盆地のやうな雰囲気であった。遠くのモンパルナスタワーやエッフェル塔が、まるで立ち枯れした木が沼に付き刺さっているやうな風情であった。赤黒い太陽はちょうどエッフェル塔の右脇に沈もうとしていた。この界隈に溢れている米国人観光客が盛んに「beautiful!」を連発していた。
 寺院の左側からモンマルトル広場に向かった。半月がドームの上に姿を現していた。今日はさすがに日本人旅行者は少なく、米国人以外にはドイツ人の姿が目立っていた。私が「今日は埼玉国民が多いやうだね」と言ふと、ドイツ贔屓のカミさんは嫌そうな顔をしていた。(注:ある人曰く、「ドイツはヨーロッパの埼玉だ」)
 日がくれると相当寒さがこたえてくる。早々に丘を下ることにした。ピガール広場に出た頃にはすでにたそがれ時も終わり、すっかり夜の空となっていた。ただ、さすがにピガール界隈はまさに「パリの歌舞伎町」と言われるだけの賑わいで、アベックが連れ立ってセックスショップに入って行く光景など、いかにもパリらしさがこもっていた。男女数人のグループが「Peep Show 」の看板がかかるストリップ劇場に入って行く所なども、何らいやらしさがなかった。
 ムーランルージュからトリニティ教会に下った。実は一本並行して走る道は例の女性達が商売されている所である。今日は寒かったので、そちらの方に迂回せず、まっすぐギャラリー・ラファイエットに向かった。松坂屋の看板の手前で、路上、お札を財布にしまっている東洋人女性のグループがいた。数瞬後、耳に入ってきた彼女達の会話はやはり日本語であった。こういう事は危険だから絶対に注意すべきである。尤もかやうな人々がいないと、泥棒も商売上がったりであらう。


1993年01月01日

 先ほど年明けRTを脱出し、このメッセージを書いています。
 みなさま、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。町田さん、上西園さん、会議室泣かせかも知れませんが、今年も宜しくお願いします。昨年と変わらぬご活躍をされんことをお祈り申し上げます。
 ところで、春先にフランス旅行を計画されている方、歓迎並びに迎撃体制を整えてお待ちしますゆえ、是非ご一報下され。私は2月または3月に一時帰国するかもしれません。

 金星といへば普通は「ヴィーナスVenus」。ところが「暁の明星」と表現すると確か「堕天使ルシフェル」(=サタン。サンミッシェル広場で大天使長ミカエルに踏み潰されているあれです)を示したと思う。ただ、拙の辞書には「vesper」なる語も「ルシフェル」に関する語も発見できなかったので、この辺りの関係を調べることができなかった。
 パリで高い所といへば...
 モンマルトルの丘(特にサクレクール寺院の上)、凱旋門の上、エッフェル塔、モンパルナスタワーなどでせうか。新しい所ではデファンスの新凱旋門がなかなか。そして意外と「高い」のがポンピドーセンターなど。
 地上からの高さから言えば、エッフェル塔が一番高いと思いますが。ただし、見晴らしの良さで言えば凱旋門かな?ロハで見渡せるという点ではサクレクール寺院の前、ってとこでしょうか。

 昔、「The Book of List」なる本がありました。日本語訳もあって、タイトルは「ブックオブリスト:世界なんでもランキング」。タイトルからもお分かりの通り、何でもかんでもランキングをつけてしまえ、といふいかにもアメリカ人の好きそうな内容であります。中には「梅毒を患った有名人トップ10」なんてのもあった。
 この中で、「響きの美しい英語トップ10」なるものもあったに記憶している。確か、チャイムなんてのがあったと思う。日本語版の欄外注には、「日本語では「みぎわ」や「しおさい」などが美しい響きと云々」と書いてあった。
 フランス語にもそういうのがあるのでせうか?個人的好みで言えば、chの音がえらく美しく感じるし、さりげないc音やp音もナカナカ良い。だから、あたしも「crepsucule、いいですね。」に一票。
 尤も、こんな質問をSLに出そうものなら、即座に
「フランス語の響きは全て美しい。10だけ選ぶなど不可能である。」という反応が予想されますね。


1992年12月30日

 此頃やけに冷えるなぁーっと思っていたら、もう噴水には氷が張っていた。さっきも郵便局に行く途中、車道の端がやけに白いと思ったら、水たまりがすっかり凍っているのに驚かされた。
 完璧に冬である。
 昨日は夕方ふと思い立って凱旋門を登ってきた。パリ5回目、滞在数ヶ月というのに、実はこの時が初めてであった。決して31Fを惜しんでいたわけではないのだが、何となく機会がなかった。
 夜、高いところに登って期待するのは夜景であろう。しかし、パリには夜景と呼ぶべき華麗な光のカーペットとでもいふべきものが欠けている。確かにクリスマスデコレーションのシャンゼリゼは、上から眺めてもナカナカとは思う。しかし、肝心の街に「光」がない。オフィスは既に閉まっているし、アパートの住民はカーテンや雨戸で窓を閉ざしている。何より間接照明主体では、漏れるべき光自体が乏しい。
 そんなわけで、夜景というよりも巨大な池に光の筋が放射状に伸びている、そんな印象を受けてしまった。遠くのエッフェル塔やサクレクールが何やら墓標のやうに思へてしまふのは私の乏しい感性のせいであらう。
 私は基本的に冬の様々な光景が好きである。特にたそがれの美しさは最高で、かつてその色の変化にみとれて何度風邪を引いたかしれない。特に、昨日、今日のやうに金星と三日月が彩りを添えている時が素晴らしい。年によっては水星も加わるのだが、今年は折り合いが悪い。
 夜景はないけれど、パリのたそがれ時はなかなか魅力的だと思う。平坦で古い町並みとたそがれ時の微妙な色の変化が何とも言えぬけだるさを醸し、うっかりするとまた風邪を引いてしまいそうになる。
 てなわけで、今度はたそがれ時に凱旋門に登ってみやうと思うのであった。
 蛇足ではあるが、今まで一番感動した夜景は実に大坂である。確か阪奈峠から眺めたものだと記憶している。それで、2番がニューヨークと東京、3番が函館、パリは番外という感じである。


