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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。

1993年04月09日

 窓からこぼれる光はグレーがかっていた。どうやらこの日は雨男アブデルの勝利を予感させた。
 徹夜明けの疲れが手伝って、起きた時には既に12時をまわっていた。パトリシアの両親は既に出かけていた。昨日聞いた話しでは、シャトー巡りの25kmハイキングに行っているはずだ。我々はアブデル夫妻とパリにいる時と代わらぬ遅い朝食を取った。当然、パンとコーヒーだけのコンチネンタルである。
 この日は海上の寺院として有名なモン・サン・ミッシェルに向かった。フジェールから約50km、途中の景色は相変らず富良野・美瑛である。途中から雨が降り始め、雨男アブデル曰く「これがブルターニュの週末さ」。
 私は横浜育ちゆえ、海と言えば丘の向こうに見えるものという感覚が強い。湘南海岸でさえ、鎌倉の山を越えた向こうに広がる。だから、ブルターニュのようになだらかな丘陵の果てに海があるという光景には違和感を覚えた。潮が引いていたこともあって、海というより干潟の中という雰囲気であった。
 小雨が時折パラ着く中、突然モン・サン・ミッシェルが浮かびあるようにして視界に飛び込んできた。近づくにつれて絵や写真でおなじみのキスチョコ型輪郭がはっきりしてきた。島に至る道の両側が駐車場になっているのだが、路上の駐車スペースは既に満配で、結局先端部にある有料駐車場に止めることとなった。風がかなり冷たかった。
 島の門をくぐると案内板が立っていた。満潮の時間も記されていた。そして、案内板にはフランス語、英語等に交じって、日本語の説明も書かれていた。フランス駐在の日本人は必ず訪れる場所というから、かなりの数に上るのであろう。尤も、オペラ座界隈とは比較にならない。
 島に入ってしばし狭い坂を上る。両側は古い石造りの建物を利用したみやげ屋でいっぱいである。ちょうど京都の二年坂、參年坂辺りに渋谷のスペイン坂風猥雑さを加えたような雰囲気である。場所が場所だけあって、英語をしばしば耳にした。ここではイギリス人がおのぼりさんである。

 まるで江ノ島のようなモン・サン・ミッシェルのロケーション、ぐるりと一周した後は教会に上ろうとした。生憎とその時は昼休みだったので、30分ほどカフェで時間を潰すことになった。
 午後の見学開始時間は1時45分からである。2分前に入り口に着いたのだが、まさに門前に列をなす状態であった。結局開門からチケットを買うのに30分以上かかってしまったが、タイミングの悪いもので、この頃から雨足が強くなってきた。
 中にあった日本語の解説版(!)に、教会とブルターニュ地方の簡単な説明が載っていた。建設は11世紀のことで、英仏100年戦争の折は要塞となっていた由である。パリ市内にある教会より質素な作りで、ステンドグラスもかなり控えめな色遣いだった。天井も板張りである。
 上部の中庭とそれを囲む回廊は一見の価値がある。礼拝堂からその回廊に出たときは、外の光と中庭の緑がとても眩しく、繊細な造りの小さな柱の並ぶ光景に一瞬声が漏れてしまった。回廊自体は一周数十m程度のものであるが、半周した辺りから教会の塔を覗き込むことができ、また振り返れば断崖絶壁から眺めるような海の光景が広がる。
 教会内部は見学用の順路が設定されており、1時間もあれば丹念に見てまわることができる。最後の6番のところで人垣ができていた。格子戸が閉まって中に入れないようになっていたのだ。ところが、戸の下の方で日本語で何やら呟いているフランス人女性が、必死に鍵を明けようとしていた。しばし他のやじ馬たちと眺めていると、どうやらフランス人ガイドと一緒に旅行していた日本人家族がいて、子供が戸の鍵を締めてしまったらしかった。ヤジ馬たちはてっきりここを通過しないと帰れない思っていたので、心配気に事の次第を眺めていた。最後は結局かのガイドが「右側から降りられますよ」と一言、それから行列はしずしずと降りていった。
 教会を一通り見た後は、風も出てきたし昼も食べていなかったので、モン・サン・ミッシェルを後にすることになった。ここはライトアップされるので、黄昏時や月夜の晩などはさぞ美しかろうと思われる。次に訪れるときは是非とも満月の夜に訪れて、ムーンライト・セレナーデなどを口笛で奏でたいものだ。人さえいなければさぞロマンチック、と言いたいところだが、人気がなかったらさぞ不気味であろう。こういう所は観光化されてちょうど良いと思った。
 ブルターニュの食べ物と言えばやはりクレープであろう。私もかつて横浜元町のブール・ミッシュにしばしば通ったくらいなので、ブルターニュ旅行の楽しみの一つがクレープであった。
 ところで、パリでもちょっとしたCreperieなら「Crepe」と「Galette」をはっきり区別している。辞書によればガレットは「そば粉を使ったクレープ」とある。実際、クレープとでは使っている小麦が違うので、腰の強さや色が当然異なる。もう一つ、両者の「具」がはっきりと区別されている。
 ガレットの具はチーズ、卵(サニーサイドアップ)、玉葱、トマトなどである。トッピングは自分で選べるが、全て少しずつセットされたものもあり、メニューの中に「Galette complete」と書いてある。値段は20F前後。
 クレープの方は砂糖を中心にショコラやマロンのクレーム、バナナ、アイス等で、パリのクレープスタンドとだいたい同じである。さすがに全て込みというものはない。値段はやはり20F前後。
 ブルターニュ出身のパトリシアによれば、まずシードルで乾杯、そしてガレットを1皿か2皿食べ、それからクレープを1皿、最後にカフェというのが正当プロトコルなのだそうだ。そして、シードルにはグラスではなく茶碗に似た焼き物の器を使うのが正調だという。この辺りはお好み焼き屋でまずお好み焼きを1、2枚、それから焼きそばを食う、お好み焼きを食べるのには箸ではなくヘラを使うのが正調、などと言うのと同じ類であろう。東京だとお好み焼きの前にもんじゃというオプイCS(N)>Vョンもある。
 因みに正調クレープ屋はパリ市内だとモンパルナスに集中しているので、パリで食してみたい方はそこでおためしあれ。モンパルナス通りの途中、メトロ4番Vavinとメトロx番Monparnasse bienvenuの間あたりを、タワーに向かって左側に伸びる小道にクレープ屋が集中している。

