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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。

1993年09月02日

 マナーには、精神と技術の2面があると思うのです。我々が料理のマナーを語る時、ついつい技術面にのみ注目しがちではないだらふか? 反対に、マナーの精神と技術とが乖離し、技術のみが形骸化した結果が我々の周囲にあまりにも多いのではないかと思うのです。
 思えば我々の間には実に奇妙な「マナー」が存在します。食事以外でもそうでしょ? 挨拶にしても、ある民族は頬にキスをし、ある民族はタバコを交換し、ある民族は頭を下げる。御辞儀にはそもそも自分の急所(延髄)を晒し、敵意のないことを示すという「絶対的意味」があったそうです。しかし、いまではそんなことを考えて御辞儀する人はいない。
 形骸化は一方で手続きの簡略化を果しているのではないだらふか? 手の込んだ料理というものは、無限のメッセージが込められているのではないだらふか?ならば自然なマナーというものは、そのメッセージを受信できてはじめて可能なのでしょう。形骸化したマナーで四苦八苦するというのは、懸命になってメッセージが聞こえるふりをしている態度なのではないだらふか。


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