1992年12月28日

 冬休みに入ってからというもの、4時就寝、3時起床という日々が続いている。どうせ冬のパリはほとんどお天道さんとは無縁だし、なにより夜明けが遅いので、あたしのやうに典型的怠け者且宵っ張りには理想的(?)環境である。てなわけで、今日起きたのは5時であった。
 んでもって始めたことはニフティへのアクセス。まったくもぉ...


1992年12月27日

 日頃節制しているとはいっても、まあ、クリスマスくらいは、と、ついつい懐が緩み、昨日はレアールのはずれ、商工会議所の隣にあるレストランで11時頃の遅い夕食を取った。前菜は無論生ガキである。私は決して牡蛎好きではないのだが、カミさんにつられてついつい注文してしまった。
 パリの人達は宵っぱりなので、11時過ぎになって食事を取るためレストランに入ってくる人も多い。我等もたまの外食であったので、ついついのんびりと生牡蛎やら海老のクリームソースなどを正味した。
 禁煙コーナーで悠然と煙草をふかしていた(とは言っても、店の者が灰皿を提供したのだから彼らに罪はない)日本人旅行者が帰った折に時計を見ると、既に12時10分。まだデザートも済んでいないというのに、終電の時間が迫っていた。ここで何も動揺せずに、「おや、もうすぐ終電だ」と他人事のやうに感じるところが現地化であろうか。
 店を出たのが結局12時35分、もうどうせ間に合わないかなと思ったので、ついでに近くにある24時間営業の中央郵便局で切手を買ってきた。その後駄目元でシャトレ駅のメトロ7番に向かってみたのだが、ホームには電車待ちとおぼしきグループがちらほら。ひょっとしてまだ終電が、と一瞬喝采を上げた。しかし、始終電時刻表を調べると、7番南方面のシャトレ発最終は12時55分、そして現在12時59分、そういえば、エスカレータあたりで発車のベルが鳴っていたやうな気がした...。
 結局ハイな気分と出費後の寂寞感が手伝って、結局シャトレから家まで歩いて帰ることにしてしまった。とは言っても、そこは案外狭いパリ市内、メトロで6駅分の距離は歩いて40分なりであった。


1992年12月26日

 冬休みに入って完全に昼夜が逆転している。起きた時間が昨日は2時、今日は3時半である。特に今朝は5時半まで「日本の歴史(23):大日本帝国の試練」なんぞを読み耽っていた。
 実は異国(何とまあ厳めしい表現ではあるが)のクリスマスはこれが5度目である。パリでのクリスマスは昨年に続いて2度目、いやあ、こんなもの慣れてしまえば、ねぇ、えへへ、何て心境からはほど遠く、昨日のイブはやはりお昇りさん気分で一杯になってしまった。とはいうものの、遊ぶ資金を持ってイブを過ごせる旅行者の立場と違い、何をするにもついつい銀行の残高が頭にチラついてしまうのが悲しい。結局、数々のレストランの「Fruits de mes」は眺めるだけ(!)で終わってしまった。
 友人達も皆クリスマスはクニに帰っているので、年末まではパーティなしの日々である。それぢゃ、いっちょう贅沢してテンプラや刺身でも食いに行くか、と勇んで6区の「やまに」に向かったものの、ドアには「クリスマス休みにつき、24、25日は休業致します」。何で普通のレストランが開業しているのに、日本料理屋がクリスマス休暇なのだろうと、いささか不可解な気分にさせられてしまった。
 ところで、昨日フナックで買い物をした際、レジで「Bonne fete!」と言われた。試しに帰りに八百屋で「Bonne fete!」と言ったら、八百屋のおにいちゃんは嬉しそうに「Merci, vous aussi!」と応えた。
 さて、クリスマスも午睡の結果何もせぬまま早7時。これからムフタールに向かってSylvieの家でも探してこやう。
 では皆さん、Bonne fete!!


