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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。

1992年10月01日

 言わなければ分からない。私はさらに、「行動で示さなければ分からない」を付け加えましょう。つまり、好意を持っている人間には親切な行動を示す、これも重要な原理だと思うのです。具体的には、アンブラセもそうだし、握手もそうだし、食事の時にカラフを持ってきてあげるとか、カフェを運ぶなんてのも当てはまります。
 言葉にせよ行動にせよ、常にメッセージを発していなければならないということでしょう。私はこの底流にやはり個人主義があると思います。つまり、個人=完結した自己と捉えるが故に、自分にとっての他人、そして他人にとっての自分は基本的に「得体の知れない存在」であるわけです。従って、好意を持っている人にはそのメッセージを伝え続ける、逆にメッセージがない限り「得体の知れない存在」であり続けるわけです。日本社会の場合は多分デフォルト値が「(潜在的)仲良し」なのでしょう。ですから、メッセージを発する必要性が相対的に低いのだと思います。日本人の女の子が(男でも同じでしょうが)ヨーロッパやアメリカに行って、彼らがとても親切だと感じるのもこのような背景があるのではないでしょうか?
 それにしても恋というか人間関係が一種のゲームだというのは言いえて妙ですね。一般的にはより惚れた方が負けだと言いますが。

 アメリカ人との付き合いもそれなりにありましたが、ことプレゼンテーションに関しては明らかに彼らの方が一枚も二枚も上ですね。また、プレゼンに対する入れ込み方も根本的に違うとも感じました。
 昨日の授業では(ちなみに語学学校は8月で終わり、9月からGEの授業が始まりました)一昨日のビデオを見せられたのですが、いやいやもう顔を上げるのが苦痛でした。それでもやはり演劇までやっているプロに指摘されることはいちいち尤もで、いったい目から何枚うろこが落ちたか分かりません。
 この3日間で私も含めた全員が一番注意されたのは、話しているときの呼吸でした。これがうまくできれば話すスピードも口調も自ずと整うはずだ、とのことです。ううむ、私などは息ができなくなるかもしれない。
 ところで、フランス人同士の会議で口論が激しくなると、誰かが「Zen!」と叫んで呼吸を整えることがあるそうです。無論Zen=「禅」です。


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