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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。

1993年04月10日

 ディナンでしばしタイムスリップを味わったあと、我々はサン・マロに向かった。古い町並みで有名な港町で、イギリスとの定期航路があるため、イギリス人観光客が特に多い町でもある。
 日曜で天気もまあまあとあって、町の中は人込みでごった返していた。駐車場も当然満配で、我々は城壁の門からはかなり離れた埠頭の部分に路上駐車した。車のすぐ横には小型のフェリーが停泊していた。
 城壁の外側からの眺めは、まるで絵に書いたような古い町の造りである。見晴らしの塔にはフランス国旗の他に、ブルターニュ地方の旗、サン・マロの旗などが翻っていた。ディナンもそうだが、何となくドイツの町並みに雰囲気が似ている。建物の木組み、屋根の形なども、ドイツの中くらいの町にありそうな雰囲気である。ただ、不思議なようだがドイツよりも質素な色彩である。
 城門の中は人、人、人である。恐らく住民よりも多くの観光客で賑わっていたことであろう。耳に入ってくる言葉はフランス語よりは、むしろ英語やドイツ語の方が多かったように思われる。東洋人の姿は殆ど認められなかった。
 建物の造りや城壁の雰囲気は確かにヨーロッパの古い町の魅力に満ちていた。ただ、ゆっくり町の顔を眺められる点で、ディナンの方が印象的であった。町そのものは確かに一見の価値はあるが、ここではタイム・スリップを味わうには至らない。
 町を一度突っ切って、海沿いの門から一度波止場に出た。ここを城壁沿いに回り込むと、砂浜が広がる一角に出た。城壁がそのまま防波堤のような形になっていて、途中一箇所梯がかかっていた。ここから浜に降りることができる。城壁沿いに進める道は途中で途切れており、その先には海の中の根に建てられた小さな見張り台のような建物が見えた。
 ここを一度引き返し、途中にあった小さな船着場の先端まで行ってみた。この時は干潮だったらしく、船着場の左右は所どころ水たまりの残る干潟が広がっていた。その干潟の上を丸々と肥ったカモメが歩き回り盛んに足跡を残していた。サン・マロ近辺は牡蛎等がふんだんに採れるので、恐らくカモメもえらく栄養が良いのであろう。
 船着場の先端でほんの一時海を眺めた後、再びサン・マロの町に戻った。午後も暫く経った後なので、皆空腹であった。そしてサン・マロで食事をするとなれば、自動的にガレット+クレープである。
 最初にくぐった門の近くに手軽なクレープ屋があるとパトリシアが言うので、皆一目散にそこを目指した。途中古い教会があり、数分だけ中を覗いた。教会の造り自体はパリ市内にある教会と大差ないのだが、ステンドグラスの色合いがモスグレーや煤けた黄色を中心にしており、パリのカトリック系教会より地味な印象を抱かせた。
 教会沿いに巡る道は人通りも少なく、古い倉庫風の建物などもあって一瞬ディナンと同じような感覚を抱かせた。尤もこの気分を瞬く間にぶちこわしたのが、教会沿いの一角から放たれたPispisの刺激臭である。

 3時頃の遅い昼食をサン・マロのクレープで取った。ブルターニュ標準プロトコルに従い、まずはシードルで乾杯、そしてガレットを一皿である。残念ながら、シードルを飲む器はグラスであった。パトリシアが「ちぇっ!」と舌打ちしていた。
 モン・サンミッシェルで私は「oeuf, jambon et fromage」を頼んだが、今回はフルトッピング、つまり「galette complete」を頼んだ。値段は20F、味はこちらの方が良かった。他もだいたいcompleteを頼んでいた。アブデルはバターを「大盛り」で頼んでいた。
 一皿でもかなりボリュームがあったため、追加のクレープには至らなかった。デザート代わりのコーヒーを一杯飲んだ後、サン・マロを後にすることになった。何やらガレットを食べに来たようなものであった。
 サン・マロの次に向かったのは、カンカール(Cancale)の港である。何でもここでは海産物を直売しているそうで、牡蛎の買い出しに行こうということになった。サン・マロの東約20kmほどの所である。私は横浜の雑踏育ちなので、港のあるところはやはり楽しい。今では横浜の海に砂浜はなくなってしまったが、私が小学生の頃は屏風浦(京浜急行で上大岡の1駅先)は潮干狩の名所だったし、京浜富岡は海水浴で賑わっていた。磯子や本牧にはよくアイナメ釣りに行ったものであった...。
 既に6時近くだったため、牡蛎の直売をする店もそろそろ帰り支度を始めていた。干潮の海には牡蛎の養殖を行っているらしき囲いがむき出しになっていた。堤防の下では牡蛎の殻から身の残りをつっついたいたカモメの姿が見られた。栄養が良いせいか、このカモメどもも恐ろしく肥っていた。
 アブデルとパトリシアが牡蛎を買い出している間、残る者達はかすかに虹の残る海を眺めていた。ブルターニュ地方はどこかで必ず雨が降っているのであろう、虹の姿が全く珍しくなくなった。ロレンスが何か急に呼びかけた。海の向こうに浮かぶヨットの横に、モン・サンミッシェルが見えると言うのだ。目の悪い私であるが、確かに海の彼方にキス・チョコのような姿をおぼろげに認めることが出来た。
 アブデル達が戻ってきた。全然値切れなかったと不満気であったが、袋に一杯の牡蛎を持ってきた。「牡蛎のツラ」を拝むためには、あの堅い殻を自分達でこじ開けねばならない。
 買い出しが終わった後、レンヌに戻ることにした。駐車場までに戻る間、古い小さな大砲が無造作に置いてあった。下の話が好きな私はここぞとばかり大砲にまたがり、「Voila, mon canon!」と騒いだ。この種のジョークが好きなのは世界の男共通?アラブ人特有?それとも我々固有?なのか、サレとサイッドが写真を撮るからそのままでいろと叫んだのであった。


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