1992年12月22日

 パリに住んでいるという特権をフルに生かし、週に3度は寝る前にサン・ミッシェルやモンパルナスのカフェにfrequanterしています。やはりカフェの存在はパリの最大の魅力の一つでしょう。
 カフェの値段を決める要素は次の3つであると考えられます。
 P=f(立地、席、時間帯、(格式))

(1)立地の要素
 立地が価格に繁栄される点は東京と全く同じ。東京で代官山辺りと高田馬場とでは劇的な価格差があるように、パリでも気取った地区と庶民的地域とでは大幅に料金が異なる。例としては次の通り。

気取った地区(代官山的)例割と庶民的な地区(下北的)例


Champs-Elysees及びその近隣Gare du Nord / d'Est 界隈
Avenue MongaigneBoulevard de Sebastolop
Avenue Marceau ほかBoulevard de Strasbourg
Avenue de l'OperaRue de Faubourg St.Denis
Boulevard St.GermainRue Baubourg

 最も気さくで感じの良い地域、個人的意見ではやはり5区、6区でせう。場所で言えばSt.Michel/Odeon、Montparnass あとはカルチエラタン内辺りです。カミさんはLes Hallesも気に入っています。

(2)席の要素
 これは次の3ゾーンで決定します。喫煙、非喫煙は今のところ料金には反映されていません。
 上席:外のテラス(まあ冬は少ないけどね)
 中席:店の中の席(冬はこれがほとんど)
 エコノミー:カウンター(立ちんぼう)
 当然のことながら上席が一番高く、同じカフェを頼んでもカウンターの3倍以上。逆に、単にコーヒーを飲みたいだけならカウンターに直行すべし。

(3)時間帯の要素
 夜10時以降は深夜料金が適用されます。ただ、深夜料金を全てのメニューに設定している店もあれば、コーヒーやショコラなど一部にのみ設定している店もある。いずれにせよ、夜カフェに入るなら、10時前に注文すべし。

(4)格式の要素
 まあ、これも一種の暖簾代みたいなもんでせうか。FouquetとかDeux Magotなど、妙に有名な所はそれなりの料金設定をしているやうでもあります。
 では、コーヒー1杯(エスプレッソ、デミカップ)の値段は?
 学食のカフェテラス :2.5F
 学校の自動販売機 :3F
 学校のカフェテラス :3.5F
 庶民的地区カウンター:5F
 5、6区カウンター :6から8F
 庶民的地区店内 :8から12F
 5、6区店内 :12から16F程度
 気取った地区店内 :15から20F前後
 だいたいの目安でございます。カフェオレやショコラはエスプレッソに比べてかなり割高です。コーヒー12から16Fの店で概ね18Fくらいでしょうか。私はたいていコーヒー15F、カフェオレ/ショコラ20Fを目処にしています。
 なお、料金は全て税サービス料込みです。とはいえ、たいてい1から2Fのチップは置きますが。

1992年12月20日

 夏にアップしたように、「Quiz」とは試験のことである。
 昨日は秋学期の最終試験の最後の試験があった。試験用紙の表紙には「Quiz final.」と印刷してあり、私は思わず自分がクイズのオーディション番組に参加しているやうな錯覚を一瞬受けてしまった。
 この日の試験は朝9時に始まり、午後2時まで連続5時間続くものであった。試験監督はどちらかというとパリのブラッスリー辺りで朝からワインでもくらっていそうな、何となく気のよさそうなオジさまであった。でも昼飯はいったいどうなるのだろうとこの時は思った。何しろ私に限らず皆いつも通り朝メシは食っていないはずだった。
 試験中、トイレに行くのは自由である。私も1時間半後くらいに催してきたので、一度席をたった。教室の一番後ろの机に座っていた監督のおじさんは、新聞のクロスワードパズルに夢中であった。
 11時頃、そろそろ問題のあらかたに見当がつきはじめたころ、そこかしこでひそひそ声の「議論」がはじまった。「この点はこうあるべきだ」「いやオレはこう考える」等々。中には夢中になって普段の声で議論を始めそうになる者も出てきたので、さすがにこの時は監督が笑ながら(!)注意をした。
 しかし、このおじさんが一服するため廊下に出るや否や、皆待ってましたとばかりいつもの調子で議論を始めるのであった。念のために確認するが、これは試験中の出来事である。ドアは半開きだったので廊下で煙草をふかしている監督にも議論の声は聞こえているはずだが、おじさんは煙草を味わうほうがこの時は重要だと考えていたようである。
 12時15分、皆腹が減ってきた様子であった。一人が「食い物を買い出しに行ってくるけど、何か欲しいものはないか?」と宣言した。皆これを待っていたかのように、「コーラ一本」とか「サンドウィッシュ1つ」とか頼み始めた。監督のおじさんも、「ワシにもサンドウィッシュとビール1本頼むよ」と言っていた。生徒のうち2人もビールを注文していた。
 12時25分、買い出しに言っていたパトリックが戻り、注文品を分配しはじめた。その後は皆試験復帰モードとなったが、サンドウィッシュをかじりながら用紙にかじりつくもの、ビールをぐびぐび飲みながら考えているものなど、実に様々であった。
 なお、試験は持ち込み可であったので、皆ノートやら参考文献を自由に見ることができた。日本の試験と異なっていたのは、試験中他の生徒の文献を借りても特に注意を受けないことであった。だから、試験中に「おいカリム、あの本貸してくれ!」と大声でどなると、当のカリムが分厚い本をぶん投げてよこしたりするのであった。
 1時半、そろそろ終わりが近づいてきた頃。皆最後の確認を始めた様子であった。すると、そこかしこで回答用紙を交換して相互チェックならびに疑問点の指摘が始まった。かなり大きな声で議論をしたものであるが、この時間になると監督の方も何もいわなかった。
 2時、別に「これまで!」の声もなく、皆てんでバラバラに回答用紙を提出していた。私が一番最後の提出であった。
 ちなみにこの日は「情報システム概論」の試験で、問題は一種のケーススタディであった。従って、特に唯一の正解があるという性格のものではなく、どういう視点でどう考えるかを問うことが試験の目的であった。そうは言っても、沈黙と緊張がつきまとう日本の試験とのあまりの違いに、私は一瞬とまどいながらも「ビールを飲みながらの試験もオツなものだ」と思ってしまった。
 前にデータベース論の試験があり、その時は議論の量は少なかったものの、結構似たような雰囲気があった。傑作だったのが、試験開始直後に担当教授が皆にアメを配ってくれたことだった。私が「Bonbon, apres laniere...」とボソリつぶやくと、周囲からは「Tout a fait」「C'est la vie.」という反応が帰って来た。その後、考え込んでいる生徒がいると、教授は再度アメを持って来て激励することを忘れなかった。


