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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。

1994年07月28日

 衣服というと、ウェスターマルクの「裸体に対する羞恥心は決して衣服の発生原因ではなく、むしろ衣服の存在によって生み出されたものである」が印象的であります。衣服こそ、機能中心主義では説明しきれないのが面白いですね。むしろメディアに近いんじゃないのかな。
 前に小説工房で面白いエッセイがありました。「似合う(と思う)服」「好きな服」のほかに、「安心できる服」があるんじゃないか、という指摘です。日本のサラリーマンが夏でもスーツにネクタイというのは、たしかに「それを着ていると安心できる」って心理があるのかもしれない。共同幻想としての衣服の役割というのも、考えてみれば面白いかもしれませんね。
 ある在日フランス人のコラムにもこんなエピソードがありました。最初、制服が不気味だったそうです。なにやらナチズムを連想することがあったとか。ところが、長年住んでみると、その効果を評価できるようになった。共同体維持に必要な帰属意識を保つために、制服はおおきな寄与があるんじゃないか。で、日本のような過密社会だと、制服はむしろ不可欠かもしれない、と。
 フランスのファッション観あたりとは、案外とこのあたりに本質的な違いがあるのかもしれませんね。


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