 島へのアプローチの途中にあったクレープ屋で遅い昼食を取った。雨の中を歩き回ったので、体中びしょびしょである。と、この種の展開には極めてありがちのことであるが、ガレットを食し終わるころには雨がすっかりと上がり、空の向こうには晴れ間さえ窺うことができた。
 この日はパトリシアのお姉さんベロニックの家に泊めて貰うことになっていた。場所はレンヌの郊外である。1ヶ月前に引っ越したばかりだそうだ。ベロニックには一度パリのパトリシア宅で会ったことがある。彼女の家に向かう途中太陽が顔を見せ、平坦な土地に半円状の壮大な虹が架かった。
 ベロニック宅には6時頃到着した。彼女の旦那さんはティエリーといって、レンヌに工場を置くキャノンに勤務している。だからといって、特に日本語が得意だとか日本贔屓というわけではないから、それだけキャノンが多国籍企業として認知されている証拠なのであろう。ファックスとレーザープリンタの営業管理を行っているとのことだった。
 この日は土曜ということもあってパーティが行われる由で、彼女達はつまみ作りなどに励んでいた。この日のメインはアブデルの作るモロッコ風クスクスである。彼の家には良く招かれ、クスクスも2度馳走になったことがあるが、これは本当に絶品である。他の料理の腕も中々なもので、彼のおかげで私は未だにパリのうまいアラブ料理屋というものを知らずにいる。
 我々2人もぼんやりしては所在無気なので、料理の準備を手伝うことにした。野菜の切り出しを頼まれたのだが、フランスではこういう時にまな板を使わずに、ボールの上で削るようにして切る。横ではパトリシアがいかにも手慣れた手つきで切っているのだが、さすがにカミさんも私もすぐには要領がつかめなかった。結局アブデルが羊の肉をさばくのに使っていた俎板をかり、それで何とか用を足した。
 パーティに集まった人数は我々を含めて13人、ベロニックが高校の先生なので、皆学校に勤めている人達ばかりである。フランスではパーティの際に花かショコラを持参するもの、とものの本には書いてあるが、この時何かを持参したのは一人だけであったから、「招かれたら手ぶら」というパターンが増えているのであろう。パリでも概ねそうである。
 これだけの人数が集っても、左右2回ずつのちゅは厳守される。無論、アラブ人はアブデルだけなので、男同士は握手である。ちゅの間に自分のPrenomを名乗り、「Ca va?」や「Enchantee」で間をつなぐ。
 フランスで生活を始めて既に10ヶ月経ったとはいえ、さすがに1ダースもの会話には耳がついて行かない。ここは手近な会話に参加する傍ら、他の流れを観察することにした。見ていて何となく分かったことは、「声の大きいものが会話を制する」という極めて単純な法則である。会話は話題が完結することなく、話の途中から次から次へとポンポン飛んで行く。これはサッカーを思い浮かべれば分かり易いであろう。一人でドリブルしたり、相手にパスしたり、あるいはインターセプトしたり、それでいてシュート/ゴールまでには必ずしも到達しないのだ。流れが変わるのも始終である。
 パーティのホストであるティエリーはシャンパンを用意したり、暖炉でソーセージをやいたりと、実にこまめに動き回っていた。ベロニックもつまみを運んだり、飲み物を用意したりで、この辺り、2人とも黒子に徹していた。
 パーティの始まりは8時頃、12時頃から徐々に御開になった。席を立っても例の儀式とその間の立ち話のため、さあ帰ろうから実際にドアを出るまでに30分はかかっていた。最後のグループが帰った時には、既に2時を回っていた。


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