1992年12月17日

 巨大なスーパーマーケットは「Hypermarche 」というシロモノです。店によっては自動車まで売っています。最近はパリの近郊に住む人が増え、そのような新興の街には買い物のインフラが不十分なため、たいていショッピングセンターの中にHypermarcheが入っています。RERの主要駅、メトロの終着駅などにはしばしば見られます。
 私の家からだとメトロ7番終点のMarie d'Ivry近くにある「Carre Four」が最寄りのHyper です。ここも「体育館のような」広さであり、店員は何とローラースケートとトランシーバーで監視やサービス等の巡回を行っています。
 郊外に住む人はアメリカ的に相当な量を買いだめしています。あの手押し車2台に食料品やら雑貨品を満載しているのですから、かなりのものでしょう? パリ市内の便利な所に住む人はマメに買い物をするので、冷蔵庫も小さめ。消費生活はこんな点でもかなり異なります。


1992年12月15日

 今日から秋学期の試験が始まる予定であった。
 朝、目覚まし時計のベルをいつものように無意識下でリセットしてしまった私は、7時半頃の突然の電話にようやく目を覚ました。きっと誰かが気を利かせてモーニングコールでもしてくれたのだろう。
 いつもと同じ時間に家を出て、いつものようにChateletでRERに向かった。最近は必ず電車到着のディスプレイ表示を見る習慣がついたので、ホームでまず案内表示を見た。
「CERGY行きがない!」
 と、2ヶ月前ならとてつもなく動揺していたところだが、最近は完全にストというものに免疫ができたようで、殆ど機械的にSt.Lazareへと向った。
 しかし、St.Lazareの雰囲気がいつもと違っていた。
 普段のスト(笑)ならたいていストダイヤ(笑)に従って電車が動いているのに、今日はなぜか異様にシーンとしていた。ホームには人がなく、手前のスペースに所在なげな人の群れが出来ていた。そういえば、公衆電話にはえらく長い行列ができていたし、電車発着の表示には何も出ていなかった。
 この頃からいつものストとは様子が違うと分かった。インフォメーションで確認すると、デファンスより先は全く動いていない由だった。
 仕方なく、オペラまで戻って級友の一人に電話した。案の定、朝の電話は彼からで、ラジオで知ったスト情報を私に伝えようとしたそうだった。今日のストは全面的ストップだそうで、学校に行くのは不可能とのことだった。
 私は試験の心配をするよりも、昨日一夜づけなどせずさっさと床に就いた行動が正解だったという奇妙な満足感に浸ってしまった。
 家に戻って電話機の傍で即昼寝を始めた。1時間後、立て続けに3人から連絡が入り、試験が延期になったことを知った。テレビのニュースを見ると、今日のストがかなり大規模なもので、TGVから何から全てストップしているそうだ。
 そんなわけで、またまたスト、というニュースにもならないニュースであるが、今年は本当にGATTの影響でスト多発ゆえ、旅行者はくれぐれも用心されたし。また、国際郵便事情も極端に悪化しているため、特にフランス着の郵便物はなるべく早く出した方が良さそうである。


 先日買いだめしたカードでも、ほとんどが
 Bonne Annee!
 Joyeux Noel et Bonne Annee!
 Meilleurs Veux pour La nouvelle Annee!
 の3パターンでした。
 ちょっと洒落ているなと思ったのが、
 Recette de Bonne Annee...
 で始まって、
 Une bonne sante, De l'amour partage, une grande aminite...
 などとリストアップしているやつでした。
 なお、このところストの余波で国際郵便事情がえらく悪く、普段は日本から5日で届く航空便が、運が悪いと3週間以上かかる場合があります。ですからフランス宛郵便物はなるべくお早めに投函した方が良いと思います。


1992年12月11日

 パリで生活している実感からすると、概ね肌の色に合わせて、という気がします。白人系はかなり淡いピンク、黒人系は濃い目のルージュといった感じで。ただ、ラテン民族だとかなり様々な血が混在しているので、案外色白の人が少ない。これ事実。だから、白人系と言ってもけっこう浅黒い人がいますので、そのような女性はそれなりに色の濃い口紅を使っている例が多いように思われます。
 ところが、東洋人は全体にそのバランスよりも濃い目の口紅を使う傾向が強いように思われます。以前、化粧、特に口紅の濃い東洋人はたいてい日本人だ、という話を聞いた覚えがある。これも口紅重視の現われでせうか? カミさんの説によれば、「フランス人はアンブラセやキスする機会が多いから、いちいち口紅を気にする暇がないんじゃない?」とのことです。


1992年12月08日

 以前、欧米人はゲップには神経質だが「屁」には結構無神経であると聞いたことがあったものの、私はずっと懐疑的であった。しかし、最近になって周囲に観察が行き届くようになると、結構そこらぢゅうで屁をひっている光景を目撃することが多くなったのも事実である。何もパリジャン、パリジェンヌがいたるところでコきまくっているわけではないが、駅で椅子に腰掛けていたマダムがふっと腰をずらしたかと思うと、周囲の騒音の中にもかすかに「ぷっ」というあのphonetiqueを認識することができるのである。
 車内でもそしらぬ顔で「ぷっ」という光景はたまにある。さすがに鼻先でかまされた経験はないが、横で立っていた男の腰から下の方から、何やら聞き覚えのある破裂音が発せられるのを確認した経験が何度かある。そんなときは、かえってこちらの方が目をあわせるのが恥しくなってしまうのがおかしい。連絡通路での歩きっ屁という光景もままある。
 何にせよ、私にとって住みやすい所である事実に変わりない。


1992年12月06日

 Fontainebleau はパリの南やや東より40kmくらいにあるので、交通手段はリヨン駅からS.N.C.F.のBanlieu 線を利用することになります。RER なら本数も多いのですが、Banlieu 線だと1時間に1本です。
 家からリヨン駅までは91番のバス、そして地上ホームで初めてリヨン駅を見るカミさんに「ほら、あれがT.G.V.だっぺ!」と一瞬の観光案内をしただけで一目散に地下ホームに向かいました。窓口はどうせ行列だろうと思い、即、自動券売機に並んだのですが、直前のおばちゃんがえらく手間取った上、Carte Bleue が使えず結局パス、私も小銭がなくCBで買おうと思ったので、結局並び損、窓口でParis-LyonからFontainebleau まで片道35F也を買いました。
 自動改札をくぐり時刻表を見ると、何と17hまでのBanlieu 線は全て地上ホーム!しかも次の電車の発車までわずか3分でした。そこから猛烈にダッシュしたものの、運悪く端から端に移動しなければならない位置関係にあったため、30秒間に合わずに行かれてしまった...。(;_;)
 インフォメーションにて。(パターンはSF2で覚えた通り)
.
私:Quels sont les horaires des trains pour Fontainebleau?
係:Ben...le prochain train...c'est...14h50...Non! 13h50!
私:et de quelle voie?
係:Je ne sais pas. (きっぱり)
私:....OK. Merci...
.
「ホームは?」「知らねぇ!」っというのが妙におかしく感じてしまった。
 約50分の間は仕方なくキオスクを覗いたりカフェで時間を潰したり。駅構内のカフェは物乞いが巡回しているので、一番外側に座るのは禁物。
 リヨン駅からは40分弱、駅から城まではバスが利用できます。暖かい季節なら自転車を借りてお城だけでなくバルビゾンの森まで行くというコースもなかなかでせう。でも今日は底冷えのする一日なので、躊躇なくバス。駅から城まで片道7.6F也です。
 Fontainebleau のお城は「歴代の諸王に愛された」という表現がしばしば冠せられるように、Henri IV やFrancois I、Louis XIV、そしてNapoleonが特に愛用した城と言われています。かなりの長期間現役であったため、多くの様式が随所にちりばめられており、私はベルサイユ宮殿よりもかなり気に入っています(今回が2度目)。
 バス停から2分ほどで正面入り口、そこから正面の階段に向かい、向かって右側にある通路から中庭に抜けました。池にはカモだのアヒルだのに混ざって海のギャングまでおりました。池の中央には亭もあります。確かオルセーにこの亭を描いた有名な絵があったやうな気がしたものの、明確には覚えていない。以前は亭側も散策できたのですが、今日はペケになっておりました。
 ここからは例によって噴水に向かい、そしてフランス庭園おなじみの運河に向かうといふ典型的散策コースを歩みました。とにかく今日は寒かった!庭を見た後は走るようにして宮殿の見学コースに向かいました。倉庫か何かのゲートのような入り口を押し開け、一人26F也の入場券を買って巡回開始。詳しい内容は何しろ30代の衰えた記憶力には重荷ゆえ再現できませんが、ルネッサンス様式に始まって、ロココ風あり、ナポレオンの紋章で埋めつくされた様な部屋がありと、かなり変化に富んだ様はベルサイユ以上に楽しめることうけあいであります。
 帰り、バスを5秒差で逃してしまった。底冷えする中待つこと20分、ようやく次のバスに乗って駅まで。次の電車は30分後でした。
 Fontainebleau はZone 6なので定期の通用するZone 6までの切符を買おうとしました。ところが窓口でZone 5までの切符と言っても「何だそりゃ?」と言ふので、Zone 1 から5までは定期があるので、と説明すると、「切符で乗車する場合は全区間買わなきゃあかんよ」との事。ううむ、これは知らんかった。でも、Zone 5の駅名が分かれば自動券売機でそこまで買える。でも、この場合もし検札が来たらどう判断されるのだらう?確かに途中駅は2駅しかないので、Zone 5で乗ったという言い訳は通用しない...。そんなわけで帰りも片道35FF也を払って帰ったわけです。
 んで、帰りに驚いたことが一つ。途中駅Melun で電車の通過待ちがあったのですが、通過して入った列車がどうも蒸気機関車だったような気がする。ひょっとして、フランスではまだSLが現役なのだろうか?!!?


1992年12月05日

 クラスに一人中国人留学生がいるのですが、語学力がいまいちで本人はかなり苦労しています。優しき級友達のいろいろなアドバイスの甲斐あって、何とか多少の会話はできるようになったものの、まだまだ道は困難です。
 剽軽者のThomasは彼の近くに住んでいることもあって、何かと気を配っています。ある日Thomasが彼の家に遊びに行ったとき、TVがないのに気づきました。彼は給費留学生であるため、自由になる資金がそれほど多いわけでなく、TVを買う余裕がないのだそうです。語学力をつけるためにTVは有用と考えたThomasは彼に内緒で級友達に話しをつけ、一人50Fずつ出し合って彼にTVを送ろうということになったのです。
 そして今日の休み時間、いぶかしがる彼を学部の部屋に連れ、紙でつくった巨大なリボンで飾ったTVを彼にプレゼントしたのでした。
 始めのうち、彼は状況をのみこめなかったようです。みんなが「これは全員から君へのプレゼントだよ」と繰り返し説明したり、私が紙に「謹呈」と書いたりしてようやく何が起こったのか理解できたようです。
 本当にいい連中だなぁ、と、今日もしみぢみ思ってしまった。


1992年12月03日

 フランスの小学生は宿題地獄だそうですよ、これはよく話題になることですが。宿題が多すぎるので、とても塾などに行く暇がない、だから塾が存在できるわけがない、という話しを以前聞いたことがあります。
 どのくらい多いか?
 フランスの小学生は結構ランドセルを使っているそうですが、それが宿題でパンパンになる。当然相当な重さとなるわけです。そしてこの重荷が小学生の発育に悪影響を及ぼすのではないかとマジに議論されていたそうです。
 まあフランスと言えば日本どころでない学歴社会、エリートを目指す子供らにはファミコンをやったりアニメを見る時間などはないのではないかと想像しております(あっ、これはまだ裏をとってませんからね)。


1992年11月29日

「ドラゴンボール」などは視聴率60%だったそうです。「うる星やつら」は「めぞん一刻」の前の放映だったかもしれない。
 日本アニメの評判は概ねキャラがかわいい、絵が細かくて奇麗、ストーリが面白い等ですね。ただ、バイオレンス物等に対しては、暴力シーンが多すぎるとの批判もあります。
 フランスだとアニメは子供が見るものと判断されています。ヨーロッパでは大人の世界と子供の世界が明確に区別されているので、普通の大人はまずアニメを見ることはないようです。ですから、大人のアニメに対する評価はあくまで親の目としてのものになります。尤もフランス製のTV番組(アニメやドラマ、バラエティ番組)はあきれるほどつまらなく、これでは大人はTVを見ないというのも当然だと思いました(サッカーや映画は無論例外)。
 ファミコンの人気もなかなかのもの、フランス語版のソフトや攻略本、関連雑誌などがかなり出まわっています。メッセージなどが全てフランス語ですので、案外フランス語の学習に役立つかも知れませんね。ソフト自体はfnac等以外でもスーパーで売っています。
 フランスの小学校は日曜と水曜が休みです。これは5日続けて学校というのが体力を消耗させるという配慮からのようです。ただ、サラリーマンの週休2日が定着してからは、休日を土曜にせよとの声も強いそうです。実際、旅行に連れて行く時などは子供に仮病を使わせたりするそうですが、学校側もそれを防止するため、土曜にテストをしたり宿題の提出日にしたりするそうです。


 一般にモンマルトル近辺の治安は良くないといわれていますが、それはあくまで相対的な話でしょう。私はこの街の雰囲気が大好きです。パリっ子の間でも一番情緒のある街の一つに数えられています。
 サクレクールに通じる辺りから丘にかけてはそれほど危険ではないでしょう。セックスショップが集中しているのはピガール広場近辺で、確かに夜になるとちと雰囲気が違うな、という感じになります。でも、やはりここはいろいろ歩いてみると、それだけでユトリロの風景を見いだすことが出来ます。ついでながら、パリで最もアメリカ人比率の高いところです。
 特に気に入っているのが丘の向こう側にあるキャバレー「Lapin Agile」。日本人に人気のあるシャンソン酒場ですが、ユトリロの絵そのままに残っている。初めてパリを訪れた時は真っ先にここを見に来ました。
 広場では画家達の似顔絵。別にドロボーとかではないので、興味があればかいて貰うのも一興でしょう。ただし、徹底的に値切ることをお忘れなく。去年カミさんが描いて貰ったときは、500Fから始まって、最後は80Fで手を打ちました。だけど後で聞いてみたら、50Fまでは行けたかも知れない由。むろん、描く人の格によって相場は異なるでしょうが。
 なお、モンマルトルでは情緒に浸るときもしっかり身構える必要あり。スリやひったくりが極めて多いそうです。


1992年11月24日

 エジプト人留学生KARIMとの会話。
 KARIM:「ねえMassa、マックユーザーがIBMっていうとき、どういう意味だと思う?」
 Massa:「まさか Idiot、Bizarre、Mechant じゃないよな……」
 KARIM:「うふふ、I Bought Mac. って意味だよ!」
 Massa:「そか。DOSユーザーがMACっていうときは?」
 KARIM:「Euh、知らない。」
 Massa:「きっと、 Mais, achetons Compaq! だろうね。」
 KARIM:「……」
 あたしはマック信者だけに、言うに忍びないジョークであった。


1992年11月22日

 学食にて...
 自他共に女好きを認めるCEDRICといふやつが、前々から日本の女の子を紹介しろとうるさい。
 セ「ねえ、Massa、東京には髪の長い子が多い?」
 私「4、5年前は多かったけど、今はみんなばっさりだな。」
 セ「ええ!ボクは長い黒髪の女の子が好きなのに...」
 私「流行だからしゃあないわな。」
 セ「(気を取り直して)でも、東京ではフランス人はモテるんだって?ワタシハふらんすジンデスって英語で言えばdrague出気るんだろ?」
 私「(セドリックの顔をしげしげと見つめて)確かに昔はそうだったかもしれない(んなわけあるものか、と思いつつ。そして加えて曰く)。……ただ、それもクレッソンが首相になるまでだったな」
 セ「Oh, merde!!」
 会話を聞いていた周囲、大爆笑。どうやらクレッソン女史の口禍は結構有名なのかもしれないなんて思ってしまった。

 昼休み後の教室にて...
 食事から戻ってくると、なぜか皆教室に入らずに外でとぐろをまいていた。どうしたのかと尋ねたら、
「Pierreが中で寝ているから、起きるまで待っているんだよ。」
 この日ピエールはひどい風邪で、昼休みの間も食事には行かず教室で寝ていたのであった。皆それを気遣って、次の時間の教授が来るまでそのまま寝かせといてあげようと思い、それでドアをしめたまま外で待っていたのであった。
 私は心の底から本当にこいつらは何ていい連中なんだとしみじみ思った。
 数分後ピエールが目をさまし、起き上がってきた。誰かが「ピエール、よく眠れた?」と聞くと、自分を起こさないよう皆が外で待っていたことに気づいたピエールは、まだかなり疲れた表情の中にも本当に嬉しそうな笑顔を浮かべて「Merci」を連発していた。


1992年11月21日

 旧SF1に肉屋で小切手を支払うシーンがありました。他のテキストなどでもこのようなシーンは多いと思いますので、フランスでの一般的な「支払方法」をまとめてみました。

(1)銀行口座
 フランスの銀行制度では、日常の金のやりとりを目的とした当座預金と、利殖を目的とした普通預金(むしろ日本の定期預金に性格は近い)とに別れており、公共料金の自動振替や個人間の送金等は全て当座預金で行います。英国系の銀行が当座預金の遊んでいる資金を自動的に利殖にまわし、「当座預金でも利子がつく」といったサービスを盛んに宣伝しておりましたが、フランス系銀行のクレームで今では禁止されたようです。
 従って、日本の普通口座に位置づけられるのが当座預金。そんなわけで、口座を持っている人はごく普通に小切手を利用します。

(2)chequeかCarte Bleueかliquideか  フランスで便利なのが Carte Bleue。これは銀行のキャッシュカード兼クレジットです。年間手数料約150Fを払うと、あとはどの銀行のCDでも手数料なしで現金を引き出すことができます。ただし、引き出しは1週間に3,000Fまでと制限されています。
 パリではかなりの店でCBが利用できます。そこでは多くの客がCBを利用します。使用方はレジにあるハンディ端末に暗証番号を入力するだけ。(注:フランスでは銀行側が暗証番号を決めます。だから、複数のカードを持っていたりすると、それぞれに暗証番号があるのでえらく不自由するようです)
 ただし、スーパーや量販店では最少利用額を決めているところもあります。たいてい 50Fか100Fくらいでしょうか。万一、最少利用額に満たなくてしかも現金がないとき、仕方ないので近くのCDまで金を降ろしに行かねばなりません。私も一度経験しました。
 CBを使えない店でもchequeはOKというところは多いようです。ただし、これも店によっては最少利用額を決めているところがあります。
 ごく大雑把に言うと、財布の中には 200、300F入れておき、100F以上の買い物ではなるべくCBやchequeを利用するという例が多いように思えます。私もたいていliquide は300F程度だけ、ただしCBやchequeはたいてい持ち歩きます。

(3)どんなときにchequeは便利か?
 日本で普通の人になじみのないcheque、ではどんな時使うと便利か?
 何と言っても銀行振替の代わりに利用できるのが便利です。たとえば何かを買って請求が来る、あるいは公共料金の請求が来る、こんなときはchequeにサインして送るだけで終わり。また、日本ではまだ保険や交通などサービス関係はクレジットカードを利用できないため、現金を事前に用意する必要がありますが、フランスでは簡単にchequeでOK。
 個人間でもchequeを利用することが多々あります。誰かに何かを任せてきて貰う、支払は現金よりもchequeが好まれます。何しろ週3,000Fという引き出し制限がありますから...。
 自分の口座から余分に金を引き出すときもcheque。
 こんな便利なものでも、最近は偽造、盗難の流用、焦げ付き等が多いので、利用時に身分証明書の提示を要求されることもあります。政府はなるべくCBを利用させようとしているようです。

(4)日本の銀行制度との違い
 暗証番号以外にも色々な違いがあり、慣れないうちはえらくとまどいます。
 何よりフランスの銀行には預金通帳なるものが存在しないのですよ!取引内容は全て月初めに明細が郵送されてきます。代わりに口座証明 R.I.B(Releve d'Identite Bancaire )なるものがあり、自動振込や銀行引き落としの際に必要となります。これは小切手帳にくっついているのを切り取るかコピーするほか、CDでも発行可能です。
 とまどったのはCDでの入金方法。手順は次の通り。
  1. カードを突っ込み、暗証番号を入力。
  2. ディスプレイから入金に相当する欄を選ぶ。
  3. 現金かchequeかを聞いて来るので、どちらかを選択。
  4. 入金する額を入力。
  5. 操作日時、口座番号、入金額等を記入したスリップが出てくる。
  6. 備え付けの封筒にそのスリップと現金またはchequeを入れ、封をしてから投入口に突っ込む。ただし、chequeの場合は裏に自分のサインをする。
  7. 顧客控え用スリップが出てくるのでそれを取り出す。
  8. 終わり。封筒内の現金の行方を心配しつつ帰宅。

 入金がコンピュータに記録されるのは翌日になります。入金だけでなく、自動振込の記録も全て翌日になりますので、残高が正確に分かるのは厳密には出入金のある翌日ということになります。日本のような大規模なコンピュータ・システムではないわけです。



1992年11月18日

 今日はスト...と言っても、これで4回目ともなると全くニュース性はなくなってしまった。しかし、10月、11月でまさしく4回のストが行われたのは事実で、1回目がRATP、2回目がSNCF、3回目がRATP、今回はRATPとSNCF。
 日本的感覚だとストが行われれば全てがストップ、ところがフランスでは前回報告したように、全てストップさせるのはご法度とのこと。従って、本来ならRATP、SNCFがストともなればどこにも行きようがないはずなのに、我家の近くでは本数は少なかったとはいえメトロもバスも動いていた。CERGY.方面もST.Lazareからほぼ平常通りの運転であった。
 ところで、以前パリ在住10数年になる人から、パリ市内を移動する時、始めのうちはメトロばかり使うけれども、慣れるとバスの方を好むようになるだろうと言われた。確かにパリは大都市ヅラしている割に小規模なので、多少の渋滞はあってもそうそう時間を取られることがない。街並みを眺められるのも楽しいし、何より駅で階段を昇り降りする必要のないのが助かる。
 そんなわけで、今日もSt.Lazare からの帰りにはバスを使うことにした。
 St.Lazare からだと27番のバスに乗ると乗り換えなしで帰ることができる。実はこの27番、パリ市内のバスでも数々の名所を通るため、パリ市民にも人気があるらしい。日本人観光客にも絶対にオススメの路線である。
 St.Lazare を過ぎてまずAU PRINTEMPSの横を通ってOPERA 座に出る。そのままOPERA 座通りを走ってルーブルをつっきる。当然、左手にガラスのピラミッドを眺めることができる。島に入ってからPONT NEUF を目の前にして左折、大陪審院沿いにNotre-Dameに向かい、パリ警視庁の前で右折、そのまま橋を渡ってSt.Michel 広場の前でたいてい信号停車。それからLUXEMBOURS公園と接するロータリを左折し、MOUFFETARD通りとの交差点を右に折れてGOBLINS に至る。そのまま乗っていればITALIE広場に向かう。
 こう書くとまるでParis Visionのツアーコースのようであるが、これはマジにRATPの一路線である。
 これからパリ観光の予定がある方は、ヒマで何もすることがない時など、是非お試しあれ。


1992年11月13日

 やばい通りと言えば「St.Denis通り」。BD St.Germanは東京で言えば環4(キラー通り)でしょうか。
 今気づいたのですが、日本で「avenue」と言えばフランス語より英語の原則に従っていると思いませんか? そうなると、単なる並木道がAv.?、それとも南北の道がそう? こうなるとようわからん。
「Bonne nuit」だと「おやすみなさい」の意味になりますから、「Bon soir」で正解でしょう。以前にも書きましたが、私は夕食時を「Bonjour」との境界にしています。「Bon soir」は「さよなら」の意味でも使います。女性形にして「Bonne soiree」とすれば完全に「さよなら」の意味になります。親しい友人の間だと「ちわ」も「さよなら」も「Salut」だから簡単です。